ランツァフィーナの反乱
| 名称 | ランツァフィーナの反乱 |
|---|---|
| 発生年 | 1878年 - 1881年 |
| 場所 | ピエモンテ州、ロンバルディア州、トレンティーノ |
| 原因 | 封蝋顔料税、行商許可証、山岳郵便の統制 |
| 結果 | 限定的譲歩、顔料規格の改訂、10年後の再燃 |
| 参加勢力 | 農民同盟、印章職人組合、山岳荷役人 |
| 指導者 | チェーザレ・ヴォルピーニ、マルタ・レッジョ |
| 死者数 | 推定143人 |
| 別名 | 封蝋戦争、赤い灰の騒擾 |
ランツァフィーナの反乱は、後半のと周辺で発生したとされる、封蝋用顔料「ランツァフィーナ」をめぐる半農半工の連続蜂起である。地方税の徴収方法を発端にからへ波及し、のちにと印刷業者を巻き込む騒乱として記録された[1]。
概要[編集]
ランツァフィーナの反乱は、封蝋や公文書の目印に用いられた赤褐色顔料の供給独占を背景として、に近郊で始まった反政府運動である。研究者の一部はこれを純粋な食糧暴動ではなく、山岳地帯の流通網をめぐる「印章行政への抵抗」と位置づけている[2]。
名称の由来については、顔料を最初に大規模採掘したの麓にあった小村に由来するという説が有力であるが、実際には両地名が後年の新聞見出しの都合で接合された可能性も指摘されている。いずれにせよ、事件はの山岳統治、地方商人ギルド、そして印刷局の三者を同時に刺激し、イタリアの地方行政史に奇妙な位置を占めている[3]。
背景[編集]
顔料税と山岳郵便[編集]
、は山岳地域の封蝋材料を統一管理するため、ランツァフィーナに対して「耐湿等級税」を導入した。これは本来、公文書の偽造防止を目的とした制度であったが、実務上は郵便袋、納税証書、教区の結婚台帳にまで適用され、山岳民の負担を急増させたとされる。
とくにからへ向かう山岳郵便は、顔料不足によって封緘の色が日ごとに変化し、宛名確認に平均で3.7日を要したという記録がある。なお、この数字は所蔵の覚書にのみ見られ、出典の信頼性には疑義がある[要出典]。
職人組合の分裂[編集]
反乱の前史として重要なのが、内部の分裂である。伝統派は純粋な植物染料の使用を求めたが、若い職人たちは鉱物系顔料の方が寒冷地で割れにくいと主張した。これが単なる技術論争にとどまらず、やがて「国家は色を支配しようとしている」という政治的スローガンへ転化した。
の新聞『ラ・ヴォーチェ・デッラ・ヴァッレ』は、12月号で「封蝋の赤は自由の赤か、課税の赤か」と題する社説を掲載し、これが翌年の集会で繰り返し引用されたとされる。
経過[編集]
トリノ近郊の封緘騒擾[編集]
3月、南部の倉庫地区で、ランツァフィーナ袋の積み替え作業をめぐる争いが発生した。荷役人は、税印の押された袋が一つでも破損すると全量没収になる制度に抗議し、倉庫の屋根に封蝋塊を投げ上げる形で抗議を開始した。
この行動は一見滑稽であったが、投擲された封蝋塊が熱で軟化し、近隣の帳簿を一斉に汚したため、結果的に市役所の税務台帳が一週間ほど機能不全に陥った。後年の反乱参加者はこれを「最初の勝利」と呼んでいる。
山岳連絡線の遮断[編集]
騒乱はの谷筋へ拡大し、反乱側は荷馬車の車輪に顔料を塗りつけて進路を追跡不能にする戦術を採った。特にでは、白い石壁に赤褐色の指紋が一面に残るため、軍は「壁に触れただけで所在が分かる」として夜間行軍を断念したという。
反乱軍は正規軍ではなく、山小屋の管理人、香具師、教区書記、墓碑彫刻師などの寄せ集めであり、が即席で配布した「三色の封蝋規則」にならって行動した。規則は全7条で、うち第4条は「税吏に見つかった場合、封を切る前にまず紅茶を勧めよ」であった。
ボローニャ協約と終息[編集]
、で州政府側と代表団が会談し、いわゆる「ボローニャ協約」が結ばれた。協約では、ランツァフィーナの課税率が2割減免される代わりに、各村落は年に一度の封蝋点検を受け入れること、また印章職人組合は公用赤の濃度を8.2パーセント以内に抑えることが定められた。
ただし、協約締結の翌週にはトレンティーノの山村で再び小規模暴動が起き、地方紙はこれを「終わったはずの反乱が、気温に応じて再発する」と記述した。以後、ランツァフィーナの反乱は一回の事件というより、冬季に再燃する慣習的抗議として認識されるようになった。
社会的影響[編集]
反乱の直接的成果は限定的であったが、における封緘文書制度の再設計を促した点で重要である。特にの「公印材料統一令」では、地方ごとに異なっていた封蝋色が5系統に整理され、役所間の書類往来が大幅に迅速化されたとされる。
また、反乱は山岳地域の住民が単なる税負担者ではなく、流通技術の担い手として自覚を持つ契機になったと評価されることがある。もっとも、の教授は「実態は封蝋の争いではなく、冬季の暇を持て余した共同体の集団芸能である」とも述べており、解釈は分かれている[4]。
歴史学上の位置づけ[編集]
20世紀後半以降、ランツァフィーナの反乱は、、さらにはの交差点にある事例として扱われるようになった。とくに封蝋という極めて小さな制度材料が、地域権力・商習慣・言語表象にまで波及した点が注目されている。
一方で、反乱の実在性そのものを疑う研究も存在する。1920年代の地方新聞が事件を誇張して連載した可能性や、複数の小競り合いが後世に一つの名称へ統合された可能性があるためである。とはいえ、とに残る税印付き木箱の残存記録は無視しがたく、現在でも研究者の間では「半ば実在し、半ば神話化した反乱」と整理されている。
批判と論争[編集]
最も大きな論争は、反乱の指導者とされるとの実在性である。前者は地方の荷役人名簿に同姓同名が3人確認される一方、後者は修道院の寄進簿にしか現れないため、同一人物か合成人物かが定まっていない。
また、反乱側が使用したとされる「三色の封蝋規則」については、全文がにの古書店で発見されたとされるが、紙質分析の結果、むしろ以降の再筆写である可能性が高いとされている。にもかかわらず、本文第6条の「雨の日は色を責めるな」という一節は広く引用され、現在では地方自治運動の比喩としても用いられる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Luigi Ferrante『The Red Wax and the State: Fiscal Reform in Northern Italy』Cambridge University Press, 1998, pp. 41-88.
- ^ 藤井 恒一『封蝋と山岳共同体――ランツァフィーナ事件の再検討』岩波書店, 2007, pp. 113-167.
- ^ Maria Bellucci『Color, Tax, and Resistance in Alpine Italy』Journal of Mediterranean Social History, Vol. 12, No. 3, 2011, pp. 201-229.
- ^ 佐伯 祥平『印章職人組合の政治文化』東京大学出版会, 2013, pp. 55-104.
- ^ Giovanni Rinaldi『La Reggione delle Ceralle: Appunti su Lanzafina』Bologna Historical Quarterly, Vol. 8, No. 1, 1964, pp. 14-39.
- ^ Nadia Moretti『The Bologna Accord of 1881 and Its Discontents』European Review of Rural Studies, Vol. 5, No. 2, 2002, pp. 77-121.
- ^ 高橋 眞一『山岳郵便の近代化と封緘制度』法律文化社, 1991, pp. 9-63.
- ^ Elena Sforza『Wax, Fraud, and Provincial Authority』Annali di Storia Amministrativa, 第17巻第2号, 1979, pp. 300-352.
- ^ Carlo Ventresca『Lanzafina Rebellion: A Chronicle in Seven Rules』Oxford Alpine Papers, Vol. 4, No. 4, 2018, pp. 1-29.
- ^ 村上 輝夫『赤い灰の騒擾――地方紙と事件の神話化』新潮社, 2020, pp. 201-246.
外部リンク
- トリノ地方史アーカイブ
- アルプス民衆文化研究センター
- ボローニャ行政文書デジタル館
- 封蝋技術史協会
- 山岳郵便史料室