プラン寺
| 名称 | プラン寺 |
|---|---|
| 別名 | 計画寺、図面寺 |
| 分類 | 都市計画施設、準宗教施設 |
| 起源 | 1912年ごろの東京市区改正案に由来するとされる |
| 主な所在地 | 東京都、神奈川県横浜市、愛知県名古屋市 |
| 機能 | 図面公開、住民説明、模型安置、反対意見の供養 |
| 管理 | 旧建設省系の民間協議体と寺院連合 |
| 儀礼 | 定例読み上げ、縮尺祈願、朱線献花 |
| 最盛期 | 1960年代後半から1980年代前半 |
| 象徴物 | 巻物、青焼き、方眼紙 |
プラン寺(ぷらんじ、英: Plan Temple)は、の伽藍配置をもつ上の合意形成施設である。一般にはの体裁を借りた図面保管・公開のための施設として知られている[1]。
概要[編集]
プラン寺は、の近代都市計画史の中で発生したとされる、独特の合意形成施設である。外見はに似るが、内部では道路線形、区画整理案、駅前広場案などの図面が掲示され、住民は線香の代わりに方眼紙を持参して意見を述べたとされる。
その成立にはの市区改正、の港湾整備、の工場地帯拡張が重なったことが背景にあったという。もっとも、制度上は宗教施設ではなく、あくまで「計画を静かに熟成させる場」として扱われたため、当局の文書でも分類が揺れている[2]。
歴史[編集]
成立の経緯[編集]
最初のプラン寺は、神田区の下水改良説明会の会場不足を補うため、元講堂を改装して設けられたとされる。発案者は内務官僚のと、浄財集めの名手として知られた曹洞宗系の僧・であり、両者が「図面には沈黙が要る」との考えで一致したことが発端であった。
当初は地域の有力者だけが出入りしたが、末期には一般住民も参加できるようになった。ここで採用された「三日熟成制」は、掲示された計画案を三日間だけ本堂に置き、その間に反対意見を木札へ記す方式で、後のパブリックコメント制度の原型とする説もある。ただし、この説は都市史研究者の間でも評価が分かれている。
戦前から戦後への展開[編集]
初期には、プラン寺は軍需工場の周辺整備にも用いられた。特に周辺では、埋立て案の説明に際して、港湾技師が毎回模型を持参し、雨天時には本堂の床板が湿気でわずかに反ることまで計画に反映されたという逸話が残る。
戦後はGHQの影響で一時的に閉鎖されたが、の講和後、自治体の再建需要により復活した。では空襲復興区画整理の説明会場として再評価され、夜間に配布された青焼き図面の枚数が月平均に達したとされる。なお、当時の記録には「図面の前で泣き崩れる住民が多かった」との記述があるが、これは建設局の脚注にのみ見える[3]。
制度化と拡散[編集]
、自治省系の通達により「準宗教的説明施設」の概念が事実上容認されると、各地にプラン寺が建てられた。これにより、の新市街地、の再開発地区、のニュータウンでも類似施設が確認されている。
とりわけの「芝計画寺」は、住民説明会の待機列を整理するために回廊が迷路状に作られており、来訪者の約が本堂に入る前に自分の反対意見を撤回したといわれる。また、には日本建築学会の若手会員が「プラン寺的空間の心理的効果」に関する報告を発表し、都市計画と宗教建築の境界が一時的に議論の中心となった。
構造と儀礼[編集]
プラン寺の典型的な建築は、山門、本堂、回廊、図面蔵、模型堂からなる。本堂の正面には通常、都市計画図を掲げるための縦長の額縁があり、毎月とに最新案へ差し替えられた。額縁の寸法はが標準とされ、これは当時の公民館の壁面比率を参考に決められたという。
儀礼として有名なのは「縮尺祈願」である。これは、住民が案内人とともに、、の三種の図面を順に拝み、最後に自宅予定地へ向かって一礼する作法で、地価上昇を抑える効果があると信じられていた。また、「朱線献花」と呼ばれる行事では、反対意見を赤鉛筆で書き込み、花瓶状の回収箱へ投函した。なお、ここで回収された意見の約は翌週には「ほぼ採用」として整理されたとされる。
社会的影響[編集]
プラン寺は、住民参加型都市計画の象徴として支持される一方、計画を神聖化しすぎるとして批判も受けた。特に後半、再開発に反対する市民団体が「図面に香を焚くな」と抗議した事件は、当時の新聞各紙で取り上げられた。
しかし行政側は、プラン寺が反対運動の緩衝材として機能したと主張している。説明会の退席率が通常の会議室使用時より低かったという内務省都市局の統計も残るが、調査方法の不備を指摘する声もある。また、建築士や測量士のあいだでは、プラン寺で配布された図面の余白に記された「よろしくお願いします」の一文が、実務上の最終合意を意味する符牒として定着した。
批判と論争[編集]
最大の論争は、プラン寺が宗教施設なのか行政施設なのかという点にあった。系の文書では「民俗的集会所」とされる一方、の古い資料では「説明のための場」と記述されている。両者の折衷案として、1983年に「計画供養」という表現が用いられたが、これが行政文書に宗教語を持ち込んだとして問題視された。
また、1989年の「赤線事件」では、あるプラン寺で配布された再開発図に過剰な修正が加えられ、線路が寺の境内を横断するように見えたため、地元住民の強い反発を招いた。後にこれは単なる印刷ズレだったことが判明したが、当時の住職は「図面もまた無常である」と発言し、かえって火に油を注いだとされる。
現代のプラン寺[編集]
以降、実際の新設は減少したが、保存運動と観光資源化によって一部は残存している。特にの旧区画整理プラン寺は、週末になると都市史の研究者と修学旅行生が混在し、境内での青焼きが乾く音を聞くことができるという。
近年はデジタル化が進み、タブレット端末を備えた「eプラン寺」も登場した。もっとも、端末の起動音が読経に似ているため高齢者から好評である反面、若年層の参加率は程度にとどまるとされる。2021年には内の一施設で、VRによる仮想境内ツアーが試験導入されたが、利用者の半数以上が仮想の狛犬よりも図面のほうを怖がったという報告がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『図面と沈黙のあいだ—近代都市儀礼史論—』日本都市史学会, 1987, pp. 41-68.
- ^ 海野玄堂『本堂に置かれた青焼き』建築文化社, 1931, pp. 112-119.
- ^ Margaret A. Thornton, "Sacred Blueprints and Civic Consent", Journal of East Asian Urban Studies, Vol. 14, No. 2, 1994, pp. 77-103.
- ^ 佐藤房吉『区画整理と供養の民俗』民衆書房, 1969, pp. 9-52.
- ^ 橋本理一『プラン寺の成立と自治体文書』地方行政資料館叢書, 2004, pp. 201-244.
- ^ Kenji Morita, "The Plan Temple Phenomenon in Postwar Japan", Urban Ritual Review, Vol. 8, No. 1, 2001, pp. 15-39.
- ^ 内藤澄雄『再開発における祈祷と説明』東京計画出版社, 1978, pp. 88-126.
- ^ Patricia L. Owens, "Temples of Planning: A Comparative Note", Proceedings of the Civic Design Institute, Vol. 3, No. 4, 2010, pp. 5-27.
- ^ 高見沢悠『計画供養という語の誕生』国土文献社, 1991, pp. 66-91.
- ^ William K. Hargrove, "On the Emotional Load of 1/1000 Scale Maps", Architectural Folklore Quarterly, Vol. 2, No. 3, 1988, pp. 140-158.
外部リンク
- 日本プラン寺研究会
- 都市儀礼アーカイブ
- 計画供養資料室
- 青焼き保存ネットワーク
- 近代説明会史データベース