チンポーニ・フェラルドルフ
| 名称 | チンポーニ・フェラルドルフ |
|---|---|
| 分類 | 都市音響工学、行政技法 |
| 起源 | 1887年ごろ、ジェノヴァ港湾区 |
| 提唱者 | エンリコ・チンポーニ、クララ・フェラルドルフ |
| 主用途 | 道路騒音の再配分、駅前広場の静音化 |
| 導入例 | ミラノ、チューリヒ、横浜山下地区 |
| 特徴 | 鐘楼・噴水・舗装材の共鳴を逆利用する |
| 批判 | 測定値が季節風に左右されるとされた |
| 現在の扱い | 一部の音響史研究で参照される |
チンポーニ・フェラルドルフは、末ので考案されたとされる、密閉型のとを兼ねた都市計画技法である。のちにの山岳鉄道網と結びつき、の「静音行政」の原型になったとされている[1]。
概要[編集]
チンポーニ・フェラルドルフは、都市空間における騒音を「抑える」のではなく、建築物や路面、植栽の配置によって別の方向へ逃がすことを目的とした技法である。名称は、の土木技師と、で気流研究に従事した音響学者の共同報告書に由来するとされる[1]。
この技法は、の万国衛生会議で「都市の静けさは衛生に含まれる」とする補助議題が採択されたことを契機に広まった。もっとも、実際には港湾倉庫の荷役音を駅前に流し込まないための実務的工夫が先行しており、後年になって理論化されたとする説が有力である[2]。なお、初期の資料では「フェラルドルフ式共鳴線」とだけ記され、現在のような複合名称になったのは以降である。
成立の背景[編集]
後半のでは、鉄道敷設と港湾近代化に伴い、汽笛・鐘・荷車音の増加が都市行政上の問題とされていた。特に沿岸の都市では、海霧が音を遠くまで運ぶため、同じ広場の騒音が午前と夕方で異なる方向に増幅される現象が報告されている[3]。
は当初、軍港の爆発音を測るための簡易反響箱を設計していたが、これが市場や修道院の回廊で予想外に有効であったことから、街路設計への転用が進んだとされる。一方のは、で氷河音を測定する実験を行っており、音が「壁にぶつかる」のではなく「角を曲がって流れる」ように見える条件を整理したという[4]。この二人の共同作業が、後のチンポーニ・フェラルドルフの骨格になった。
技法[編集]
反響路の三角配置[編集]
基本原理は、広場の四隅に対して三角形を少し崩した配置で石柱・植栽・掲示塔を置き、反響が中心部へ戻る前に路地へ逃げるよう導くことである。理論上は騒音を消すのではなく、測定上の最大値をほどずらすとされる[5]。ミラノ市の記録では、同様の配置を採用した地区で、朝の鐘の苦情件数がからに減少したが、代わりに猫の鳴き声が増えたという。
舗装材の共鳴封じ[編集]
フェラルドルフ派は、石畳の素材そのものを音響装置の一部として扱った。硬い花崗岩を使うと振動が長く残るため、流域の一部では、表層に粉砕した陶片を混ぜることで、足音の戻りを散らしたとされる。もっとも、これにより雨天時の滑りやすさが増し、の冬季には「静かながら転びやすい通り」と批判された[6]。
鐘楼との協定[編集]
多くの都市では、教会や市庁舎の鐘楼と個別協定を結び、打鐘時刻を数分ずらして重なりを避けた。チューリヒでは、午前7時・正午・午後6時の鐘をそれぞれずつ遅延させる「三呼吸制」が採用されたとされ、都市計測局の報告書では「静けさそのものより、静けさが来る予告が重要である」と要約されている[7]。
普及と制度化[編集]
、市が「公共静音区画条例」を制定すると、チンポーニ・フェラルドルフは工学技法から行政手続へと性格を変えた。これにより、新設道路の認可には騒音流向図の提出が必要となり、都市計画官は交通量だけでなく「声の滞留時間」まで審査したという。
にはが山岳駅のホームに導入し、トンネル出口付近の反響を抑えるため、石造ベンチを斜めに据える方式が標準化された。さらにの外国人居留地周辺でも試験導入が行われ、の倉庫群では潮風が音を遠くへ運ぶことを前提に、看板の角度まで調整されたと記録されている[8]。
この頃から、各地の新聞はチンポーニ・フェラルドルフを「静音術」「都市の耳栓」などと呼び始めた。ただし、実際の現場では建築意匠や衛生行政との調整に時間を要し、完成後に「結局、広場の真ん中に変な花壇ができただけ」と揶揄される例も少なくなかった。
批判と論争[編集]
最大の批判は、効果測定がきわめて曖昧であった点にある。音響計は初頭にはまだ高価で、自治体はしばしば「体感として静かになった」という住民アンケートを根拠に事業を継続したため、統計の信頼性が問題視された[9]。
また、都市の騒音を「逃がす」発想が、しわ寄せを周辺地区へ転嫁するだけではないかとの指摘もあった。とくに北部では、中心街の鐘の響きが労働者居住区へ偏って届くとして、に小規模な抗議集会が開かれている。これに対し、チンポーニ派は「音は止めるより流すべきである」と反論したが、この言い回しがそのまま皮肉の定型句になった。
後世への影響[編集]
後、チンポーニ・フェラルドルフは実務技法としては急速に衰退したが、都市音響学の文献では「測定値と住民感覚の差を示した古典例」として引用され続けた。特にのおよびの共同研究では、戦後復興期の広場設計において、この技法の「見えない境界線」の考え方が再評価された[10]。
一方で、一般文化では「静かにするために別のところへ押し出す」という比喩表現として残り、役所のたらい回しを指す婉曲語にもなった。なおのの特集番組では、現存する設計図が本物かどうかをめぐって学者が2時間以上議論し、最後に司会者が「少なくとも都市は静かに見えます」と締めくくったとされる。
評価[編集]
現代の研究者は、チンポーニ・フェラルドルフを「音の消去技術」ではなく「社会が不快をどこへ配置するかを可視化した制度」とみなす傾向がある。とりわけ、・・の三類型で効果が異なった点は、都市の音環境が単純な測定値では捉えられないことを示したとされる[11]。
ただし、史料の一部には、チンポーニとフェラルドルフが同一人物であったとする署名の混乱、あるいはの会議録に「静音柵」と「沈黙柵」の双方が現れるなど、編集史上の疑義がある。これらは後世の伝承と実務書が混ざった結果と考えられているが、逆にその曖昧さこそが、この技法を長く生き残らせた要因と見る説もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Giovanni Bellucci『Trattato delle vie silenziose』Firenze Urban Press, 1898.
- ^ M. A. Ferraldorf『Über die Umlenkung des Stadtlärms』Vol. 12, No. 3, Schweizerisches Archiv für Akustik, 1901, pp. 44-67.
- ^ 内藤俊介『都市騒音の行政史』中央計画出版, 1977.
- ^ Clara Ferraldorf『Wind, Stone, and Echo in Alpine Stations』Vol. 4, No. 1, Journal of Applied Civic Acoustics, 1908, pp. 8-29.
- ^ 佐伯常雄『静けさの都市設計』港湾文化社, 1964.
- ^ Pietro Cimpone『La teoria delle piazze deviate』Milano Technical Review, 第8巻第2号, 1895, pp. 101-146.
- ^ 渡辺真一郎『明治期横浜における音環境整備』関東史料刊行会, 1991.
- ^ E. R. Vahl『On the Three-Breath Regulation of Bell Towers』Vol. 19, No. 4, Proceedings of the Continental Institute of Noise Studies, 1911, pp. 211-233.
- ^ 坂口みどり『都市の耳と住民感覚』東京学芸出版社, 2005.
- ^ A. Marchesi『Postwar Reappraisal of Ferraldorfian Quiet Corridors』Vol. 27, No. 2, Urban Heritage Quarterly, 1968, pp. 55-80.
- ^ 『静音区画条例集成』トリノ市行政文書室, 1902.
外部リンク
- 欧州都市音響史協会
- ジェノヴァ港湾文書館
- チューリヒ反響研究会
- 横浜近代音環境アーカイブ
- 静音行政研究フォーラム