田所太
| 氏名 | 田所 太 |
|---|---|
| ふりがな | たどころ ふとし |
| 生年月日 | |
| 出生地 | |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 官製民間芸能研究家・記録編集者 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 地方芸能の「呼吸譜(こきゅうふ)」体系化、全国巡回記録の整備 |
| 受賞歴 | 内務省芸能記録賞(第1回)、文化協会功労章 |
田所 太(たどころ ふとし、 - )は、の官製民間芸能研究家。〇〇として広く知られる[1]。
概要[編集]
田所太は、で地方芸能の上演様式を「譜(ふ)」として記録し、のちの官製文化事業に転用できる形へ整備した人物である。とりわけ彼が推した「呼吸譜」は、役者の口上や所作の間合いを一定単位で表す方法として知られる。
彼の名は、単なる民俗学者ではなく「行政と現場の通訳」として広く記憶されている。実際、田所は系の事業に協力しつつ、現地の座元(ざもと)からは「余計な算数を持ち込んだ人」と評されたという[2]。ただし晩年になると、その算数が逆に保存の最後の砦になったとして評価が逆転したとされる。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
田所は、の海辺に近いに生まれたとされる。父は漁具の金具を扱う職人であり、母は祭礼の帳面を取り仕切っていたと伝えられる[3]。
少年期の田所は、夜の集会で灯された提灯の数を数える癖があったという。ある伝記では、彼が「提灯の揺れを8段階に分類できる」と書いており、8段階のうち“最も破綻が少ない揺れ”を「標準揺れ」と呼んでいたと記される。ただしこの記述については、後年の弟子が脚色した可能性が指摘されている[4]。
青年期[編集]
、田所はの附属講習に入り、記録技術を学んだ。彼は当初、図面の文字組みに関心を持っていたが、講習の実習で「舞台の沈黙」もまた測定対象になることを知ったとされる[5]。
青年期の田所は、の古書店を巡って台本を集め、余白に“沈黙の秒数”を書き込んだ。ある時期には、沈黙を測るために時計の秒針を直接数えるのではなく、足袋の底が床を離れる間隔を利用したという。後の研究者は「科学的というより現場的」と評した一方、田所本人は“科学は現場に負けるべきではない”と反論したとされる[6]。
活動期[編集]
田所が名を上げたのはに着手した「呼吸譜」の試作である。彼は地方座を巡り、口上の前後に現れる微細な息継ぎを「3小節=9呼吸」などの比率で書き落とす方式を提案した。これにより、録音が乏しい時代でも“演技のタイミング”を再現できる可能性が示されたと主張された[7]。
、田所はの地方文化整理方針に呼応し、「全国巡回記録」を計画した。巡回班は全57名で編成され、各県につき最低2座、補助として“子どもの目に触れる回”を1回記録するという厳密な基準が置かれたとされる。ここで奇妙なのは、田所が「子どもの目」を保存の指標にした点である。彼は“大人の拍手は妥協を含むが、子どもの瞬目には真実が宿る”と述べたと伝えられる[8]。
戦時期には、記録用紙の配給が難航したため、田所は古い申請書の裏面を再利用し、墨の濃度を測るために指先を紙に押し付ける簡易試験まで導入したという。このエピソードは資料中でやけに具体的であり、「ほとんど役所の手順書である」と評する編集者もいる[9]。
晩年と死去[編集]
、田所は現役の巡回を終え、「呼吸譜の一般化」に専念した。彼は若手に対し、譜の単位を固定し過ぎないよう注意した。なぜなら、現場の身体差を“誤差”として扱いすぎると、むしろ失敗の形だけが保存されるからだと説明したとされる[10]。
田所は、内の自宅で死去した。享年は85歳とされるが、同時代の新聞では「84歳」とも記されている。これは誕生日の計算方法に関する誤植だとする説と、田所が自分の年齢を“舞台上の都合”で1年ずらして申告していたという説があり、どちらもそれらしく残っている[11]。
人物[編集]
田所は几帳面で、会議では必ず「メモは3種類に分ける」と言ったとされる。第一のメモは事実、第二は“声の張り”の所見、第三は“沈黙の気配”である。彼は第二と第三のメモに同じペンを使わず、色ではなく匂いで区別したという。青インクの匂いを「現場の風」と呼び、赤インクを「記録の熱」と呼んだとされるが、これについては“ロマンの付け足し”だと見る向きもある[12]。
また、田所は座元に対して妙に親密であった一方、行政担当には敬語が過剰になった。ある逸話では、役所の担当者が「とりあえず書類を整えてください」と言った瞬間、田所が深くうなずき「承知しました。とりあえず整えるのは、どの“沈黙”でしょうか」と聞き返したという。周囲は笑ったが、その後の書式は確かに整ったと伝えられる[13]。
彼の最大の癖は、記録が終わると必ず座布団の配置を変えないまま写真を撮ることである。後世の研究者は「呼吸譜は言葉よりも身体の配置に依存する」という彼の信念の表れだと説明する。なお、座布団が少しでもずれていると「呼吸が嘘をつく」と真顔で言ったとされる[14]。
業績・作品[編集]
田所の中心的業績は、地方芸能の上演を“再現可能な形式”へ落とす方法を提案した点にある。彼は系の協力を得て、呼吸・間合い・視線の角度を数表にする「呼吸譜」を制度に接続したとされる[7]。
作品としては『呼吸譜綱要(こきゅうふこうよう)』が代表的である。全3部構成で、第1部は「息継ぎの比率」、第2部は「台詞前の沈黙」、第3部は「見得(みえ)の視線角度」を扱うとされた。特に第2部では、沈黙を“0.8秒群”“1.2秒群”と分類する方式が採られ、読者は演技を録音なしで追えると主張された[15]。
ほかに『子どもの瞬目帳(しゅんもくちょう)』がある。これは“観客の反応”を数値化した資料集として説明されるが、田所は反応の数を「拍手」「笑い」「息を飲む」の3項目だけに絞った。彼は「情報は多いほど腐る」と書き残したとされる。ただし、この書が一度だけ改訂され、改訂版では項目が「拍手」「えへん」「沈黙」へ変わったという奇妙な伝承もあり、真偽は定かでない[16]。
後世の評価[編集]
田所の評価は長らく割れていた。保存に貢献したという見方がある一方、芸能を“測定可能なもの”に寄せることで、現場の揺らぎや即興性が失われる危険があったという批判も受けたとされる[17]。
一方で、以降に地方芸能の復興事業が広がると、田所の記録様式は実務に耐えるとして再評価された。特に『呼吸譜綱要』は、録音の残らない公演の再現に使われたという報告が複数ある[18]。
評価を決めたのは“数表の厳密さ”ではなく、“数表に入らない要素も別枠で残した”という姿勢だとする論者もいる。田所は「譜に収まらないものは、余白として保存せよ」と述べたと記されている。なお、余白の量を測るために“紙の右上だけは触るな”と指導したという話が残っており、この部分はやや滑稽であるとも評される[19]。
系譜・家族[編集]
田所家は、における祭礼記録の慣習を代々担ってきた家系であるとされる。田所自身は、村の名簿係を兼ねていた祖父の影響を受けたと伝わる[3]。
田所はに、の帳付業(ちょうつけぎょう)を営む家の娘、宮城すみ(みやぎ すみ)と結婚した。彼女は“数字に強いが、舞台には乗らない”という役割分担を自覚していたとされ、田所の記録が家庭内の裏方で支えられたと記される[20]。
子の田所澄雄(たどころ すみお)は、父の死後に呼吸譜の整理を引き継ぎ、の文書室に資料を寄贈したとされる。なお、澄雄の寄贈先が二転三転したという噂もあり、資料の所在に関しては「一部は系にあるが、残部は倉庫で眠っている」とする証言が残っている[21]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田所健三『呼吸譜綱要の成立事情』博雅書房, 1959.
- ^ 山城律子『記録と現場の距離:田所太の方法』青嵐社, 1974.
- ^ Kobayashi, Haruto. "On the Breath-Interval Notation in Early Japanese Stage Archives." Journal of Performative Documentation, Vol.12 No.3, 1966, pp.41-63.
- ^ 佐伯倫太『子どもの瞬目帳の真贋検討』東京文庫, 1981.
- ^ Ministry of Home Affairs Archive 編『地方芸能整理方針 別冊(呼吸譜関連)』第2刷, 内政資料館, 1937.
- ^ Rossi, Maren. "Administrative Translation of Folk Performance." Transactions of the Society for Civic Culture, Vol.7, 1971, pp.101-130.
- ^ 田所澄雄『余白保存論:譜に収まらぬものの扱い』瑞雲出版, 1976.
- ^ 鈴木亘『神栖の提灯分類と田所太』潮騒史談, 1962.
- ^ 宮城すみ『帳付業の一日:数字で舞台を守る』家庭史編集局, 1949.
- ^ (要点が一致しない)西川信一『沈黙秒数の政治学』新月書房, 1969.
外部リンク
- 呼吸譜アーカイブ(旧式)
- 地方芸能記録研究会
- 内務省資料館データベース
- 子どもの瞬目保存プロジェクト
- 田所太資料目録(私家版)