ギャンダマ
| 名称 | ギャンダマ |
|---|---|
| 別名 | 運玉機、神田球、勝負袋 |
| 分野 | 民俗玩具、都市遊技、擬似賭博 |
| 起源 | 1920年代の東京神田周辺とされる |
| 考案者 | 渡辺喜八郎ほか数名と伝わる |
| 材質 | 真鍮球、麻布、樫材、紙札 |
| 流行期 | 1937年 - 1958年頃 |
| 関連法規 | 旧風俗営業取締令、東京都遊技指導要綱 |
| 現存状況 | 実用品はほぼ消滅、複製品が数点確認される |
ギャンダマは、末期ので考案されたとされる、金属球と織布袋を用いる民間の運試し装置である。後にとの境界領域で研究対象となり、昭和戦後期には一部のや小規模興行で流行したとされる[1]。
概要[編集]
ギャンダマは、袋状の本体に金属球を投入し、その落下経路と音の長短によって得点を判定する民間遊技である。表向きは娯楽装置であるが、実際にはの古書店街で発達した「即断即決」の気質を可視化したものとされ、初期には小商店の景品抽選にも転用された。
名称は「ギャンブル」と「玉」を短絡的に結びつけた俗称とされるが、別説では、試行回数を重ねると「だんだん勝ちが見えてくる」ことから、神田の職人が「ギャンだま」と呼んだのが始まりともいう。なお、当初は玉の材質に周辺の鍛冶屋で出た端材が用いられたという記録がある[2]。
歴史[編集]
成立[編集]
最初期のギャンダマは頃、神田三崎町の寄席裏で、渡辺喜八郎という玩具職人が試作した木製装置に遡るとされる。渡辺はもともとの修理に従事していたが、客待ちの時間に卓上で小球が偶然分岐する機構を考案し、これが「人間の運の偏りを機械で見る」装置として評判になった。
初期型は一回ごとに紙札を三枚引く簡素な仕組みで、成功率の推定値が42.8%前後に偏っていたという[3]。この数値は後年の研究でも妙に再現性が高く、ギャンダマ愛好家の間では「神田係数」と呼ばれている。
普及と改変[編集]
に入ると、浅草の見世物小屋で実演が行われ、の縁日業者が真鍮球を導入したことで耐久性が大幅に向上した。特にの「第六回東京遊技器見本会」では、1台で1日平均286回の試行が可能と発表され、観客が玉の行方に合わせて拍子木を打つ独特の観戦文化が生まれた。
一方で、目押しに近い熟練技が必要になったため、単純な運試しではなく「半分は技、半分は祈り」と評されるようになった。これに対し、は景品表示の誤認を招くとしてに簡易規制案を出したが、当時の担当官が試遊に熱中し、会議が四時間延長したという逸話が残る[要出典]。
戦後の再編[編集]
戦後は材料不足により、真鍮球の代わりに製の球や、米軍払い下げのが用いられた。これにより音響が不規則になり、東京の下町では「鳴きギャンダマ」と「無音ギャンダマ」に派生したとされる。
にはが標本調査を行い、東京都内の喫茶店47店中12店で何らかの変種が設置されていたことを報告した。とくにの一角では、コーヒー一杯で三回試せる「モーニング玉」が学生に人気で、授業をさぼって通う者が後を絶たなかった。
構造と遊び方[編集]
ギャンダマの標準機は、高さ約118センチメートル、幅46センチメートル、奥行き39センチメートルで、樫材の枠内に六つの導線が設けられている。投入された真鍮球は、内部の布幕と木製障害板に接触しながら下方へ落ち、最終的に「大吉」「中吉」「保留」「再挑戦」などの札のいずれかを押し出す。
遊技の妙味は、玉の重さそのものよりも、袋の張り具合を開店前に微調整する点にある。熟練者は「朝の湿度が58%を超えると左寄りになる」と述べたと伝えられ、実際にの古資料には、雨天時に勝率が7.3%上昇したという記録が見える。
社会的影響[編集]
ギャンダマは、単なる遊戯器具にとどまらず、戦後都市の即興的な共同体形成に寄与したと考えられている。小規模な商店街では、抽選の結果をもとにその日の値引き幅を決める「運賃表」文化が生まれ、買い手と売り手の緊張を和らげた。
また、頃にはの一部売店で、切符待ちの客向けに簡略版が導入されたとの証言があり、同時期の交通混雑の緩和に「心理的に」役立ったとされる。なお、の青少年指導係は、ギャンダマが「失敗を笑って受け入れる訓練になる」と評価したが、翌年には「一部の児童が算数より確率に詳しくなる」として慎重論に転じた[4]。
批判と論争[編集]
ギャンダマをめぐっては、早くから「教育玩具なのか、擬似賭博なのか」をめぐる論争が続いた。特にの審議では、装置の外観が神社の賽銭箱に似ているという理由で、宗教的誤認を招くとの指摘がなされた。
さらに、昭和末期に再評価が進んだ際、一部の研究者が「ギャンダマの原型は朝鮮半島の木球占具に由来する」と主張し、反論として「いや、むしろ江戸期の升目算盤に近い」とする説が出て、学会が二年近く紛糾した。もっとも、現在ではどちらの説も決定的証拠を欠くとされ、研究者の間では「資料が少ない割に熱量が高い玩具」として扱われている。
現存資料[編集]
現存が確認されるギャンダマ関連資料は、内の私設収蔵庫に残る完全体2台、断片6点、設計図面の青焼き14枚程度である。とくにに寄贈された『神田玉具覚書』は、内部構造の図が妙に精密で、ネジの本数まで記されていることから、後年の復元に大きく寄与した。
なお、2008年にの骨董市で「初代ギャンダマ」と称する箱が出品されたが、内部から出てきた領収書の日付がであったため、真贋論争の末に「昭和後期の愛好家による再製作」と結論づけられた。こうした逸話が、かえってギャンダマの伝説性を高めている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺喜八郎『神田玉具覚書』神田工藝出版社, 1938.
- ^ 佐伯俊明『都市遊技の成立と変形』東京民俗研究所, 1956, pp. 112-139.
- ^ Margaret A. Thornton, "Probabilistic Toys in Prewar Tokyo", Journal of Urban Folklore, Vol. 7, No. 2, 1964, pp. 44-67.
- ^ 橋本菊男『戦後喫茶店における遊技装置の導入』風俗文化叢書, 1971, pp. 9-28.
- ^ Eleanor W. Pike, "Balls, Bags, and Chance: A Study of Gyandama", The East Asian Recreational Review, Vol. 12, No. 1, 1982, pp. 3-31.
- ^ 『東京都遊技器目録 昭和二十八年度版』東京都生活文化局, 1953.
- ^ 小林鳩太郎『ギャンダマ考』下町民藝社, 1990, pp. 201-246.
- ^ Michael R. Senn, "A Curious Device Named Gyandama and Its Urban Rituals", Comparative Play Studies, Vol. 4, No. 4, 2001, pp. 88-105.
- ^ 田島千恵『神田の機械仕掛け信仰』みすず書房, 2009.
- ^ 『遊技学入門――玉の落ち方は人生の落ち方か』青空出版, 2017.
外部リンク
- 神田遊技文化アーカイブ
- 東京下町玩具研究会
- 日本都市民俗資料室
- ギャンダマ復元協議会
- 下町確率玩具ミュージアム