シスマ(日本)
| 分野 | 民俗統計学・都市観測 |
|---|---|
| 地域 | 主に、特に〜の商業圏 |
| 主な対象 | 交通・購買・天候の「つながりのずれ」 |
| 成立の経緯 | 記録係のあいだで慣用化されたとされる |
| 関連用語 | 兆差図、匂配(におはい) |
| 典型的な指標 | 路面湿度・吊紐揺度・売掛返済遅延の同時発生 |
| 主要な論者 | 、など |
| 伝播媒体 | 帳簿・手紙・町内掲示(貼り紙) |
(しすま にほん)は、日本において幕末期から観測・記録文化の一部として扱われたとされる、生活圏の「符号化された異常」を指す概念である[1]。公式には「都市気配統計」として整理されたが、当事者はむしろ口伝で「シスマ」と呼んだとされる[2]。
概要[編集]
は、地域社会で観測される出来事のうち、「原因の説明が追いつかないのに、結果だけが規則的に重なる状態」を、符号化して記録する慣行とされる。とりわけ同じ通りで、翌週に同じ種類の損失や成功が“ずれた形”で再現される場合に、古い記録係が「それはシスマだ」と言い慣わしたとされる[1]。
概念上は単なる噂の整理にも見えるが、成立期の資料では、生活指標の組み合わせが「符号表(かなじん)」「差分帳(さぶんちょう)」として定式化されていたと記される。なお、数理的には「二項関係(A→Bと、B→Aの反転)」を重視したとされ、観測の再現性が比較的高いとして扱われた時期もある[3]。ただし、実際には読まれ方が地域ごとに分岐し、同じ現象でも呼び名が変わることが多かったと指摘されている[4]。
成立と歴史[編集]
江戸期の帳簿職人と「兆差図」[編集]
シスマ(日本)が初めて固有名として言及されたのは、の町人監督組織が「天候」ではなく「天候に伴う人の動き」を扱い始めた時期だとされる。なかでもの帳簿職人(当時の肩書は「掛け金算定の見習い」)が、売り場の人だまりと霧の濃さの差を“図”にしたことで、後年「兆差図」と呼ばれる整理法が普及したという伝承がある[5]。
渡辺は、から方面へ続く通りで、霧が出た日の夜に限って「看板の揺れ」が大きくなることを、延べ日にわたり記録したとされる[5]。この数字は後に誇張とされることもあるが、当時の記録帳が残っていないため、真偽の判定は「他の家の帳簿と照合できたか」で争われたと記録される[6]。
また、兆差図は「差分の向き」で解釈され、湿度が上がるほど売掛返済が早まるはずなのに、逆に遅れる日は“反転”として赤で塗られたとされる。この反転日が一定割合(当初は年平均とする資料がある)を超えると、集計係が自然発火のように「シスマ」を口にしたとされる[7]。
明治の官製化と「都市気配統計」への接続[編集]
明治に入ると、商業区画の再編に伴い、町内の記録が一部「官」に吸い上げられた。そこでに付随する「気配整理嘱託」のような役職が作られ、シスマは“民俗用語”から“統計のラベル”へと変換されたとされる[8]。
では、の綿布問屋街が主導し、「吊紐揺度(ちょうひつゆど)」と呼ばれる指標が導入された。これは窓際の吊り紐の揺れを、午前と午後で比較するだけの単純な測定に見えるが、実際には「紙片の沈み具合」を別添として記録し、揺れの原因を天候ではなく“売れ筋の移動”に寄せて解釈したとされる[9]。
この官製化で、シスマは「都市気配統計」の“異常分類”として組み込まれた。分類規則は少なくとも時点で、反転日(赤塗り)を『S1〜S5』に格付けし、S3以上を「流通の不均衡」として監視対象にしたとされる[10]。ただし、監視の結果、取り締まりが強まることで逆に市場の反応が遅れ、シスマが“存在しないのに再現された”ように見える現象が起きた、と後年の記述で指摘されている[11]。
仕組み(何が「シスマ」なのか)[編集]
シスマ(日本)の説明では、単一の異常ではなく「複数指標の“位相”がずれること」が中心に据えられる。たとえば、(1)路面湿度が上がった日、(2)遠方の仕入れ便が遅れた日、(3)売掛の回収が遅れた日——この3つが通常は同じ週に並ぶのに、ある年だけ“1週間ずれて”並ぶと、記録係が「位相の折り返し」としてシスマ判定を行ったとされる[12]。
判定の手順は、差分帳に「符号」(かなじん)を割り当てることで行われた。資料によれば、は“相場の沈黙”、は“印紙の動き”、は“水分と人の距離”をそれぞれ表し、さらに「同時発生の順番」を小文字で補うことで、同じ現象でも違う地域の別現象として分類し得たという[13]。
また、やや民俗的な説明として、「匂配(におはい)」が挙げられる。これは、魚市場や薬種商の周辺で漂う匂いを“測定”したものではなく、匂いを嗅いだ人の報告が似た時刻に揃うことを指す、とされる[14]。このため、シスマは科学というよりも、報告の同期を現象の一部とみなす傾向があったといえる。なお、ここが最も誤解を生み、「匂いが統計になる」ような奇妙な説明が広まったと伝えられる[15]。
社会への影響[編集]
シスマ(日本)は、当初は町内の“見立て”に過ぎなかったが、やがて商いと行政の意思決定へ影響したとされる。たとえばの米穀商では、シスマ判定が出た週に限り、仕入れ量ではなく「店先の札(ふだ)の色」を変えたという逸話が残っている。『S3の週は白札、S4の週は藍札』と決め、顧客の来店動線が変わることで結果的に回収が安定した、とされる[16]。
さらに、鉄道が拡大する時期には、シスマが「遅延連鎖」の説明に利用されたとされる。駅の到着遅れそのものではなく、到着遅れが“どの店の仕入れに繋がるか”という連結をシスマとして扱い、運用担当が仕入れ先との連絡順を調整したという記述がある[17]。ただし、この調整は手続きの増加を招き、現場では「シスマは便利だが、便利さが新たな遅れを作る」との批判も生まれたとされる[18]。
一方で、教育にも波及したとされる。の一部で、差分帳の読み方が“家計簿の高度版”として教えられ、子どもが家庭内の兆差図を作る課題が出されたという。もっとも、当時の記録では課題の提出率がに達した一方、提出物のうち“赤塗りの多すぎるもの”が教師に没収されたとされ、教育現場らしい騒動があったことが示唆されている[19]。
批判と論争[編集]
シスマ(日本)には、合理性を主張する流れと、民俗の面影が残るとして否定する流れが併存した。合理派は、位相のずれを統計として扱えば再現性が担保されるとしており、たとえばは「赤塗り率が一定なら判定が成立する」とする論文を出したとされる[20]。
他方、否定派は、差分帳の基準が地域の語りに引きずられ、観測者の“期待”が結果を作ってしまうと指摘した。特に官製化後、監視が強まった都市では、対象が“異常の物語”に合わせて振る舞いを変えるため、シスマが見かけ上増える(または減る)という逆説が起きたとされる[11]。
また、最も有名な論争として「海に近い町ほどSが出やすいのか」という問題がある。ある検討会では、との帳簿を比較し、海沿いのS3〜S5の割合がそれぞれととほぼ一致したと報告された[21]。ただし同時に、帳簿の記録開始日がどちらも偶然同年同月で、しかも筆跡が“同じ筆圧”に揃っていたという指摘が出て、結論は宙に浮いたままだとされる[22]。この事件は、シスマが「観測」ではなく「編集」になり得ることを象徴する出来事として引用される。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『兆差図の読み方:江戸町帳簿秘録』三省堂, 1888年.
- ^ 斎藤綾音『都市気配統計とS分類(S1〜S5)』日本統計叢書, 1896年.
- ^ 山内恵一『符号表(かなじん)と報告の同期性:シスマ現象の再解釈』Vol.12第3号, 社会観測評論, 1907年.
- ^ Katherine D. Holloway『Phase Misalignment in Pre-Industrial Urban Networks』Oxford Urban Folklore Studies, Vol.4 No.2, 1911年.
- ^ 内務省 地方局 編『気配整理嘱託要覧』東京官版, 1892年.
- ^ 北条直人『吊紐揺度の測定誤差:紙片沈みと揺れの関係』第5巻第1号, 測定技術月報, 1902年.
- ^ 中村勝『売掛返済と赤塗り:反転日の経済学的含意』商業記録学会紀要, pp.101-134, 1913年.
- ^ Eiji Kuroda『Codified Anomalies and the Myth of Repeatability』Journal of Civic Mythology, Vol.7, pp.55-79, 1920年.
- ^ 田鶴川すみ『師範学校における差分帳実習の効果』教育方法研究, 第9号, 1905年.
- ^ 『気配統計の成立史(増補改訂版)』日本学術出版社, 1931年.
外部リンク
- シスマ資料館アーカイブ
- 兆差図デジタル写本室
- 都市気配統計研究会サイト
- 差分帳の作り方(掲示板版)
- S分類早見表倉庫