ハイスクール奇面組
| 名称 | ハイスクール奇面組 |
|---|---|
| 分野 | 学園文化、表情社会学、集団芸能 |
| 成立 | 1978年ごろ |
| 提唱者 | 橘 玲二郎、黒崎 真理子 |
| 活動拠点 | 東京都杉並区・練馬区周辺 |
| 主な構成 | 5〜7名の固定班編成 |
| 関連機関 | 文部省 学園芸能調査班 |
| 影響 | 校内演劇、制服改造、顔芸の制度化 |
ハイスクール奇面組(ハイスクールきめんぐみ、英: High School Kimen Gumi)は、の文化における顔面表現と集団行動を研究するために編成された学生団体、またはそれを題材にした一連の教育的実験の総称である[1]。のちに内の私立校を中心に「奇面学」と呼ばれる独自の風俗観察手法を生んだことで知られる[2]。
概要[編集]
名称の「奇面」は、単に奇妙な顔つきを意味するのではなく、表情の変化を通じて所属意識を可視化するという上の概念に由来するとされている。ただし、当時の記録には「顔の印象が強すぎて出欠確認に支障が出た」とする教員の手記も残されており、実際には半ば偶発的に成立した運動であった可能性が高い[4]。
後年、この現象はの校内番組取材や、夕刊の学園欄で取り上げられ、若者文化の一種として一般化した。また、地方紙の「変わった同好会」特集にもしばしば登場し、1984年時点で全国推定1万2,400人の模倣者がいたとする調査がある[5]。
成立の背景[編集]
学級集団と顔面表現[編集]
発端は53年、都内の進学校で行われた「沈黙の自己紹介週間」であるとされる。担当した教諭は、会話が苦手な生徒ほど印象が強く残ることに着目し、発話の代わりに表情、眉の角度、顎の引き方で人格を示す方式を試行した。これが後に「奇面式」と呼ばれた。
この方式では、初対面の相手に対し三秒以内に3種類の顔を見せることが推奨され、うち一つは必ず「困惑」、一つは「虚勢」、もう一つは「無表情」にする規定があったという。文部省の内部資料によれば、初年度の採用校は内で7校、翌年には19校に増加したとされるが、集計方法が曖昧であるため要出典とされることも多い[6]。
部活動化と組織の固定化[編集]
頃には、活動は事実上の部活動へと変質した。発起人の一人であるは、奇面の再現性を高めるため、鏡の前での連続演技、廊下での反響音を利用した発声訓練、昼休み30分を使った「無言の連帯」などを制度化した。
さらに、班長・副班長・顔認定係・出席調整係といった役職が細分化され、各校ごとに独自の流派が生まれた。とくにのある女子校では、奇面組の様式を応用した「微笑管理委員会」が発足し、制服の襟角を2ミリ単位で調整する運用が行われたとされる[7]。
メディア化と拡散[編集]
には、学園文化を扱う月刊誌『校内風俗研究』が奇面組特集を掲載し、そこから一般紙、ラジオ、深夜番組へと話題が連鎖した。とりわけで放送された「表情で学ぶ公共性」のコーナーは、教育関係者の間で物議を醸した。
一方で、校外への拡散は予想外の形で進んだ。渋谷のレコード店やの貸しスタジオで、バンドの前座として「奇面演技」が上演され、観客が笑うより先に拍手する現象が報告された。これにより、奇面組は単なる学校内流行ではなく、都市型パフォーマンスとして再定義されたのである。
活動内容[編集]
奇面組の活動は、外見を誇張するのみならず、集団としての同期性を高めることに主眼が置かれていた。朝礼前には「三段階顔合わせ」と呼ばれる儀式が行われ、全員が順に、驚き、沈思、勝ち誇りの表情を10秒ずつ保持したという。
また、学園祭では「顔面劇」が上演され、台本の7割が無言、残り3割が教室掲示物の差し替えで進行された。観客動員は平均して1公演あたり約430人、ピーク時にはの会場で1,800人を記録したとされる。なお、出演者が舞台袖で真顔に戻れず、閉会式まで役柄が抜けなかったという逸話が残る[8]。
地域社会への影響も小さくない。商店街では奇面組に合わせた「顔で買う日」が設けられ、店主が客の表情に応じて割引率を変える試みがなされた。これは後にから指導を受け中止されたが、地元では伝説的な出来事として語られている。
歴史[編集]
初期の逸話[編集]
最初期の奇面組は、5人編成で、いずれも成績は平均以下、ただし観察力のみ突出していたとされる。彼らは放課後に沿いの喫茶店に集まり、周囲の客の表情を記録していた。記録帳は合計12冊に及び、そこには「眉が先に笑い、口元が2拍遅れる」といった細密な記述がある[9]。
この観察が評価され、秋には学園内の掲示板に「奇面研究班」の名で公認されるに至った。ただし、教員会議では「生徒指導上の妥当性に疑義がある」として14対11の僅差で承認されたという。
全盛期[編集]
全盛期はから頃である。この時期、奇面組は制服改造、漫才風の挨拶、廊下でのポーズ交換を含む一連の行動様式として完成した。都内私学連盟の非公式調査では、少なくとも23校が何らかの形で奇面組様式を採用していたとされる。
同時期には、やにも類似組織が確認され、「横浜表情同盟」「川越無言会」などの派生集団が生じた。これらはしばしば奇面組を模倣しつつも、より礼儀正しく、より意味不明であったと評される。
衰退と再評価[編集]
以降、校則の厳格化と、受験競争の激化により活動は次第に沈静化した。とはいえ、完全に消滅したわけではなく、文化祭の余興や同窓会の余興として断続的に継承された。
には、教育社会学の分野で再評価が進み、集団のアイデンティティ形成を「顔面の共同編集」と捉える研究が現れた。とりわけの準公式研究会による報告書は、奇面組を「戦後日本の沈黙文化への反作用」と位置づけ、一定の注目を集めた[10]。
社会的影響[編集]
奇面組の影響は学園文化にとどまらず、広告、舞台、接客、そして政治ポスターの表情設計にまで及んだとされる。1980年代後半には、企業の新入社員研修で「奇面式アイスブレイク」が採用され、3分間の無言自己紹介が標準化された例もあった。
また、地方自治体の青少年育成施策においても、表情を使った非暴力的コミュニケーションの事例として参照された。もっとも、実際には単に「ふざけているように見えるが規律は厳しい」という評価が多く、教育的成果は限定的であったとする見方もある。
なお、の生活安全白書の草稿には、奇面組的な集団は夜間の公園でのたむろを減らす効果があるとする記述があったが、最終版では削除されたとされる。削除理由は不明であるが、担当者が一度だけ奇面の実演を試み、会議が30分中断したという証言がある[11]。
批判と論争[編集]
奇面組には、当初から「表情の規格化は個性の抑圧ではないか」という批判があった。特にの読者欄では、保護者から「笑い方にまで採点が入るのは行き過ぎである」とする投書が掲載され、議論を呼んだ。
一方で支持者は、奇面組はむしろ内向的な生徒にとって発話以外の自己表現を保障する装置であったと反論した。この論争は「顔は公共財か私有財か」という奇妙な命題へ発展し、の年次大会で1セッションが丸ごと割かれたとされる。
さらに、いくつかの学校では模倣が過熱し、顔面の演技点数を巡って生徒間の対立が生じた。とくに「無表情部門」で常に満点を取る生徒が出たことで、かえって何も表現していないのではないかという哲学的な問いが生じたことは有名である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 橘 玲二郎『学園表情論序説』青林教育出版, 1982.
- ^ 黒崎 真理子『無言の連帯とその実践』文芸学術社, 1985.
- ^ 渡会 恒一『東京都私学における奇面運動の展開』日本学園文化研究所, 1991.
- ^ M. A. Thornton, "Face-Based Group Identity in Urban Japanese Schools," Journal of Comparative School Studies, Vol. 14, No. 2, 1994, pp. 113-142.
- ^ 佐伯 直人『奇面組と戦後若者文化』新曜社, 1997.
- ^ Y. Kanda, "The Semiotics of Silent Introduction," The East Asian Journal of Youth Culture, Vol. 8, No. 1, 2001, pp. 44-67.
- ^ 白石 明『表情の共同編集: 学校儀礼の民俗誌』岩波書店, 2004.
- ^ 高橋 みどり『顔は語るか—奇面式の教育的可能性—』教育思想研究会, 2008.
- ^ Nakamura, H., "Anomalous Attendance Recovery Through Facial Rituals," Proceedings of the Tokyo Symposium on Informal Pedagogy, Vol. 3, 2012, pp. 9-31.
- ^ 『奇面組年鑑 1980-1986』学園風俗資料協会, 2016.
外部リンク
- 学園表情文化アーカイブ
- 東京奇面研究センター
- 日本無言部活動協会
- 表情史データベース