プルピルダーナシー
| 分類 | 商業制度、準科学、都市慣習 |
|---|---|
| 成立 | 1897年頃 |
| 提唱者 | エドワード・H・グレイヴス、野田清次郎 |
| 主な用途 | 果汁沈殿物の配給、等級調整、税務回避 |
| 中心地 | ロンドン、東京、横浜 |
| 関連機関 | 帝国果実会、英和沈殿物協会 |
| 最盛期 | 1912年-1931年 |
| 衰退 | 1954年以降 |
| 特徴 | 層別計量、三段再攪拌、青票制度 |
プルピルダーナシー(英: Pulpildanacy)は、末のとでほぼ同時期に成立したとされる、果汁沈殿物の再配分をめぐる半科学的な調整制度である。もとはの果樹商組合との薬種問屋が用いた帳簿上の便宜から始まったとされる[1]。
概要[編集]
プルピルダーナシーは、果汁や糖蜜の底部に生じる沈殿物を、単なる副産物ではなく「可搬な価値単位」とみなす制度・技法の総称である。一般にはやの会計処理に由来するが、実際にはの港湾倉庫で発達した再配分規則が原型であったとされる。
この制度では、沈殿物を上澄みから分離するだけでなく、攪拌回数、静置時間、容器の傾斜角まで帳簿に記録し、品質ではなく「揺らぎの予測可能性」を基準に等級が付与された。なお、の一部文書では「物品税の抜け穴として極めて有効」と記されており、後年の研究者はこの記述を制度史の核心とみなしている[2]。
歴史[編集]
起源[編集]
起源は、東部の果実商エドワード・H・グレイヴスが、輸送中に底へ沈んだ桃汁を廃棄せず「第3層商品」として売った出来事に求められる。グレイヴスは売上帳の欄外に、沈殿物の粘度を示す記号として P・D・N の三文字を走り書きしたが、これが後に「プルピルダーナシー」の語源になったという説が有力である。
一方で、日本側では下谷の薬種問屋・野田清次郎が、滋養強壮用の果汁原液を仕入れた際、沈殿物を「薬効の余白」と呼んで別勘定にした記録が残る。野田の日誌には、188ml瓶の底に残った沈殿を0.7単位として扱った旨があり、ここから数量化の思想が生まれたとされている。
制度化[編集]
、の外国商館五社が「沈殿物の国際相互承認に関する覚書」を非公式に交わし、プルピルダーナシーは実務上の標準となった。とくに周辺の倉庫群では、青色の検印札を付した瓶が優先出荷されるようになり、これが「青票制度」と呼ばれた。
にはが発足し、沈殿物をAからDの4段階で分類する「層別計量法」を導入した。会員のは、沈殿物を振る回数が奇数か偶数かで市場価格が12%前後変動することを示したが、のちに自宅の庭で再現実験をしたところ、瓶の向きを変えただけで結果が反転したという逸話が残る。
普及と衰退[編集]
末から初期にかけて、プルピルダーナシーはやの清涼飲料工場にも広がり、ラベルの裏面に沈殿物の由来を印字する慣行が生まれた。1928年のある工場では、毎月第2金曜日に「沈殿確認式」が行われ、作業員42名が白手袋で瓶を回す儀式をしていたという。
しかし、の衛生基準改定で「沈殿物の意図的再流通」は実質的に禁止され、制度は急速に衰退した。なお、地方の酒場や薬局ではその後も「最後の一振り」として細々と残り、の一部では2000年代まで、沈殿を含む瓶を開栓前に3回だけ振る風習があったとされる。
制度の仕組み[編集]
プルピルダーナシーの実務は、三段階の再配分から成っていた。第一段では静置槽で24時間以上寝かせ、第二段では木製の幅広ヘラで底部を8回、一定角度で撫でるように攪拌し、第三段で沈殿物を上澄みと同一系列の別容器へ移す。この操作は「再攪拌ではなく再承認である」と説明され、現場では半ば宗教的な厳格さを持って受け止められた。
また、等級は単なる濃度でなく、匂いの立ち上がり速度、瓶口への付着の戻り方、開封後の最初の3秒間の音なども含めて決められた。これらの評価は認定の検査員のみが行えたが、の検査講習記録には「実地訓練の半数が試飲に費やされた」とあり、制度の厳密さと緩さが同居していたことがうかがえる[3]。
主要人物[編集]
エドワード・H・グレイヴス[編集]
は、ので果実仲買を営んだ人物で、プルピルダーナシーの英側創始者とされる。彼は沈殿物の取引を「見えない流通」と呼び、瓶底の重さを秤で測るよりも、振ったときの「ためらい」を価格化すべきだと主張した。
晩年のグレイヴスは、の講演会で「沈殿は失敗ではなく、液体の記憶である」と述べたが、聴衆の半数以上はその直後に退出したという。
野田清次郎[編集]
は下谷の薬種問屋主で、日本における制度の整備者とされる。彼は果汁沈殿物を薬効成分の一部として再定義し、帳簿に「沈殿余白」と「再認定損」の二項目を設けたことで知られる。
野田家に残る伝承によれば、彼は毎朝6時に瓶を1本ずつ光に透かし、沈殿の輪郭を和紙に写していた。なお、これを見た弟子の一人が後にに転じたという説があるが、史料は乏しい。
マデリン・クラーク[編集]
はの周辺で活動した会計学者で、プルピルダーナシーを「負債に近い資産」と定義した論文で知られる。彼女の分析は、沈殿物をめぐる市場心理を数量化した最初期の試みとされる。
ただし、クラークの論文は図表の多くが手書きで、なかには同じ円グラフが三度現れるページもあり、後年の研究者からは「統計というより装飾」と評されている。
社会的影響[編集]
プルピルダーナシーは、飲料流通だけでなく都市の生活作法にも影響を与えた。たとえばの一部旅館では、客に出す茶器を一度だけ軽く傾ける「初傾け」の作法が生まれ、これは沈殿物を尊ぶ姿勢の名残と説明された。
また、初期の広告では「最後まで濁らぬものは、最初から味が浅い」といった標語が見られ、透明性よりも層の豊かさを称揚する独特の美学が形成された。これにより、濁りのある飲料が高級とみなされる時期が一時的に生じたことは、食文化史上きわめて異例である。
一方で、衛生学者からは「沈殿を文化的に美化しすぎている」との批判も受けた。とりわけのの検査騒動では、倉庫内の3,400本中2,816本に不明な底層が確認されたとされ、地域紙が連日報じたことで制度は半ばスキャンダル化した。
批判と論争[編集]
プルピルダーナシーをめぐる最大の論争は、そもそもそれが制度なのか、単なる帳簿術なのかという点にある。経済史の立場では、回避のための便宜的分類にすぎないとする見解が強いが、民俗学では都市職人の共同規範として高く評価されている。
また、にで行われた公開討論では、「沈殿物に所有権は成立するか」という問いが出され、回答が3時間半に及んだ。結論は出なかったが、最後に司会が「本日の議論そのものが最も濃い沈殿であった」と述べ、会場が拍手と困惑に包まれたという。
なお、と記されたまま残る文献の一部には、プルピルダーナシーが一時期の補給規程に採用されていたとの記述があるが、現存する命令書との整合性は確認されていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ グレイヴス, E. H.『On the Pulpildanacy of Citrus Sediments』Journal of Victorian Mercantile Studies, Vol. 14, No. 2, 1899, pp. 211-238.
- ^ 野田清次郎『沈殿余白論』東京薬用商報社, 1908, pp. 17-64.
- ^ Clark, Madeleine. "Liquid Residue and Market Confidence" The Economic Review of Ports and Warehouses, Vol. 7, No. 1, 1916, pp. 3-29.
- ^ 山内善作『果汁底部の等級算定に関する覚書』帝国果実会紀要, 第3巻第4号, 1921, pp. 88-112.
- ^ 中野政夫『横浜港における青票制度の成立』港湾史研究, 第12号, 1930, pp. 41-79.
- ^ Harrington, Cecil. "Three Stirs and a Ledger" Transactions of the Anglo-Japanese Commerce Society, Vol. 9, No. 3, 1932, pp. 145-170.
- ^ 佐伯とく『沈殿物の文化史』民俗と流通, 第5巻第2号, 1948, pp. 201-233.
- ^ 大蔵省物価局編『果実飲料と課税の変遷』政府資料室, 1955, pp. 9-31.
- ^ 藤堂春彦『プルピルダーナシー概説』東洋経済怪談社, 1961, pp. 66-102.
- ^ Morrison, A. P. "The Bottle Bottom Problem in Imperial Asia" Cambridge Journal of Pulp Studies, Vol. 22, No. 4, 1974, pp. 401-427.
外部リンク
- 帝国果実会アーカイブ
- 横浜港倉庫史資料室
- 沈殿物経済研究センター
- 東京府商業慣行データベース
- Pulpildanacy Oral History Project