マッカーサー襲撃事件
| 発生日 | 1945年11月3日とされる |
|---|---|
| 発生地 | フィリピン・レイテ島周辺海域 |
| 原因 | 警備演習の誤伝達と反マッカーサー宣伝 |
| 関与組織 | 南西太平洋方面軍、米軍情報部、在留記者団 |
| 被害 | 負傷者17名、艦載無線機4基の損傷 |
| 通称 | レイテの夜襲 |
| 後日談 | 戦後の回顧録で「襲撃」という語が独り歩きした |
マッカーサー襲撃事件(マッカーサーしゅうげきじけん、英: MacArthur Raid Incident)は、に周辺で発生したとされる、連合軍の対警備作戦を発端とする一連の騒乱である[1]。のちに内部の通信事故と演劇的な誇張が重なって拡大した事案として知られている[2]。
概要[編集]
マッカーサー襲撃事件は、末期の南西太平洋戦域において、の臨時宿営地が「襲撃された」とする報告から始まった事件である。実際には、夜間の上陸訓練、記者向けの移動式照明、そして現地警備隊の過剰反応が重なった結果、敵襲として誤認された可能性が高いとされる[3]。
事件の特殊性は、軍事上の混乱に加え、当時の系記者が「将軍は襲撃の標的となった」とするドラマチックな原稿を送信した点にある。これにより、半日ほどのあいだに「襲撃」は既成事実として流布し、の軍報道班では訂正よりも先に演出効果の検討が行われたという[4]。
歴史[編集]
前史[編集]
事件の前史は、末にへ移送された連合軍司令部の警備方式にさかのぼる。マッカーサーは自らの視認性を高めるため、宿営地の照明を極端に制限する一方、海側には小型探照灯を三基だけ設置するよう命じたとされる。これは潜伏性を高めるための措置であったが、地元通訳のが「三つの灯は呼び水である」と誤訳し、周辺部隊に奇妙な緊張を生んだ[5]。
襲撃の発生[編集]
午後10時17分頃、湾内で回頭していた上陸艇群が突然停止し、同時に無線で「A-17コードが発火した」と送られたことから、警備班は敵襲と判断した。直後に型機の搭乗員が低空で通過したため、見張り兵はこれを爆撃機編隊と誤認し、機関銃が11秒間だけ発射されたと記録されている。弾痕はテント幕に6か所残ったが、翌朝の点検ではいずれも乾燥ロープを撃ち抜いただけであった。
この夜、マッカーサー本人は折りたたみ机で地図を広げていたが、襲撃音を「極めて礼儀正しい砲撃」と評したとされる。また、同行していたは、のちに「事件の半分は霧、四割は電波、残りは記者の筆圧である」と回想した。
拡大と収束[編集]
事件が拡大した最大の要因は、翌朝のの説明文が二種類存在したことである。英語版は「未確認接近事案」、日本語要約は「将軍宿営地襲撃未遂」とされ、後者だけが現地紙『』に抜粋転載された。これにより、実際には死傷者の少ない夜間混乱が、あたかも対マッカーサー奇襲作戦であったかのように受け取られた[6]。
収束は早かったが、終戦直後のにおける記録整理で、襲撃時に使用されたとされた「赤色信号弾」が、実は調理班の梨缶詰搬入合図であったことが判明した。なお、この点については『』でも一応触れられているが、注記が二行にわたって曖昧であるため、後世の研究者を混乱させ続けた。
社会的影響[編集]
事件は軍事史上の小規模混乱にすぎなかったが、戦後の米比関係においては象徴的な意味を持った。特に以降、フィリピンの新聞では「襲撃」という言葉が、実際の武力攻撃よりも『威厳のある失敗』を指す比喩として用いられるようになったという[7]。
また、の翻訳家が事件記録をもとに書いた『将軍はなぜ襲われたか』は、軍事ノンフィクションとして刊行されたにもかかわらず、途中から舞台劇のト書きが混入していたため、大学の演劇研究会で脚本資料として読まれた。この誤用がきっかけとなり、後半には「襲撃事件を再現する即興劇」がとで上演されるなど、奇妙な文化的波及を見せた。
批判と論争[編集]
事件の史実性については、当初から疑問が呈されていた。とりわけの保存資料には、襲撃を示す明確な作戦命令が存在せず、後年の編集で「RAID」という語だけが強調されていることが指摘されている[8]。そのため、事件そのものよりも、記録の作られ方をめぐる議論のほうが長く続いた。
一方で、のは、事件の実在性よりも「なぜ人々が襲撃を信じたか」に注目し、戦時下における英雄譚の需要を分析した。この研究は一定の評価を受けたが、彼女が脚注で用いた「半襲撃」という用語は意味が不明瞭であり、後続研究ではほとんど採用されていない。
事件をめぐる人物[編集]
事件に関わった人物としては、まず本人が挙げられるが、彼は襲撃の被害者というより、むしろ事件の「語り手」であったとされる。彼の補佐官は、無線記録の末尾に勝手に「壮烈」と書き加えたことで知られ、のちに文書管理から外された。
現地側では、無線士が重要である。彼は英語の「raid」を「礼儀作法」と聞き違えたという説が有力であり、その誤訳が後続の報道見出しに影響したとされる。また、宿営地の調理主任は、銃声の直前に出されたスープが「最も静かな戦闘前食」であったと証言しており、この証言は軍事史料よりもしばしば引用される。
後世の再評価[編集]
になると、事件は軍事的失策ではなく、情報統制とメディア増幅の典型例として再評価された。特にの研究班は、事件を「単発の銃撃」ではなく「編集プロセスの襲撃」と定義し直し、記者会見の逐語記録12分38秒分を分析した。この解釈は学界で一部受け入れられたが、用語がやや詩的すぎるとの批判もある。
さらにには、の地方博物館が「マッカーサー襲撃事件展」を開催した。展示物の中心は、事件当夜に壊れたとされる無線機ではなく、修理のために持ち込まれた後で所在不明となった木製のラベルであり、来場者の多くはそれを見て「これが歴史の空白である」と納得したという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆一『レイテ夜報の虚実』中央公論軍事資料社, 1964, pp. 41-79.
- ^ Margaret H. Lowell, "The MacArthur Raid and the Theater of War", Journal of Pacific History, Vol. 12, No. 3, 1978, pp. 201-224.
- ^ 川島孝蔵『南方通信誤訳史』東洋書林, 1952, pp. 88-103.
- ^ Eleanor K. Bishop, "Half-Raid: Narrative Inflation in Wartime Headlines", University of Hawaii Press, 1981, pp. 5-38.
- ^ 『陸軍通信史料集 第7巻 戦域雑報編』防衛研究会, 1950, pp. 312-319.
- ^ 田中栄一『将軍襲撃報道の研究』みすず出版, 1971, pp. 144-166.
- ^ Richard P. Willoughby, "Signals, Smoke, and Breakfast Soup: A Field Note from Leyte", Military Review Quarterly, Vol. 9, No. 1, 1960, pp. 17-29.
- ^ 三好冬子『将軍はなぜ襲われたか』河出書房, 1954, pp. 11-62.
- ^ H. J. Carlton, "The Report Was the Raid", Proceedings of the Naval Historical Society, Vol. 4, No. 2, 1993, pp. 90-117.
- ^ 『マニラ・クロニクル復刻版 特報号』フィリピン国立図書館, 1946, pp. 2-9.
- ^ 小野寺弘『戦争と見出しの修辞学』新潮選書, 1990, pp. 73-95.
外部リンク
- 南西太平洋戦域史料アーカイブ
- レイテ戦時報道研究センター
- マッカーサー事件博物資料室
- 太平洋戦争誤報年表データベース
- フィリピン近代史口承収集会