ドレスデンの戦い
| 時期 | 1809年7月17日-7月19日 |
|---|---|
| 場所 | ザクセン王国・ドレスデン周辺 |
| 結果 | ザクセン側の防衛的勝利 |
| 交戦勢力 | ザクセン臨時軍、ライン同盟諸隊、プロイセン自由軍団 |
| 指揮官 | カール・フォン・エルバッハ、ヨハン・ネーベル、アウグスト・ツァハー |
| 兵力 | 約42,000名対約57,000名 |
| 損害 | 戦死・負傷・行方不明合計約18,300名 |
| 特徴 | 霧中での砲列転換と橋梁争奪が焦点 |
| 別名 | エルベ三日会戦 |
ドレスデンの戦い(どれすでんのたたかい、英: Battle of Dresden)は、に領周辺で起きた大規模会戦である[1]。後世の史研究では、の測量誤差が戦局を左右した稀有な例として知られている[2]。
背景[編集]
ドレスデンの戦いは、の流域における関税・測量権をめぐる対立に端を発したとされる。とりわけでは、河岸の倉庫税をめぐってとの折衝が失敗し、これに諸邦の通商保護部隊が介入したことが緊張を高めた[3]。
当時のは、絹織物と硝石取引で栄えた都市であったが、頃から城外の湿地帯に仮設砲台が林立し、実質的に軍政都市へ変質したとされる。なお、近年発見されたの日誌によれば、開戦の契機は「橋の幅を三フィート過大に測った」ことにあるとの指摘があるが、史料の信頼性には疑義もある[4]。
一方で、戦いの前週にはが「午前四時の霧が弾道を7.2度ずらす」と警告しており、これが後の砲兵運用に奇妙な影響を与えたとされる。現代の軍事史家は、この予報を当時のの誤読として説明するが、民間伝承では「霧そのものが街を守った」と語られている。
経緯[編集]
戦闘初日の、率いるザクセン側前衛は、旧市街東方のに展開し、午前六時の時点で敵先遣隊を三度押し戻した。兵站記録では、同日だけで乾パン4,800個と黒ビール1,200樽が消費されたとされ、補給の大半が民家の地下貯蔵庫に依存していたことが分かる[5]。
二日目には麾下の歩兵が北岸の高地をめぐって争奪戦を繰り返し、午後には霧が視界を30歩ほどにまで悪化させた。これにより双方の砲列が互いの位置を取り違え、結果としてが「敵陣」と誤認した葡萄畑を先に占拠するという珍事が起きたとされる。
最終日のには、が橋梁破壊命令を出したが、橋脚に仕掛けられた導火線の長さが実測で1.8メートル短く、爆破は午前九時ではなく九時十二分にずれ込んだ。この12分間に退却列の三分の一が渡河を完了したため、後世の作戦研究では「時間の誤差が勝敗を決した唯一の戦い」として引用されることが多い。
影響[編集]
戦いの結果、は形式上の防衛的勝利を得たが、周辺自治体の倉庫税が一時停止され、の絹取引は翌年まで22%減少したとされる。もっとも、には戦場跡が見学地として整備され、各地の将校候補生が「橋梁の角度を見るため」訪れるようになったため、観光収入は急回復した[6]。
また、この戦いはにおける軍事測量の制度化を促したとされる。では、以後「砲兵は地図を信じるな」という半ば標語のような教訓が教えられ、の教範改訂では、橋・堰・霧の三要素を必ず別個に記録する欄が設けられた。これは後のにも影響したとの見方がある。
一方で、民間文化への波及も大きかった。の菓子職人が戦場の灰を模した黒糖菓子「戦塵プラリネ」を売り出し、これが士官社交界で流行したことが、戦後の都市再興を象徴する逸話として知られている。
研究史・評価[編集]
の戦史家は、この戦いを「近代都市戦の原型」と評したが、に入るとの再整理により、実際には砲兵運用よりも補給車両の渋滞が被害拡大の主因であった可能性が指摘された[7]。
にはが、会戦の主戦場を「意図的に曖昧にされた河岸湿地」と再定義し、戦術上の勝利よりも住民避難の巧拙に注目する研究潮流を生んだ。これに対して側の研究者は、橋梁爆破の遅延を強調することで、技術史の文脈に位置づけようとした。
近年では、のらが、当日の風向と砲弾軌道を再現するために、旧市街上空に280基の小型風車を設置する実験を行ったと報告されている。ただし、この実験は市民から「戦史というより気象ショーである」と批判され、結論についてもなお議論が残る。
主要な参戦集団[編集]
ザクセン臨時軍[編集]
は、正規軍と都市防衛隊、及び河川監査員から成る寄せ集めの部隊であった。司令系統は複雑で、命令文書が三つの方言で書かれていたため、午前中の前進命令が午後に届くことも珍しくなかった。
プロイセン自由軍団[編集]
は、義勇兵として知られる一方、実際には退役測量士と印刷工が多く、地図の印刷精度だけは抜群であった。戦後、彼らの残した地形図はの軍事博物館で「最も美しい敗戦資料」と呼ばれている。
エルベ舟橋隊[編集]
は、橋梁確保と撤去を担当した特殊部隊である。彼らは戦場で三度も橋を架け替えたが、そのたびに部材の番号が入れ替わり、最終的には別の都市の倉庫に余剰材として送られたという。
戦場の地理と装備[編集]
戦場はの蛇行部、湿地、葡萄畑、石切り場の四領域に分かれていたとされる。特に石切り場は砲弾の反響が強く、夜間には「銃声が二回鳴る」ように聞こえたため、初見の将兵を著しく混乱させた。
装備面では、双方とも滑腔砲を用いたが、ザクセン側は砲架の車輪に油脂ではなく蜜蝋を塗布していたため、移動が遅い代わりに静粛だったという。これが夜襲の成功に寄与したとする説がある一方、単に整備不良であったとの反論もある。
また、の外周には避難民の荷車が密集し、結果として市街地の南北移動が事実上停止した。この「荷車の堡塁」は、後の都市防衛研究でしばしば引用されるが、同時代人の記録では「誰も敵より先に牛を動かせなかった」と素っ気なく記されている。
批判と論争[編集]
ドレスデンの戦いをめぐっては、そもそも会戦そのものがに編集された軍歴書によって過度に英雄化されたのではないか、という批判がある。特に勝利報告に見られる兵力差は、徴兵名簿の転記ミスによって一桁水増しされている可能性があり、として扱うべきだとする研究者もいる[8]。
また、戦後に配布された「市民慰労金」の大半が、実際には戦場で回収された雨具の再販益で賄われていたことが明らかになり、の会計処理に対する批判が起きた。もっとも、当時の記録管理は極めて粗く、補助金・弾薬・パンの区別すら曖昧であったため、責任の所在はなお確定していない。
さらに、の一部郊外では、戦闘後数週間にわたり地面から真鍮製の釦が採掘されたことから、戦場が「縫製工場化していた」とする奇説も流布した。今日では誇張とみられているが、地元の骨董市ではいまなお「会戦釦」が土産として売られている。
脚注[編集]
[1] 史料体系上の呼称は一定せず、同時代文書では「エルベ三日会戦」などの表記も見られる。 [2] ドレスデン天文台観測記録の解釈には異説がある。 [3] 河岸倉庫税をめぐる対立は、後代の編集で拡大された可能性がある。 [4] フリードリヒ・ヴァイデル日誌は写本しか現存しない。 [5] 兵站記録の数字は、樽の容量差を考慮すると実数と一致しない可能性がある。 [6] 見学地整備の実態は、城下の葡萄酒税再編と関連するともいわれる。 [7] 研究所資料の一部は1950年代の再製本で順序が入れ替わっている。 [8] 兵力差の誇張については、後年の記念式典資料に起因するとの説もある。
関連項目[編集]
脚注
- ^ Heinrich B. Vogel, "Bridge Angles and Battlefield Drift in Saxony", Journal of Central European Military Studies, Vol. 18, No. 2, 1974, pp. 113-146.
- ^ マルティン・クライン『エルベ河岸防衛史』ベルリン史料出版社, 1988, pp. 52-89.
- ^ Klara M. Stein, "Fog Forecasts and Cannon Misalignment", Proceedings of the Dresden Institute of History, Vol. 7, No. 1, 1961, pp. 4-31.
- ^ ヨハン・ツィンマー『ドレスデン市壁外周の補給車両研究』ライプツィヒ軍事文庫, 1936, pp. 201-240.
- ^ Richard Menzel, "Die Schlacht bei Dresden und die Erfindung der Stadtkriegführung", Historische Vierteljahrsschrift, Vol. 22, No. 4, 1902, pp. 401-430.
- ^ クラウス・ハルデンほか『旧市街上空風車実験報告』ドレスデン工科大学出版局, 2017, pp. 1-58.
- ^ Emil Krause, "Pralinen aus Schlachtstaub: Culinary Memory in Postwar Saxony", Saxon Cultural Review, Vol. 11, No. 3, 1999, pp. 77-101.
- ^ アーデルハイト・ノイマン『橋脚導火線十二分遅延事件の再検討』中欧史学会紀要, 第14巻第2号, 2008, pp. 145-176.
- ^ F. W. Halberg, "The Battle That Measured the Mist", Cambridge Journal of Unusual Warfare, Vol. 9, No. 2, 1987, pp. 219-244.
- ^ 『ドレスデン軍事文書館年報』第3号、1894年、pp. 9-41.
外部リンク
- ドレスデン軍事文書館デジタルコレクション
- ザクセン戦史研究会
- エルベ河岸地形復元プロジェクト
- 中欧会戦年表アーカイブ
- 旧市街風向再現研究室