スターアラウンド矢部
| 氏名 | スターアラウンド 矢部 |
|---|---|
| ふりがな | すたーあらうんど やべ |
| 生年月日 | 1912年4月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1983年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 芸能プロデューサー、現場発明家 |
| 活動期間 | 1934年 - 1981年 |
| 主な業績 | 舞台転換の同期照明システム「星周回(ほししゅうかい)」の普及 |
| 受賞歴 | (1967年)、特別表彰(1979年) |
スターアラウンド 矢部(すたーあらうんど やべ、 - )は、の芸能プロデューサー兼「現場発明家」である。〇〇として広く知られる[1]。
概要[編集]
スターアラウンド 矢部は、日本の舞台演出とテレビ中継現場をつなぐ実務者として知られた人物である。特に「スターアラウンド」と称された演出思想は、暗転・転換・再点灯を“星が巡る”ように見せることを目標に、照明卓の操作手順を物理的に標準化する試みとして発展した[2]。
彼の名が独特な理由は、矢部家が家業として営んでいた「矢部式投光機修繕」から始まり、戦時期の統制工場で配布されたコードネームが芸名に転化したためとされる[3]。この系譜は、後に娯楽産業が「現場の技術」を“物語”として語るようになる下地になったとも指摘されている[4]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
矢部はの港湾機材商「矢部光器店」に生まれたとされる。少年期、彼は街の停電を利用して、街灯の点滅周期を手帳に記録していたという逸話が残る。記録によれば、当時の横浜の送電網は“平均13分間隔で瞬断”が起きることがあり、そのたびに矢部は「光が遅れるのではなく、心が追いつかない」と書き残したとされる[5]。
家業の修繕机には、真鍮の分度器と、針金で作った即席スイッチが常備されていた。矢部はそこから、電気工学というより“段取り工学”を学んだと説明されることが多い[6]。
青年期[編集]
1930年代半ば、矢部はで巡業する小劇場の音響方に弟子入りした。彼が最初に与えられた仕事は、舞台裏の配線を束ね直すことであったが、やがて照明のタイミングを記録し、台本と照度の相関表を作るようになったとされる[7]。
1941年、彼は横浜の工場に一時動員され、統制下で「転換機構の簡易同期」を課題として与えられた。そこで使用された内部符号が“STAR AROUND”であり、彼が現場でそれを「矢部の目で見える星回り」と解釈したことが、のちの芸名の発端になったと語られる[8]。なお、この点は後年のインタビューで「符号は別だった可能性もある」との注記が付いている。
活動期[編集]
戦後、矢部は舞台照明の手順書を“台詞に近い文章”に書き換えることを始めた。たとえば、転換の合図は「暗転」ではなく「0.8拍遅れで戻る光」と表現され、結果として照明担当の熟練度に依存しない進行が可能になったとされる[9]。この思想は、後にテレビ局でも応用され、地方局の生放送で“失敗の個人差”を減らす試みとして注目された。
1952年、矢部はの試験番組に技術助言として関与したとされる。番組では、舞台転換を行う役者の退場までの時間を“ちょうど17.4秒”に収めることが目標として掲げられ、矢部はリハーサルの記録用に「返し光メモ」を導入したという[10]。また、矢部自身が照明卓のノブを“星のように等間隔”へ削り直したとされる逸話は、関係者の証言が複数残ると記されている[11]。
その後、矢部は所属事務所を転々としつつ、演出家ではなく“現場発明家”として評価を積み上げた。彼の協力案件は、演目のジャンルを問わず、毎回「舞台と画面を同じ呼吸にする」ことが共通目標として掲げられた[12]。
晩年と死去[編集]
晩年の矢部は、照明技術の伝承を目的に、若手に「手を動かす前に数える」訓練を課したとされる。たとえば、暗転直前に3回だけ深呼吸し、そのうえで“次の色温度に切り替わる瞬間”を耳で数えるよう求めたという逸話がある[13]。
1983年11月3日、矢部はで死去した。享年は71歳とされるが、同年の死亡通知の写しには70歳と記載されている例もあり、年齢の整合性は当時から混乱を孕んでいたとも指摘されている[14]。
人物[編集]
スターアラウンド 矢部は、物語作りよりも段取りの詩人だと評されることが多かった。彼は打合せで、作品のテーマより先に「暗転の角度」「戻り光の立ち上がりカーブ」「観客の視線が再捕捉するまでの時間」を確認したとされる[15]。
性格面では、几帳面でありながら、現場では大胆に手を入れるタイプだった。たとえば、ある地方公演で照明の調光器が不調になった際、彼は配線図を廃棄してしまい、代わりに“当日の床の傷の位置”を基準にして即席で水平を割り出したという[16]。この行為は乱暴とも見られたが、結果的に進行は予定通りになり、関係者を驚かせたとされる。
一方で、矢部は他人の評価に対して執着しなかった。受賞時にも、トロフィーを事務所の棚ではなく照明室の端に置き、来客には「これは手順の記念品であって、あなたの顔ではない」と言ったと伝えられる[17]。
業績・作品[編集]
矢部の業績は、作品というより“運用体系”として残ったと説明されることが多い。彼の代表的な成果は、照明と舞台転換の同期を目的にした「」と呼ばれる手順書の体系である[18]。
は、照度計の数値を台本のページ番号と連動させ、さらに合図を音ではなく“光の順番”で示す仕組みとして普及した。矢部はそれを「音は聞こえ方で変わるが、光はだいたい裏切らない」と述べたとされる[19]。当時の業界では「光で命令する演出」は反発もあったが、結果として地方公演の品質安定に寄与したとされる。
また、矢部は著作として『』を残したとされるが、実際の初版の表紙にある年号はではなくとされる。版による混乱は校訂の都合と説明される一方で、矢部が“年号は舞台の都合で揺らぐ”という思想を持っていたからだと語る記録も残っている[20]。
彼が関与した代表的な番組としては、連続舞台中継「星の回廊(ほしのかいろう)」が挙げられる。同番組では、毎回の暗転が0.7秒単位で測定され、観客調査では「まばたきのタイミングが揃う」ことが好評だったとされる[21]。もっとも、この調査方法はのちに「被験者の視線誘導が過剰」とも批判された。
後世の評価[編集]
スターアラウンド 矢部は、技術者でありながら芸能の作劇にまで踏み込んだ人物として評価されている。舞台転換の失敗が“演技の失敗”に見えてしまう問題を、手順と同期設計で分離した点が功績とされる[22]。
一方で、矢部の方法は「演出を分解しすぎる」との反論もあった。演出家の一部からは、光の順番が硬直的になることで“偶然の気配”が消えるという指摘が出たとされる[23]。この論点は、1970年代以降の生放送の増加に伴い、技術標準化と表現の自由度の対立として再燃したとも述べられている。
その後、彼の名前は技術教育の文脈で参照されることが増えた。たとえばでは、手順書の書式を学ぶ講習に「矢部式テンポ表」を導入したとされるが、講習資料の一部に誤植があったために、受講者が“13分間隔の瞬断”を例題にしたまま学んだという笑い話まで残っている[24]。
系譜・家族[編集]
矢部家は代々、光器の修繕を家業としてきたとされる。スターアラウンド 矢部の父は「矢部光器店」二代目の、母はの繊維問屋に縁のあると紹介されている[25]。ただし家系図には複数の系統があり、母の旧姓については異説もある。
矢部には弟がいたとされ、昌義は機材調達を担当した人物として知られる。弟は“手配の速さ”を競う癖があり、ある公演では必要部品を予定より2時間早く届けた代わりに、矢部がその部品の設置手順を再学習させられたという冗談がある[26]。
矢部の死後、照明技術の伝承は弟子筋へと移り、「矢部式の合図は星の順番」という言い回しだけが残ったとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 星周回研究会『星周回と舞台同期:現場記述の系譜』東海出版, 1969年.
- ^ 山川澄人『光順番演出論』青柳書房, 1974年.
- ^ 矢部昌義『矢部光器店の手順書』港湾工房, 1953年.
- ^ 【NHK技術研究所】『生中継における転換同期の試験報告』日本放送出版, 1952年, pp. 41-63.
- ^ Margaret A. Thornton『Audience Timing in Live Performance』Vol. 12, Journal of Applied Stagecraft, 1971, pp. 201-219.
- ^ 斎藤礼次『調光器の常識を壊す方法』映像工芸社, 1963年, 第3巻第2号, pp. 15-28.
- ^ 田中美咲『舞台転換の“個人差”をなくす設計』演出教育出版社, 1980年, pp. 5-22.
- ^ 清水隆一『暗転の角度と視線の再捕捉』光学演出学会誌, 1977年, Vol. 6, No. 4, pp. 77-89.
- ^ スターアラウンド 矢部『転換機構と観客の息』無名工房, 1958年, pp. 9-34.
- ^ E. Watanabe『On the Star-Around Cue System』演出工学レビュー, 1967年, 第1巻第1号, pp. 1-10.
外部リンク
- 星周回保存協会
- 矢部式テンポ表アーカイブ
- 横浜港湾機材商資料館
- 生放送同期研究会
- 光器店の手順帖(個人サイト)