スギ花粉の排出量削減条約
| 正式名称 | スギ花粉の排出量削減条約 |
|---|---|
| 通称 | 花粉削減条約 |
| 署名 | 1978年3月14日 |
| 発効 | 1981年11月1日 |
| 締約国数 | 12か国(1994年時点) |
| 事務局 | 環太平洋花粉調整委員会 |
| 主対象 | スギ林の人工受粉管理、剪定、開花抑制 |
| 保存機関 | 国際森林衛生文書館 |
スギ花粉の排出量削減条約(スギかふんのはいしゅつりょうさくげんじょうやく、英: Cedar Pollen Emissions Reduction Treaty)は、の開花期における花粉の大気放出量を国際的に抑制することを目的とした多国間協定である。主にで知られているが、沿岸の林業国にも影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
スギ花粉の排出量削減条約は、期に急増した花粉症被害と、の省力化が招いた「無制御開花」を背景として構想されたとされる協定である。条約の中心理念は、スギを伐採するのではなく、花粉の飛散そのものを管理対象にする点にあった。
制定当初は林産局の一部局文書として扱われていたが、1970年代後半にの沿岸部で観測された異常飛散記録が国会で問題化し、外交案件へと格上げされた。なお、当時の交渉では「花粉は排出物に含まれるのか」という定義論争が起こり、会議は3日間中断されたと記録されている[2]。
成立の背景[編集]
「白い雨」と呼ばれた現象[編集]
1969年春、周辺で、道路脇の水たまりが薄黄色に変色する現象が続発し、住民のあいだで「白い雨」と呼ばれた。後年の調査では、これは林からの花粉が夜露に付着し、朝方に一斉放出されたためであると説明されたが、当時は工場排煙と誤認されていた。
この誤認がきっかけとなり、の前身にあたる臨時調査班が設置された。班長を務めたは、花粉を「季節性の微細公害」と定義し、排出量の数値管理を提案したことで知られる。彼の試算によれば、成熟林1ヘクタールあたりの年平均放出量は約1億8,400万粒であったという[要出典]。
箱根予備協議[編集]
1974年、の某観光ホテルで予備協議が行われ、・・の代表が同席した。ここで初めて「排出量削減」という語が用いられ、林地からの直接伐採ではなく、雄花の間引きと飛散時期の分散化が議論された。
会議資料には、林道沿いのスギ1,200本に金属製の小札を取り付けて監視する計画が記されており、試験運用では夜間の風で札が共鳴し、近隣旅館の宿泊客が一斉に避難したという。以後、条約交渉では「音の静かな管理」が技術要件として追加された。
条約本文の特徴[編集]
条約は全14条から成り、うち第3条から第7条までが花粉の測定方法に割かれている。とくに第5条では、花粉を「可視粒子」「半可視粒子」「感情誘発粒子」の3区分に分類し、後者については地域住民のくしゃみ回数を統計上の補助指標として扱うことが定められた。
また、第9条には「締約国は、花粉放出のピーク時において、航空写真上で林冠を視認できる程度の剪定を行うよう努める」との努力規定がある。これは実務上ほぼ不可能であったが、の実証区画では、剪定後に野鳥の営巣地が増えたため、環境保護団体からは部分的に評価された。
実施と運用[編集]
花粉割当制度[編集]
発効後、締約国は毎年「花粉割当量」を申告する制度を導入した。日本では1983年時点で、関東地方の主要スギ林に対し、1シーズンあたり平均9,700万粒の上限が設定され、超過分には「春期環境補助金」の減額が適用された。
これに対し、林業現場では雄花を手作業で摘み取る「摘蕊隊」が組織され、最盛期にはで延べ4,600人が動員された。摘蕊隊の帽子には黄色い帯が巻かれていたため、遠目には登山客の集団と区別がつかず、の一部駅で混雑緩和の臨時放送が行われた。
国際監視団[編集]
監視はの査察官によって行われ、彼らは携帯型の花粉計「ポレノメーターMk.II」を使用した。この装置は紙袋大の箱に風車とガラス管を組み合わせたもので、数値は安定するが、湿度が高いと係員の推測値が採用された。
1987年の巡視では、査察団がの試験林で基準値の2.3倍を記録した一方、現地の報告書では「風向きが外交上よろしくなかった」と注記されていた。こうした曖昧な運用が、条約を半ば儀礼的な国際制度として存続させた要因とされる。
社会的影響[編集]
条約は花粉症対策として広く歓迎された一方で、林業従事者のあいだでは「春を国に返した条約」とも揶揄された。とくにでは、雄花の間引き作業が季節労働化し、農閑期の収入源として一定の役割を果たしたため、反対と賛成が入り混じる複雑な受容を見せた。
また、都市部では条約成立後に「花粉排出量表示」が食品表示にならって導入され、百貨店の園芸売場では「低排出スギ」「準低排出スギ」といった苗木が高値で取引された。1989年には内の一部学校で、春の遠足が「花粉濃度指数」により中止される事例が相次ぎ、保護者会資料に条約の条文が印刷されたこともある。
批判と論争[編集]
批判の中心は、そもそも花粉を「排出量」として法的に扱うことの妥当性にあった。生物学者のは、花粉は工場煙突のように計測できるものではなく、風・地形・樹勢によって極端に変動するため、条約は「統計の体裁を借りた季節儀礼」であると指摘した。
一方で、条約擁護派は、飛散量を数値化したことで自治体の予算化が容易になり、結果としての外来受診データが政策立案に反映されたと主張した。ただし、1991年に公表された中間報告書では、削減効果の7割が「住民の慣れ」によるものであったとされ、条約の実効性には今なお議論がある。
廃止論とその後[編集]
1994年改定議定書[編集]
1994年、で開かれた締約国会議では、条約を完全に廃止し、代わりに「花粉情報の透明化」に重点を置く改定議定書が採択された。これにより、実際の削減義務は大幅に緩和され、各国は測定結果の公表と注意喚起を行えばよいとされた。
もっとも、議長国の記録によれば、最終夜の非公式会合で「花粉は減らせなくても、苦情は減らせる」との発言があったとされ、以後の政策転換を象徴するものとして引用されている。
文化史的評価[編集]
現在では、スギ花粉の排出量削減条約は、環境政策と感覚公害対策の境界を拡張した先駆的試みとして再評価されている。とくに所蔵の交渉メモには、花粉をめぐる外交文書の語彙が極端に丁寧で、ほぼすべての段落に「遺憾ながら」が含まれていることが確認される。
一部の研究者は、同条約がなければ後の対策や注意報の制度設計も遅れた可能性があると見るが、逆に「春の息苦しさを国際法で扱った唯一の例」として半ば冗談めかして参照されることも多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『季節性微細公害の国際管理』農林統計協会, 1979年.
- ^ M. A. Thornton, "Pollen Quotas and Transboundary Forestry", Journal of Atmospheric Civics, Vol. 12, No. 4, 1982, pp. 211-238.
- ^ 田口ミヨ子『花粉と政策形成――春期環境補助金の研究』日本耳鼻咽喉科学会出版局, 1986年.
- ^ Hiroshi Kanda and Elaine Morley, "The Hakone Draft and Its Aftermath", Pacific Rim Environmental Review, Vol. 8, No. 2, 1980, pp. 55-79.
- ^ 『スギ花粉排出抑制に関する国際協定集』国際森林衛生機関資料室, 1984年.
- ^ 佐伯義人『花粉割当制度の実務』林業経済新報社, 1990年.
- ^ K. Fujimura, "Measuring the Unmeasurable: Polenometers in Japan", The Review of Botanical Administration, Vol. 3, No. 1, 1987, pp. 1-19.
- ^ 『北太平洋花粉外交史』国立公文書館編, 1995年.
- ^ 長谷川真理子『感情誘発粒子の統計学』東京環境政策研究所, 1992年.
- ^ P. S. Caldwell, "Seasonal Breathlessness and Treaty Law", Annals of Comparative Public Health, Vol. 19, No. 3, 1994, pp. 144-170.
外部リンク
- 国際森林衛生文書館
- 環太平洋花粉調整委員会
- 春期環境補助金アーカイブ
- 花粉外交研究フォーラム
- ポレノメーター博物誌