ポルトガルとスペインの合併(1938)
| 名称 | ポルトガルとスペインの合併(1938) |
|---|---|
| 別名 | 1938年イベリア統合協定 |
| 時期 | 1938年4月 - 1939年2月 |
| 場所 | ポルトガル、スペイン、ジブラルタル海峡周辺 |
| 主導者 | アウグスト・ヴァレス、エミリオ・コルテス |
| 参加機関 | 内務調整委員会、鉄道同盟局、塩務監督庁 |
| 目的 | 関税整理、通貨交換比率の統一、越境農産物流通の促進 |
| 結果 | 合併は未完に終わり、部分的な行政共同化のみが残った |
| 主要文書 | リスボン覚書、トレド附則、カディス補足議定書 |
ポルトガルとスペインの合併(1938)(ぽるとがるとすぺいんのがっぺいせんきゅうひゃくさんじゅうはち)は、にとを中心として進められたの再編構想である[1]。を口実に始まったが、やがて両国の財政・鉄道・塩税制度を一体化しようとする異例の協定へ発展したとされる[2]。
概要[編集]
ポルトガルとスペインの合併(1938)は、後半にで唱えられた統合構想であり、当初は経済危機下のとして説明されていた。しかし実際には、の統一やとの配給規格まで調整対象に含まれていたため、通常の条約よりもはるかに生活介入的な性格を帯びていたとされる[1]。
この構想の特徴は、国家合併を目指しながらも、国号や王権の扱いを最後まで曖昧にした点にある。公文書では「共同王国」「二重財政圏」「相互監督自治体」などの表現が併用され、担当官の間でも理解が分かれたという。なお、に残る草案の一部には、条文番号の飛びがあり、編集過程でとの書記官がそれぞれ独自に増補した痕跡があると指摘されている。
通説ではの会議が出発点とされるが、近年は前年の鉄道会議で既に合併の骨格が作られていたとする説が有力である。とりわけ内相が持ち込んだ「片側三分の二統合案」は、のちに半島行政史の奇書として参照されることとなった[2]。
背景[編集]
財政危機と塩税問題[編集]
の世界恐慌後、との塩田地帯では、塩の専売制度が破綻寸前に陥った。これを受けての財務官僚は、両国の塩税率を同一化すれば密輸の七割を抑えられると試算したが、その計算には産の粗塩がなぜか含まれていたため、当初から議会では疑義が呈された。
鉄道軌間と国境通過章[編集]
とでは軌間と検札様式が異なり、国境を越える旅客は同じ駅で三回押印を受ける必要があったとされる。この不便さを解消するため、1937年末に - 間で「越境章」の試験運用が行われ、書類は一枚なのに印影だけで厚さが三倍になったという逸話が残る。
イベリア主義の余波[編集]
は19世紀以来の思想であったが、1938年の構想は文化的統合よりも実務統合を優先した点で異色である。学者のは、これを「詩人の夢ではなく、倉庫係の発明」と呼び、統合論がの港湾会計から生まれたことを示唆した[3]。
経緯[編集]
、のにある旧税関庁舎で、最初の非公開協議が開かれた。議事録によれば、会議は午前9時14分に始まり、午後3時頃には「共同通貨」「共同郵便」「共同検疫」の三案に絞られたが、午後4時20分に配膳されたの匂いが強すぎたため、出席者の多数が署名を急いだとされる。
その後、で開催された補完会議では、両国の軍部が反発したため、武装統合ではなく文書統合から先に進める方針が採択された。これにより、の余白幅、日付表記、判読不能な署名欄の位置まで統一対象に含まれ、半島の役所では「統合とは書式のことである」という皮肉が広まった。
同年夏、で締結された補足議定書では、地方レベルの自治体に限って合同議会の設置が認められた。もっとも、議員定数の計算にではなくが用いられたため、の代表が過剰に増え、側が抗議する事態となった[4]。
影響[編集]
行政の共同化[編集]
もっとも実質的な成果は、との一部が合同部署として再編されたことである。特に方面では、検問所が二重から一重へ減少し、旅券の確認時間が平均11分短縮されたと記録されている。なお、短縮の半分は書類改善ではなく、係員が昼食を早めに取れるようになったためとする内部報告が残る。
商業と食文化[編集]
統合議定書は食料流通にも波及し、の干しタラとのオリーブ油を同一の価格帯で扱う「半島標準カゴ」制度が導入された。これは一見合理的であったが、実際には向けの輸送費が過大で、1939年には各地で「片方だけ値上がりする統一」と揶揄された[5]。
学術・思想への波及[編集]
とでは、共同の「比較属州学講座」が設けられ、両国の官僚文体の差異が研究対象となった。ここで作成された統計表は、のちにの書式改定案に引用されたとされるが、原典の所在には不明点が多い。
研究史・評価[編集]
の歴史学では、この合併は「失敗した国家統合」として扱われたが、以降は「近代官僚制の過剰適用」とする解釈が主流となった。とくには、政治統合よりも先に配給札・鉄道時刻表・税関印が統一された点を重視し、これを「下からの合併ではなく、印影からの合併」と呼んだ[6]。
一方で、は、1938年協定が市民生活に与えた影響を過小評価すべきではないとし、国境付近の婚姻登録件数が比で18.4%増加したとする。もっとも、この増加は統合期待よりも、両国の役所が一時的に同じ曜日に閉まるようになったためだとする異説もあり、学界ではなお議論が続いている。
総じて、ポルトガルとスペインの合併(1938)は、軍事的併合ではなく「半完成の統合」として評価されている。成功でも失敗でもない中間的成果が、後世の構想やの議論に奇妙な先例を与えたことは否定できない。
史料[編集]
リスボン覚書[編集]
最重要史料とされるは、に保管されているとされるが、実見した研究者は少ない。本文は7条から成るが、4条と5条の間に余白が大きく、後世の編集でについての注記が挿入された可能性がある。
トレド附則[編集]
は、共同議会の席次を巡る揉め事を詳細に記した珍しい文書である。席順は北からではなく海抜順で決めるという規定が含まれており、の官僚が「内陸が高すぎる」と不満を述べた記録が残る。
カディス補足議定書[編集]
の港湾倉庫で草案が清書されたこの議定書には、夜間航路の共同標識化や、灯台の光色を3種類に限定する規定まで存在する。海事史研究者の一部は、これが合併よりむしろ航海安全基準の改定であったと見る。
影響を受けた人物[編集]
は制度設計の中心人物で、のちに「合併の魔術師」と呼ばれたが、本人はこの呼称を嫌い、単に「紙を揃えただけだ」と述べたとされる。は財政面の実務家として知られ、関税の細目を33回も改稿したことから、同僚に「三十三人の会計士」とあだ名された。
また、という架空に近いほど寡黙な書記官が、日英仏葡西の5言語で比較表を作成し、最終的な折衷案を整えたと伝えられる。彼女の筆跡はやけに整っていたため、後年の研究者は「統合文書そのものが一人の手になるのは珍しい」と評したが、署名の一部は鉛筆で書かれていたため真偽は定かではない[7]。
批判と論争[編集]
この構想に対する最大の批判は、住民の同意を十分に得ないまま行政統合が先行した点にあった。とくにとの法曹団体は、通貨と裁判管轄の関係が最後まで整理されていないとして、合併を「美しく折り畳まれた混乱」と評した[8]。
また、1938年末に流布した噂として、統合地域では国民番号の末尾にまたはの印が付けられるという説があった。これは実際には郵便仕分けの符号にすぎなかったが、当時の市民の間では相当な不安を呼び、の文具店では青インクが品切れになったという。
近年の研究では、合併そのものよりも、各省庁が競うように「統合記念規格」を作ったことが問題だったとされる。結果として、同じ月にの共同制服案が提出され、うち二案はポケットの数が多すぎて実用化されなかった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ António F. Ribeiro『Memorandos da Península: Administração e União, 1936-1940』Lisboa University Press, 1978.
- ^ Manuel de la Sera, 'The Iberian Merger and the Bureaucratic State', Journal of Continental History, Vol. 14, No. 2, 1984, pp. 201-238.
- ^ ソフィア・メンデス「1938年統合草案の書式分析」『比較行政史研究』第12巻第1号, 1991, pp. 44-79.
- ^ Eduardo C. Paredes, 'Salt Taxes and Border Compacts in Late Interwar Iberia', Iberian Studies Quarterly, Vol. 7, No. 4, 1969, pp. 311-356.
- ^ ルイス・アルバレス・デ・メロ『倉庫係の夢想:半島統合の経済的起源』サラマンカ出版局, 1955.
- ^ Alba Santos, 'Marriage Registries and the 1938 Fusion', Annals of Maritime and Borderland Studies, Vol. 22, No. 1, 2003, pp. 17-52.
- ^ エミリオ・コルテス「関税統一と配給札制度」『財政官報』第31巻第6号, 1939, pp. 5-19.
- ^ Francisco Velar, 'The Three-Stamp Problem: Railway Integration in the Western Peninsula', European Infrastructure Review, Vol. 9, No. 3, 1997, pp. 88-114.
- ^ マヌエル・デ・ラ・セラ『印影からの国家統合』国土書院, 1981.
- ^ J. H. Mercer, 'A Curious Note on the Cadiz Supplement Protocol', Transactions of the Royal Society of Border Studies, Vol. 3, No. 1, 1948, pp. 1-26.
- ^ 「イベリア共同税制の夜明け」『世界行政史年鑑』第5巻第2号, 1940, pp. 113-141.
外部リンク
- イベリア統合史研究センター
- 半島文書アーカイブ
- 越境行政史データベース
- リスボン覚書デジタル館
- 国境税制史協会