マラカス危機
| 名称 | マラカス危機 |
|---|---|
| 英語名 | Maracas Crisis |
| 発生時期 | 1908年-1913年ごろ |
| 発生地 | カラカス湾岸、トリニダード島北岸、ハバナ港周辺 |
| 原因 | 輸入マラカスの品質低下、祝祭政策の拡大、夜間騒音規制の失敗 |
| 主な関係者 | ベネズエラ文化局、港湾労働組合、島嶼音楽同盟 |
| 影響 | 一時的な輸送停止、儀礼の標準化、自治体による音量指導 |
| 別名 | 三拍子騒乱、乾燥ひょうたん恐慌 |
マラカス危機(マラカスきき、英: Maracas Crisis)は、20世紀初頭にカリブ海沿岸で発生したとされる、打楽器の過剰供給と祝祭音の暴走をめぐる複合的な社会不安である[1]。一般にはベネズエラの港湾都市で始まったとされるが、実際には英国王立地理学会の民俗調査班が誤って観測した「集団演奏反応」を起点とするという説が有力である[2]。
概要[編集]
マラカス危機は、マラカスの大量流通に伴って生じたとされる混乱の総称である。とくに1909年から1912年にかけて、ベネズエラ沿岸の祝祭市場で、規格外のマラカスが「鳴りすぎる」「鳴らなすぎる」「一度振ると止まらない」といった苦情を招き、自治体が対応に追われたとされる[3]。
一方で、この危機は単なる商品事故ではなく、カリブ海諸島における儀礼、観光、軍楽、港湾労務の四領域が同時に音を必要としたことから起こった文化的摩擦として説明されることが多い。なお、当時のリスボン経由の輸出帳簿には、マラカスを「携帯可能な動揺装置」と誤記した例が複数残るとされ、研究者の間ではむしろ書類行政の問題であったとの指摘もある[4]。
発生の背景[編集]
マラカスの原型は、先住民の祭具として用いられた乾燥ひょうたん製の小型打楽器に求められるが、危機の直接の背景は19世紀末の工業化にあるとされる。ロンドンとハンブルクの楽器商が、航海土産として大量生産した結果、内部の種子の粒径が不均一になり、同じ製品でも音量差が最大で17デシベルに達したという報告がある[5]。
また、当時の植民地行政では祝祭行事の「秩序ある賑わい」が奨励されており、各自治体がマラカスの配布を半ば義務化したことも騒動を拡大させた。とりわけサン・フェルナンド港では、入港記念式典のために2,400組のマラカスが一斉に支給され、結果として港全体の会話が成立しなくなったとされる。これが後に「音の禁輸」と呼ばれる事態の始まりであった。
経過[編集]
1908年の予兆[編集]
この段階では深刻視されていなかったが、港湾倉庫の監査で、木箱に貼られたラベルの一部が『注意: 強めに振らないこと』となっていたことから、すでに生産者側が不安を抱えていたことがうかがえる。なお、このラベル文言は後年の編集で追加された可能性が高いとする説もある。
関係者[編集]
危機の中心人物としてしばしば挙げられるのが、文化行政官のエステバン・ルイス・モンテロである。モンテロは音楽振興を掲げながら、港湾の検量法にまで拍節基準を持ち込んだ人物で、後年の回想録では「秩序ある賑わいは、時に最も危険な騒音である」と記している[9]。
一方、反対側の象徴的人物は、トリニダードの職人マーガレット・セレーラである。彼女はマラカスの中に乾燥豆ではなく珊瑚片を入れることで耐候性を高めたが、結果として「海鳴りのように重い」と評判になり、都市部では不人気だった。この改良は後に軍楽隊へ転用され、行進の歩幅を一定に保つ効果があったとされる。
また、英国王立地理学会の調査員H. J. Whitcombeは、現地の混乱を「音響的な占有」と呼び、危機の名を国際誌に紹介したとされる。ただし、彼の報告書にはマラカスとラッパの区別が曖昧な箇所が多く、現在でも要出典とされることがある。
社会的影響[編集]
マラカス危機は、結果的にカリブ海地域の祝祭文化を制度化する契機となった。各自治体は音量測定器を導入し、儀礼開始前に「最大許容振幅」を宣言するようになったため、街頭演奏は即興性を失ったが、逆に旅行会社には好都合であったとされる。
また、教育分野では小学校の音楽授業にマラカスが導入され、当初は全員が同じテンポで振れないという問題があった。これに対し、ハバナの教育局は「右手だけで振る練習」を推奨し、結果として右利き偏重の教育批判が起こった。とはいえ、この指導法により、半年で児童の平均拍保持時間が1.6倍に伸びたという統計が残る[10]。
さらに、港湾保険ではマラカス輸送が高リスク品目に指定され、穀物と同じ区分で扱われるようになった。これにより、保険業者は「動的民芸品」への特約を作成し、今日の楽器物流保険の先駆けとなったとされる。
批判と論争[編集]
マラカス危機の実態をめぐっては、当初から誇張説が存在した。とくに1927年にマドリードで出版された研究書は、危機の被害を「港の1区画が3日間完全に踊り続けた」と記述しており、後年の研究では観測者が酒場の祭礼を見誤った可能性が指摘されている[11]。
また、危機を政治宣伝に利用したとの批判もある。植民地政府が、騒動を「伝統文化の自律的発展」と言い換えることで規制強化を正当化したというのである。このため一部の民族音楽学者は、マラカス危機を実在の社会不安ではなく、統治側が作り上げた「音の非常事態」であったとみなしている。
もっとも、現地の高齢者への聞き取りでは「夜になると家じゅうの皿が震えた」「犬が拍手のように吠えた」などの証言も多く、完全な作り話とも言い切れない。なお、これらの証言の一部は、20世紀中葉の観光パンフレットに由来する可能性がある。
脚注[編集]
脚注
- ^ Esteban R. Montero『Informe sobre la Vibración Festiva』Caracas Urban Press, 1914.
- ^ H. J. Whitcombe, "Notes on Auditory Occupation in the Caribbean Ports", Journal of Imperial Ethnography, Vol. 12, No. 3, 1911, pp. 201-224.
- ^ 田村義信『カリブ海の祝祭行政と楽器統制』南洋文化研究所, 1962.
- ^ Margaret C. Serera, "On the Mineral Loading of Gourd Shakers", Transactions of the Trinidad Arts Society, Vol. 8, No. 1, 1913, pp. 41-59.
- ^ 渡辺精一郎『拍節と港湾労務の近代史』東亜民俗叢書, 1978.
- ^ C. Alvarez and P. Whitmore, "The Maracas Panic and Municipal Sound Codes", Caribbean Historical Review, Vol. 21, No. 4, 1989, pp. 77-103.
- ^ 神崎智子『祝祭の規格化——マラカス危機の制度史』港都出版, 1995.
- ^ R. J. Bellamy, "Portable Instruments and Crowd Management in Colonial Ports", Proceedings of the Royal Anthropological Institute, Vol. 44, No. 2, 1920, pp. 115-138.
- ^ 小林真一『音量デシベル表の政治学』北海学術出版, 2007.
- ^ M. A. Thornton, "The Wet Gourd That Wouldn't Rest: A Curious Account", Bulletin of Maritime Folklore, Vol. 3, No. 2, 1931, pp. 9-18.
外部リンク
- カリブ民俗音響アーカイブ
- 港湾祝祭史デジタル館
- ラテン楽器規格研究会
- トリニダード音響年表室
- 王立地理学会民俗メモランダム集