ミネルヴァ大虐殺
| 種類 | 都市内虐殺(市民・学術従事者が主対象とされる) |
|---|---|
| 発生日 | 1739年(複数の暦換算があり、同年内の別日ともされる) |
| 場所 | 周縁の穀物倉庫群および運河沿いの礼拝堂街区 |
| 原因 | 徴税監督官と港湾組合の権限争い、そこに宗教的扇動が混入したとされる |
| 関係勢力 | 港湾組合(マリーナ家系)、私設警吏団、ならびに秘密結社的同盟 |
| 被害規模 | 公式記録は「家屋の破損数」を主に残し、死者推計は幅がある |
| その後 | 裁判と出版検閲が同時に進行したとされる |
ミネルヴァ大虐殺(みねるヴぁだいぎゃくさつ)は、にで起きたである[1]。後世には、宗教改革と都市運営の摩擦が一夜にして爆発した出来事として語り継がれてきた[1]。
概要[編集]
は、17世紀後半に整備された都市防災と課税制度が、18世紀に入って「学術施設の特権」へとすり替わったことを背景として説明されることが多い[1]。当時のでは、港湾の穀物物流を握るが、租税徴収の実務までを事実上請け負う仕組みが拡大していたとされる。
一方で、1730年代には私設警吏団が「秩序維持」を名目に徴税ルートへ介入し、さらに宗教講壇を利用した扇動が重なった。とりわけ、学術講義の名目で配布されたパンフレットが、特定の夜にだけ同じ文言で読み上げられたことが目撃記録に残っているとされる[2]。このため虐殺は、単なる暴動ではなく、都市運営の制度的歪みが暴力に転化した事件として扱われてきた。
後世の研究では、「大虐殺」という語が死者数の誇張ではなく、被害が“数”ではなく“生活圏の破壊”として記録されている点に由来するとする見方もある[3]。この立場では、犠牲の中心は人命のみならず、倉庫と礼拝堂、ならびに帳簿保管所の焼失であったとされる。
背景[編集]
「ミネルヴァ」信仰と都市会計の結びつき[編集]
虐殺の呼称に含まれるは、古代ローマの女神名として知られていたが、ここでは“都市会計の守護”として再解釈されたとされる。1730年、の税務局に「ミネルヴァ帳簿」様式が導入され、すべての入出金が“音読確認”される運用が始まったとされる[4]。この制度は、監査の透明性を高めるものとして歓迎されたが、同時に口頭暗誦に依存することで改ざんの余地も増えたと指摘されている。
さらに、この帳簿様式を管理する職員の間でだけ、特定の礼拝堂で同じ詩句が朗読される慣行が広まった。朗読の担当が交代し始めたのは、都市港湾組合が徴税実務を取り込み始めた時期と重なるとされる[5]。なお、ミネルヴァ帳簿が「神学と会計を一体化させた最初の試み」と呼ばれたことが、対立を宗教的な色へと塗り替える契機になったとする説が有力である。
港湾組合と警吏団の「権限地図」[編集]
1733年以降、は運河沿いの倉庫管理と税査定を一体で担うようになり、「組合の夜間巡回は、税務官の許可を要さない」との内規が噂されたとされる[6]。この内規に対し、私設警吏団は「許可なく立ち入るのは密輸の温床」として倉庫群を封鎖し、出入りを制限した。
ところが、当時の倉庫は一帯で“鍵の系統”が共有されており、封鎖は必然的に礼拝堂街区の備蓄庫へ波及した。結果として、礼拝堂の共同貯蔵(施与用の穀物)にまで手が伸びたとする記録が残っている[7]。このとき、施与の列に混じった数十名が「帳簿の朗読を妨げた」と告発され、容疑が“会計妨害”から“反ミネルヴァ”へ変質したとする指摘がある。
経緯[編集]
虐殺は、1739年のある夜、運河の水位を計る望遠測量具(都市防災用途)が一斉に点検される日程と重なって発生した。計測そのものは「洪水を予防するため」とされるが、実際にはその合図として、港湾組合の鐘が鳴らされたと記録されている[8]。
同日、は倉庫群の出入口をからまで“許可不在”として封鎖したとされる。ここで奇妙なのは、封鎖解除の記録が残っていない点である。代わりに、礼拝堂街区では「帳簿の朗読が止まったため」として、ミネルヴァ詩句の“途中からの再朗読”が命じられたとされる[9]。
扇動は、学術講義の形式を借りた。講師役の男は、町の印刷所から届いた小冊子を読み上げ、最後に「守るべきは女神ではなく、女神の数字である」と強調したと伝わる[10]。この一文が、その後の襲撃時に合図として繰り返されたとされ、襲撃者が“誰を数えるか”を揃えるための合図になったのではないかと推測された。
結果として、倉庫の鍵が合わない世帯から順に選別されたとする記録がある。現場調書では、破壊された家屋の数が件、焼損した帳簿保管の部屋が室、運河へ流された空の樽が本といった数字が並び、とりわけ樽の数がやけに具体的であることが研究史でたびたび言及されてきた[11]。この細目は、死者数を直視することを避けた行政的な癖を示していると考えられている。
影響[編集]
裁判より先に起きた「出版の沈黙」[編集]
虐殺直後、翌月にはの印刷所に対して“朗読文書の全回収”命令が出されたとされる[12]。裁判が始まる前に出版が止められたため、当事者の証言は断片化し、のちの史料を巡る争いが長期化したと指摘されている。
また、ミネルヴァ帳簿の様式は一時的に廃止されるが、完全には戻らなかった。代わりに監査人の署名が増え、「数字の守護」が“紙の署名”へ移されたとされる。こうして事件は、会計をめぐる技術改革と検閲体制を同時に加速させたと評価されてきた[13]。
港湾経済と都市信頼の再設計[編集]
港湾組合は、虐殺後の数年で徴税権を縮小し、代わりに“防災物流税”という新税目を導入したとされる。ここでは、洪水対策のための備蓄が“神学”ではなく“工学”で説明されるようになった。さらに、夜間巡回は組合から警吏団へ段階移管され、結果として世帯単位で巡回区画が割り当てられたとされる[14]。
一方で、市民の間には「夜の鐘の数だけ安全が変わる」という噂が残った。この噂は、後の市民運動の合図に転用されたと考えられている。とりわけ、次の大規模改革が起きるまで、港湾では鐘の回数を統制する“非公式な慣行”が続いたという[15]。
研究史・評価[編集]
研究においては、事件の主語が“暴徒”なのか“制度”なのかで評価が割れている。ある系統では、虐殺は当日の合図(鐘の回数、詩句の再朗読)に集中的に注目し、「都市儀礼が暴力のスイッチになった」とする[16]。また別の系統では、帳簿の様式変更と出版検閲の関係に焦点を当て、「死者数より情報の流通が狙われた」と主張される。
一方で、死者推計の数字には大きな揺れがある。調書が家屋・樽・部屋数中心であるため、推計者は“焼損家屋数×平均世帯人数”を用いるが、その平均値としてという小数を採用する研究もある[17]。ただし当該研究は、当時の都市統計の作成年月が不明であることから、採用には慎重であるべきだとする指摘がある。
評価の中には、虐殺を「宗教改革の余波」と関連づけたがる論調も見られた。しかしそれは後に「ミネルヴァ帳簿が都市会計の都合で神学語彙を借用しただけ」として修正された経緯がある。なお、この“修正”自体が同時代の検閲文化の残り香だとする皮肉も、19世紀末の論者によって言及されている[18]。
批判と論争[編集]
最大の論争点は、事件の実行主体を巡る解釈である。港湾組合は、私設警吏団の暴走だと主張し、私設警吏団側は「帳簿朗読の妨害者を排除しただけ」と反論したとされる[19]。だが、両者の主張は同じ文体の報告書で補強されており、報告書作成がどこかの役所によって統一された可能性があると指摘されてきた。
また、民衆側の記憶についても疑義がある。口承では、襲撃時に響いた合図を「ミネルヴァ」とするが、史料では同義語が複数存在する。たとえばが“女神の守護者”ではなく“数字の守護者”として語られていた痕跡があり、この点が後世の再編集を示すという意見がある[20]。
このように、事件の記述は「何が起きたか」だけでなく「どの言葉で起きたことにされたか」によって形作られてきた。その結果、ミネルヴァ大虐殺は、単発の暴力としてではなく、情報統制と制度設計の交差点として理解されることが多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Giovanni Lamberti『La contabilità di Minerva e le sue eresie urbane』Venice University Press, 1762.
- ^ マルチェッロ・ロッシ『ミネルヴァ帳簿の夜間運用史』ボッテガ史料館叢書, 1881.
- ^ Émilie Martin『Soundings of the City: Bell Sequences and Civic Violence』Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, pp. 201-228, 1907.
- ^ Sara al-Nahhas『The Port Tax as a Ritual Machine』Middle Eastern Studies Quarterly, Vol. 44, No. 1, pp. 77-103, 1932.
- ^ ヘンリー・K・ハリントン『Guardians of Numbers in Early Modern Administration』Proceedings of the Society for Municipal History, Vol. 9, No. 2, pp. 11-44, 1964.
- ^ Caterina Bevilacqua『Minerva and the Ledger: Trial Records After 1739』Archivio Veneto, 第18巻第2号, pp. 55-96, 1979.
- ^ R. T. Kline『Records Without Bodies: Counting Methods in Mass Incidents』European Review of Administrative Data, Vol. 31, No. 4, pp. 501-537, 1988.
- ^ 田中清之『都市の鐘が語るもの―18世紀地中海の儀礼統制』中央史書房, 2001.
- ^ Yara Haddad『Re-Reading the Ardor: Censorship and Repetition in Print Culture』Cambridge Gate Press, 2013.
- ^ Amina Sayeed『Minerva Massacre: A Numerical Myth Reconsidered』Oxford Harbor Studies, Vol. 3, No. 1, pp. 1-19, 2020.
- ^ (書名が微妙におかしい)Marina de la Minerva『ミネルヴァ大虐殺の幾何学的再構成』海事幾何学協会出版, 1972.
外部リンク
- ミネルヴァ帳簿デジタルアーカイブ
- 港湾組合史料ポータル
- 鐘の回数研究会
- ヴェネツィア近代前夜の都市記録館
- 出版検閲令データベース