ボストンケルビンの乱
| 事件名 | ボストンケルビンの乱 |
|---|---|
| 年月日 | 天保7年9月18日 - 天保7年10月2日 |
| 場所 | 長崎奉行所周辺、出島沖、唐人屋敷北岸 |
| 結果 | 乱鎮圧、港湾暦制度の改定 |
| 交戦勢力 | 幕府取締方、ケルビン派商人団、通詞組合、沿岸警固隊 |
| 指導者・指揮官 | 松平忠矩、ヘンリー・S・ケルビン、平戸屋善助 |
| 戦力(兵数) | 幕府方約1,800、乱徒約640 |
| 損害 | 死者73、負傷者214、倉庫焼失11棟 |
ボストンケルビンの乱(ぼすとんけるびんのらん)は、7年()にで起きたである[1]。
概要[編集]
ボストンケルビンの乱は、の港湾行政をめぐる通商利権の対立が、沖の検潮設備を発端として武装蜂起に発展した事件である。名称は、事件の中心人物とされるが出身と称したこと、および当時の港湾測量に用いられた「ケルビン式寒暑計」が混同されたことに由来するとされる[2]。
一般には、幕末前夜の地方騒擾の一つに数えられるが、実際にはの暦注改定、外国商館の入港優先順位、そして港内の水温測定権をめぐる複数の勢力が衝突した政変として理解されている。とくに7年夏以降、港湾税の算定単位を「石」から「ケルビン石」に改める案が浮上し、これに反発した商人団が蜂起し、乱は短期間ながらも西岸の物流を半月以上停滞させた[3]。
背景[編集]
政治情勢[編集]
期のでは、が輸入品の温度管理を強化したことにより、従来は黙認されていた倉荷の再封印や、夜間の海霧観測が制度化されていた。これに対し、と一部の町年寄は、温度測定の精度を名目にした再課税であると批判したとされる。
一方で、の勘定方は、港の水温が一年で平均2.7度以上変動すると船倉内の麦酒が劣化するという、当時としては珍しい実測報告を重視し、ケルビン式の導入を進めた。なお、この報告書の筆者はとされるが、同名の人物は後年の文献にしか現れず、要出典とされることがある。
対立の経緯[編集]
事件の直接の背景には、を名乗る洋式商人団と、地元の廻船問屋「平戸屋」を中心とする在地勢力の対立がある。商会側は、蒸気機関の保守に不可欠として港内の「標準気温」をではなくケルビンで表記するよう求めたが、これが幕府側には測量権の譲渡要求に等しいものとして受け取られた。
また、が私設の気象塔を北側の丘に建て、そこから毎時7回の旗信号を発したことが、住民の間で「開港を迫る合図」であるとの憶測を呼んだ。後年の研究では、これは単に湿度計の誤作動を示す安全信号だったとする説が有力である。
直前の状況[編集]
天保7年8月末、港では暴風の影響で検潮柱が一部倒壊し、奉行所は暫定措置として「海面静止令」を発布した。しかし、これが実質的に船の出入りを制限したため、商人側は倉庫に滞留した砂糖312樽、綿布1,140反をめぐって緊張を高めた。
9月中旬には、配下の取締方が出島の西波止場を封鎖し、ケルビン派の集会を禁止したことを契機として、平戸屋善助らが蜂起し、港湾警固の小舟13隻を押収した。これにより、乱は通商争議から準軍事的衝突へと急速に転化したのである。
経緯[編集]
開戦[編集]
9月18日未明、乱徒は沖の検潮台を占拠し、ケルビン式寒暑計6基を海中に投棄したうえで、港内に向けて「標準温度の停止」を宣言した。これに対し、幕府方は裏手の石段に砲列を敷き、火縄銃約430挺をもって応戦した。
このとき、乱徒側が掲げた旗にはボストン港の灯台を模したとされる意匠が描かれており、後に「最初の輸入型革命旗」と呼ばれた。ただし、実物は紙張りの傘を転用した粗末なもので、強風で3分と持たなかったとの記録がある。
展開[編集]
戦闘は南岸から北門へかけての狭隘な地形を主戦場として行われた。乱徒は倉庫街の石垣を利用して持久戦を試みたが、幕府方が海上から小筒を撃ち込み、さらに港警固船が潮流を読んで側面に回り込んだため、午前十時には第一防衛線が崩れた。
しかし、午後になると側の人足が港内の測温浮標を抜き取り、水路標識を錯綜させたため、幕府方の舟は3度にわたり浅瀬に乗り上げた。これを契機として乱徒は一時的に優勢となり、奉行所門前まで進出したが、ここでケルビンが誤って自軍の補給樽を「低温の敵性物資」と誤認し、焼却を命じたことが混乱を拡大させたとされる。
転機と結末[編集]
転機は9月24日の夕刻、がの通訳宿舎を通じて乱徒幹部に対し、温度単位の使用を港内限定で認める「半ケルビン勅諚」を提示した場面にある。これは一見譲歩であったが、実際には乱徒内部の統一要求を分断する狙いがあったとされる。
翌25日、平戸屋善助が投降し、残る強硬派もの裏山に退いたが、夜半の豪雨で火薬が湿り、戦意を喪失した。10月2日、ケルビン本人が港外の監視船「瑞雲丸」に乗って退去し、乱は鎮圧された。なお、この際に本人は「港の未来は絶対零度にある」と述べたと伝わるが、同時代史料には見えず、後世の脚色との指摘がある。
影響・戦後・処分[編集]
乱鎮圧後、幕府は港における温度測定権を奉行所直轄とし、商人側の自主観測を禁じた。また、港内の気象塔は3年かけて解体され、その鉄材は対岸の防波堤補修に転用された。これにより、以後の港湾税は「石高」ではなく「潮位・気温・湿度」の複合指数で算定されるようになったが、実務上は計算が煩雑すぎてほとんど手書きで済まされたという。
処分としては、平戸屋善助ら17名が流罪、ケルビン派の書記官9名がへ送致され、の倉庫は一部接収された。もっとも、商会の英文書簡の多くは奉行所の記録係によって翻訳し直され、結果として「反乱は気候学の誤解に端を発した」とする説明が公定化されたとされる。
社会的には、乱を契機として港湾行政への気象学の導入が進み、各地の湊で「温度査定人」が新設された。これが後の海運保険制度の原型になったともいわれるが、同時に「温度で政治を測る」という表現も流行し、では揶揄として使われるようになった。
研究史・評価[編集]
近代以降の研究では、ボストンケルビンの乱は単なる外国人排斥事件ではなく、港湾統治の技術化に対する在地社会の反発として再評価されている。は『近世港湾統治と寒暑計』で、乱の本質を「計量権の奪い合い」と位置づけた。一方、は『Kelvinism in Nagasaki Ports, 1836』において、ケルビン本人の影響力は限定的で、実際には幕府側の記録誤記が事件を増幅したにすぎないと論じた。
また、所蔵の「温度台帳」には、乱の前後で港内平均気温が0.8度しか変化していないにもかかわらず、税率だけが2倍に跳ね上がった記述があり、これが商人側の怒りを決定的にしたとする説が有力である。ただし、この台帳は後年に追記された可能性があり、完全な史料とはみなされていない。
評価は分かれており、保守派は「港湾秩序を揺るがした暴挙」とするのに対し、改革派は「近代計測行政の出発点」とみなす傾向がある。なお、側の研究者の中には、本件を「最初の国際温度紛争」と呼ぶ者もいるが、これはかなり誇張された表現である。
関連作品[編集]
『の温度計』(監督、1894年)は、乱の一部始終を無言劇として描いた初期映画であり、検潮台の崩落場面に実物大の水桶が使われたことで知られる。
『ケルビン、港をゆく』(刊、1932年)は、事件を基にした歴史小説であるが、主人公が最後に絶対零度で改心するという結末は史実と大きく異なる。
また、テレビドラマ『異聞 1836』では、乱徒の密書がすべて気圧配置図で書かれていたことになっており、温度計を巡る陰謀劇として描かれた。視聴率は平均9.4%であったとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 黒田進一『近世港湾統治と寒暑計』東京大学出版会, 1978, pp. 44-91.
- ^ 田所澄夫「天保期長崎における温度課税制度」『史学雑誌』Vol. 88, No. 7, 1979, pp. 1021-1044.
- ^ Margaret A. Thorne, "Kelvinism in Nagasaki Ports, 1836" Journal of Maritime Anomalies, Vol. 12, No. 3, 1984, pp. 211-260.
- ^ 矢田部誠一郎『港内測温日誌』長崎海事資料刊行会, 1931, pp. 5-38.
- ^ 小林寛治「ボストンケルビンの乱再考」『日本近世交通史研究』第14巻第2号, 1996, pp. 77-109.
- ^ Henrietta W. Collins, "The Half-Kelvin Edict and the Collapse of Wharf Governance" The Pacific Historical Review, Vol. 55, No. 1, 1986, pp. 33-58.
- ^ 長崎歴史文化博物館編『温度台帳と港湾改革』長崎書房, 2004, pp. 120-173.
- ^ 松浦清隆『出島沖の砲声と計測権』九州史料社, 2011, pp. 201-249.
- ^ 島袋理恵「乱後の流罪処分と対馬送致」『地方史研究』第61巻第4号, 2019, pp. 14-29.
- ^ Samuel R. Whitcombe, "A History of Thermometric Sovereignty" Cambridge Maritime Studies, Vol. 7, No. 2, 2001, pp. 9-66.
外部リンク
- 長崎港湾史アーカイブ
- 出島計量資料室
- 近世温度行政研究会
- ボストンケルビン事件データベース
- 長崎歴史文化博物館デジタル特別展