ギンモ
| 名称 | ギンモ |
|---|---|
| 分類 | 反射性樹脂複合材/都市民俗的素材 |
| 起源 | 明治末期の東京・銀座周辺 |
| 主要用途 | 装飾、乾板補助材、舞台小道具、玩具 |
| 標準化機関 | 帝都材料委員会 |
| 流行期 | 大正7年 - 昭和12年 |
| 代表的原料 | 錫粉、和紙繊維、松脂、硼砂 |
| 関連事故 | 昭和9年の浅草乾板発光事故 |
| 別名 | 銀もどき、ギンモ紙 |
| 備考 | 一部資料では寒天系の初期配合も確認される |
ギンモは、末期の都市下層において、周辺の印刷工と電信技師の間で成立したとされる、微細な金属粉を樹脂に封入して反射率を調整するための工業材料である[1]。後にの研究者らにより「可視化された湿り気」として再定義され、玩具、写真乾板、祭礼装飾にまで応用が広がったとされる[2]。
概要[編集]
ギンモは、表面に極微細な金属粒子を分散させることで、濡れたような光沢と鈍い金属感を両立させる素材である。主としての看板製作、舞台背景、乾板の補助反射層に用いられたとされる。
名称は「銀のようで銀ではないもの」を意味する職人語に由来するとされ、制定以前の都市材料の中でも、用途の広さに比して定義が曖昧なものとして知られている。なお、文献によっては単なる塗料扱いで記述が揺れており、とされる部分が多い。
その後、期の広告業界が採用したことで一気に普及し、特にの興行街との新派劇場では、ギンモの輝度差を利用した「晴天でも曇天に見える」舞台装置が流行したとされる。
歴史[編集]
成立期[編集]
ギンモの起源はごろ、の印刷所で紙面の銀色再現に苦心していたと、電信絶縁材の改良を進めていたが偶然に作った試作品に求められる。両者は当初、錫粉を膠に混ぜた単純な顔料として扱っていたが、を少量加えることで湿度による変色が抑えられ、乾燥時に独特の虹彩が出ることが分かったという。
この試作は、工場内で「銀もどき」と呼ばれ、のちに短縮されてギンモとなったとする説が有力である。なお、最初の配合比は錫粉7、和紙繊維2、松脂1とされるが、の帳簿写し以外に確認できず、工学史家の間では疑義が呈されている。
標準化と普及[編集]
、はギンモの工業的利用を見据え、含有粒径を0.8ミリ以下、可視反射率を最低31.4パーセント以上とする暫定規格を策定した。これにより、手工業中心だった製造が半自動化され、・の小規模工房だけで月産推定4,800反が流通したとされる。
普及を後押ししたのは広告業界であり、の内部資料には「雨上がりの街路灯を模した背景材」としての注文が増えた記録がある。とりわけ三丁目の薬局看板は、夜間に文字が浮かび上がるよう見えるため、通行人が実際の店舗より一割増しで立派に認識したという。
大衆文化への浸透[編集]
初期になると、ギンモは玩具業界へ流入し、回転させると色が変わる独楽や、掌で温めると光沢が増すカードに転用された。特にの港湾地区では、荷札の代わりにギンモ片を吊るした木箱が「高級品に見える」として好まれ、密輸の目印に使われたとの逸話が残る。
また、理学部のらは、ギンモ表面に微弱電流を流すと曇りが晴れるように見える現象を「擬似気象応答」と名付け、講義ノートで紹介した。のちにこの現象は錯視であることが判明したが、講義を受けた学生の一部が卒業後に舞台照明会社を起業したため、結果的に演劇照明の発展に影響を与えたとされる。
製法[編集]
伝統的なギンモは、錫粉をふるい、和紙繊維をほぐし、を溶いた糊液に混ぜて漉き上げる方法で作られた。乾燥時にの風を当てると粒子配列が整うとして、職人の間では「北風仕上げ」と呼ばれる工程が重視された。
もっとも、の関東大震災後には、木製乾燥棚の不足から竹簀を用いた簡略法が広まり、これがかえって反射のムラを増やして「生きたギンモ」と評された。業界誌『材料と街路』は、このムラこそが都市の照明環境に適応した革新的特徴であると主張している。
一方で、粗悪品では金属粒子が剥離し、触れた衣服に銀粉が残る問題が頻発した。特に9年の浅草乾板発光事故では、劇場入口の案内板に使われたギンモが観客のコートへ付着し、ロビー全体が「雪のない吹雪」に見えたと報告されている。
応用[編集]
写真・映像[編集]
ギンモは写真乾板の補助反射層として重用され、室内撮影での顔色補正に使われたとされる。の写真館では、照明が不足する冬季にギンモ板を天井へ吊るし、顧客の頬を実際より2割ほど健康的に見せる慣習があった。
また、初期のニュース映画では、爆発や火災の場面にギンモ粉を散布して「火の粉の量」を増幅する技法が試された。これにより、映像記録における臨場感が向上した一方、上映後の清掃費が制作費の13パーセントを占めたという。
舞台・祭礼[編集]
舞台美術では、ギンモは月光、霧、雨上がりの路面を表現する素材として欠かせない存在となった。の劇場では、ギンモ幕を背景にすると役者の汗が見えにくくなるため、悲恋ものの演目に好まれた。
さらにやの屋台飾りにも用いられ、夜店の提灯に貼ると客寄せ効果が高いと信じられていた。祭礼関係者の間では、ギンモの輝きが「一年の穢れを反射して返す」と説明され、半ば呪術的な意味合いも付与された。
教育・軍需[編集]
10年代には、理科教育用の教材としても配布され、反射と湿度変化を学ぶための標本として中学校に送られた。しかし軍需転用の懸念から、は一時期、ギンモを「視認補助材第3号」として管理対象に含めたとされる。
この措置は実際には配布経路の把握が主目的であったと見られるが、結果として地方の商工会まで巻き込み、やの小学校で「銀色なのに水に弱い素材」として半ば珍品扱いされた。
社会的影響[編集]
ギンモの流行は、都市の夜景に対する感覚を変えたとされる。従来、光は電灯そのものの明るさで評価されていたが、ギンモの普及後は「光をどう受けるか」が重要視され、看板、商店街、劇場は競って反射設計を工夫するようになった。
また、労働環境にも影響があり、沿線の印刷工場では、ギンモ粉の吸入を防ぐために鼻紙の配布が義務化された。これがのちの「作業員への紙配布制度」の原型になったという説もあるが、制度史の専門家は慎重である。
文化史的には、ギンモは「本物の銀ではないのに銀より銀らしい」という逆説の象徴として扱われた。大衆雑誌『都会と素材』は、ギンモを都市の階層移動にたとえ、「見た目だけで価値が決まる時代の到来」を論じている。
批判と論争[編集]
ギンモには、環境面の批判が早くから存在した。製造時に発生する微粉がへ流入し、河岸の魚が月夜のように光るという噂が広がったためである。これについては実測が残されていないが、の町内会議事録には「川魚の腹に銀色の筋が見える」との苦情が記されている。
また、芸術家の一部は、ギンモが過剰に使用されることで舞台や装丁が「貧しいものを豊かに見せるだけの欺瞞」になると批判した。これに対し、職人側は「欺瞞ではなく都市の礼儀である」と反論し、論争はの公開討論会まで持ち込まれた。
さらに、ギンモの発明者をめぐっては単独説と、共同発明説が対立している。後年の回想録では第三の人物として「無記名の女工」が登場するが、名前が一切残っておらず、研究者の間では最も信頼できないが最も語りたがられる存在となっている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『ギンモ試作録』京橋材料研究会, 1911年.
- ^ 小林トメ吉『電信絶縁材と反射粒子の関係』工業材料出版社, 1914年.
- ^ 有沢清一『可視化された湿り気の理論』東京帝国大学出版会, 1922年.
- ^ 帝都材料委員会編『反射性複合材標準規格案』帝都材料委員会, 1916年.
- ^ 佐伯芳雄「ギンモの都市的流通について」『材料と街路』Vol. 3, No. 2, pp. 41-58, 1928年.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Moist Silver Problem in Early East Asian Coatings,” Journal of Urban Materials, Vol. 12, No. 4, pp. 201-219, 1933.
- ^ 平山久子『祭礼装飾における金属粉の心理効果』河出書房, 1937年.
- ^ Frank D. Ellison, “Reflective Humidity and Stage Illusion,” Proceedings of the Imperial Theatre Society, Vol. 7, pp. 88-103, 1941.
- ^ 山岸進『浅草乾板発光事故報告書』日本写真工業連盟, 1934年.
- ^ 長谷川礼子『銀ではない銀の文化史』青磁社, 1968年.
- ^ T. Nakamura, “A Study on Ginmo Sheets and Their Weathering,” Transactions of the Tokyo Society of Applied Folklore, Vol. 5, No. 1, pp. 9-27, 1959.
- ^ 『ギンモと都市照明の歴史』帝都資料館紀要 第17巻第3号, pp. 115-142, 1972年.
外部リンク
- 帝都材料アーカイブ
- 東京近代工業史データベース
- 浅草興行資料館電子目録
- 都市民俗研究ネットワーク
- 反射素材史研究所