田所 透
| 氏名 | 田所 透 |
|---|---|
| ふりがな | たどころ とおる |
| 生年月日 | 1897年4月18日 |
| 出生地 | 兵庫県明石郡大久保村 |
| 没年月日 | 1974年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 土木思想家、港湾安全研究者、著述家 |
| 活動期間 | 1921年 - 1968年 |
| 主な業績 | 六脚分散理論の提唱、可搬式テトラポット模型の設計、沿岸配置基準の民間普及 |
| 受賞歴 | 港湾技術協会功労章、明石海事文化賞 |
田所 透(たどころ とおる、 - )は、の土木思想家、港湾安全研究者である。防波構造体の体系化を独力で行った人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
田所 透は、出身の土木思想家であり、初期から中期にかけての補助構造に関する研究で知られた人物である。とりわけと呼ばれる四脚分散型の消波体を、単なる構造物ではなく「港の沈黙を保つための道具」と位置づけた点が特徴であった[1]。
彼はやでの観測記録をもとに、波浪が堤頭部に集中する問題を数値化し、六脚分散理論をまとめたとされる。なお、当時の土木局では「港湾の家庭化を助ける珍説」として扱われたが、その後代の港湾整備政策に影響を与えたという説が有力である[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
田所は、近郊の海苔網業を営む家に生まれる。幼少期から潮位板の数字を拾う癖があり、に落ちる木片の挙動を日ごとに記録していたという。小学校時代には、校庭の砂山に箸を差して波除けの角度を試す遊びを続け、教師から「異様に実験的な子」と評された。
家業を手伝う一方、相当の旧制教育を受け、のちに工学部に進学したとされる。ただし、入学時の記録に「土砂試験器を自作して持ち込んだ」との記述が残る一方、本人の署名はやや稚拙で、後年の研究者からは代理筆記の可能性が指摘されている[要出典]。
青年期[編集]
、田所はの臨時調査班に加わり、高潮後の岸壁に残された破損痕を採取した。ここで彼は、単一の大塊よりも複数の突起を持つ構造のほうが、反射波を分散できると着想したとされる。翌年には私費で石膏模型を点製作し、そのうち点を石炭殻で補強したため、同僚の間で「炭殻田所」と呼ばれた。
にはの前身組織で小規模な口頭発表を行い、四脚体を並べることで互いの影響を打ち消す「四位一体配置」を提案した。この理論は理解されにくかったが、の台風被害後に再評価され、沿岸部の町村役場から問い合わせが急増したという。
活動期[編集]
活動期の田所は、単なる研究者ではなく、普及家としての側面を強めた。には『港の足場学』を自費出版し、系の技師や関係者に献本した。書中では、テトラポットの名称について「四脚の陶製鍋から転じた民間語である」と説明しており、語源は現在でも議論がある。
、の試験区域で高さの試作体基を設置し、波高の平均低減率をと記録した。もっとも、この数値は観測班の一人が潮時表を見誤って付けた可能性があり、後年の再計測では前後に修正されている。それでも田所は「誤差は海の礼儀である」と述べ、修正値をむしろ歓迎したと伝えられる。
戦後は港湾局の委託を受け、に『沿岸沈静化のための六脚分散配置要綱』をまとめた。この文書は正式な法令ではないが、地方港湾での採用率が時点で港に達し、民間工場でもコンクリート製の大量成形が始まった。
晩年と死去[編集]
晩年の田所はのに隠棲し、潮騒を聞きながら小型模型の重心を調整する生活を送った。近隣住民には、毎朝に海へ向かい、砂浜に六脚の輪を描いてから帰る姿が目撃されている。
、田所は歳で死去した。死因は慢性肺疾患とされるが、遺族の証言によれば最期まで「足の数は偶数に限る」と繰り返していたという。葬儀では、参列者が各自テトラポット型の白木札を持参し、海辺の式場に個並べたことが記録されている。
人物[編集]
田所は寡黙である一方、説明を始めると止まらない性格であったとされる。特に、波の進路を鉛筆で示す際に必ず本の補助線を引く癖があり、弟子たちはそれを「田所の四重敬礼」と呼んだ。
逸話として有名なのは、の現地視察での漁師に「その石は何の役に立つのか」と問われた際、「役に立つのではない。役に立つふりをさせるのだ」と答えた話である。もっとも、これは後年に脚色された可能性があり、同席した職員の手帳には「難解な笑みを浮かべる」とだけ記されている。
また、田所は事務官や学生に対しても丁寧で、原稿の余白に赤鉛筆で「波は待ってくれない」と書き込むことが多かった。ところが晩年になると、模型の番号札をからまでではなく、、のようなローマ数字混在表記に変えたため、整理係を困らせたという。
業績・作品[編集]
田所の業績は、テトラポットを単体の工業製品ではなく、配置・管理・更新まで含む「港湾の作法」として定義した点にある。彼は六脚分散理論により、互いに前後で接する複数の消波体が、単独配置よりも反射波を抑えると主張した。
代表作は『港の足場学』、『六脚分散配置概論』、『波を減らすより、波に選ばせる方法』の冊である。最後の書名は講演原稿の見出しをそのまま書籍化したものとされ、書店では「随筆か工学書か判別しにくい」と評された。
彼が設計したとされる可搬式テトラポット模型は、骨格にの芯を入れ、縦横センチ程度に収めたもので、からにかけて各地の港で巡回展示された。展示台には「触れるな、しかし学べ」と書かれており、子どもたちが実際に触ってしまう事故が件報告されている。
なお、田所は設計図の余白に魚の名前を書き込む習慣があり、後年の研究者はそれを「潮流注釈」と呼ぶ。だが、少なくとも、、の三種類は、単に昼食の献立をメモしたものだとする説もある[要出典]。
後世の評価[編集]
田所の評価は、戦前には奇人、戦後には先駆者として揺れた。港湾工学の分野では、彼の理論そのものよりも、現場の経験を図面へ翻訳する態度が高く評価されている、テトラポットの普及により浜辺の景観が均質化したとして、には自治体住民から「海が展示場のようだ」という批判もあった。
にが行った座談会では、田所を「近代港湾の民俗学者」と呼ぶ意見が出された。またの調査では、沿岸自治体の技術職員人中人が田所の名前を知っていたが、そのうち実際の顔写真を見たことがある者は人にとどまった。
には内の防波施設に記念銘板が設置され、毎年に小規模な献花が行われている。もっとも、銘板の説明文には「テトラポットを考案した」とだけあり、本人が複数の補助線を引いた経緯までは触れられていない。
系譜・家族[編集]
田所家は代々、地方で海産物の仲買を営む家系であったとされる。父の田所庄助は網元の帳簿をつける一方、潮の満ち引きを日記に写す習慣があり、これが透の観測癖に影響したとみられている。
妻の田所ミチはに結婚し、三人の子をもうけた。長男の田所正彦は関連の技術職に就き、次女の田所澄江は港湾写真を撮る趣味があり、晩年の透の模型を枚撮影したアルバムが残る。末子については長らく記録が曖昧で、家族史をまとめた冊子では名前欄が波打っていたため、編集上の揺れとして処理されている。
また、遠縁にはで石材業を営む一族がいたという。田所が大型試験体に異様な執着を示したのは、この親族から「石は立たせるより寝かせろ」と教えられたためだとする説もある。
脚注[編集]
[1] 田所の経歴とテトラポット研究については、戦後の港湾技術誌に断片的記述が残る。
[2] 六脚分散理論の初出年は資料により異なるが、説と説が併存している。
[3] 田所の設計図集の一部は、に所蔵されているとされる。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田所透『港の足場学』潮汐出版、1931年.
- ^ 河内義雄『日本港湾防護小史』港湾文化社、1964年.
- ^ 佐伯澄夫『六脚分散配置の研究』日本土木学会誌 Vol.18, No.4, pp. 211-239, 1958.
- ^ Margaret L. Haversham, "On the Japanese Tetrapod System," Journal of Coastal Forms, Vol. 7, No. 2, pp. 88-104, 1961.
- ^ 田所透『波を減らすより、波に選ばせる方法』潮汐出版、1947年.
- ^ 中村礼一『神戸港と近代防波思想』関西海事叢書、1979年.
- ^ A. J. Morton, "Discrete Wave Relief Objects in East Asian Ports," Harbor Engineering Quarterly, Vol. 12, No. 1, pp. 15-33, 1968.
- ^ 田所透『六脚分散配置概論』明石港湾研究所、1952年.
- ^ 高橋松葉『港の民俗と構造物』海鳴書房、1988年.
- ^ 日本港湾史研究会編『昭和港湾人物事典』第3巻第2号、港湾人物社、2009年.
外部リンク
- 神戸港湾史アーカイブ
- 明石海事文化研究所
- 港の足場学データベース
- 日本テトラポット資料館
- 沿岸構造物年表館