リアンクール岩礁の撤去計画
| 名称 | リアンクール岩礁の撤去計画 |
|---|---|
| 時期 | 1898年頃 - 1934年頃 |
| 地域 | 日本海西部・東シナ海北部 |
| 関係機関 | 大日本帝国水路部、パリ海洋測地局、朝鮮沿岸航路委員会 |
| 目的 | 岩礁の除去、航路拡張、灯台設置、海図統一 |
| 主要人物 | 渡辺精一郎、Émile Varennes、朴晋守 |
| 結果 | 実施は断念、代替として標識礁化と爆破訓練のみ実施 |
| 別称 | 対馬沖清礁案、第二次水路近代化計画 |
リアンクール岩礁の撤去計画(リアンクールがんしょうのてっきょけいかく)は、からにかけて、西部の海上交通と測量行政をめぐって構想されたに関する歴史的計画である[1]。沿岸の航路整備と・両国の海図改訂史の交錯点として知られる[1]。
概要[編集]
リアンクール岩礁の撤去計画は、海図上で航路の障害とされた岩礁群を、爆破・切削・潜水採掘によって「撤去」しようとした一連の行政案を指す。実際には大規模な工事は行われず、主として測量、外交折衝、試験爆破の記録として残った。
この計画はにの臨時水路会議で初めて議題化されたとされ、その後の、の航路監督事務所、の民間海図会社が断続的に関与した。なお、当時の資料の一部には「岩礁を完全に撤去するのか、削平して標識化するのか」で会議が三日間も紛糾したと記されているが、この点は要出典とされることが多い[2]。
背景[編集]
海図上の発見と命名[編集]
リアンクール岩礁は、にフランス東洋航海隊の測量船『アルク・シェル』が再確認したとされ、船長の名前に因んで命名されたという説が有力である。ただし、現地の漁民はそれ以前から「白い歯の石」「潮の椅子」と呼んでいたとされ、命名史には複数の異説がある。
における蒸気船航路の増加に伴い、・・を結ぶ定期便の最適化が進む中、この岩礁は「見えないが確実に船腹を裂く」障害物として恐れられた。特に冬季の北西季節風下では、潮位差が1.8メートル前後しかない日でも露出面が広がり、座礁件数が年平均7件に達したとする報告がある[3]。
撤去論の成立[編集]
のでは、灯台増設よりも地形そのものを変える方が長期的に安価である、という極端な効率主義が一部で台頭した。これが撤去論の出発点であり、当時若手だった渡辺精一郎は「岩を避けるのではなく、岩のほうを避けさせるべきである」と演説したと伝えられる。
一方、側ではの海洋地理学者Émile Varennesが、岩礁を「東アジア海図の黒い句読点」と表現し、国際標準化のためには削岩が必要と主張した。この発言がので引用され、計画は一気に半ば学術的、半ば政治的な性格を帯びることになった。
経緯[編集]
第一次調査と試験爆破[編集]
、沖の臨時調査隊は、潜水鐘と手押し式測深器を用いて岩礁の最大突出部を測定した。そこで得られた数値は、満潮時でも最大で海面下0.4メートル、干潮時には露出幅22メートルとされ、工事の可否判断を左右した。
翌には、の技術班が黒色火薬による試験爆破を実施したが、爆圧の一部が近隣の海藻養殖区に伝わり、十数枚の昆布棚が「半熟のようにめくれた」ことから作業は中止となった。なお、報告書の末尾には、試験担当官が「岩は砕けたが、潮は納得しなかった」と書き残したという逸話がある。
外交摩擦と共同委員会[編集]
には、の航路局との保険組合が、岩礁撤去後の通航料改定をめぐって対立した。岩礁が消えることで保険料が下がりすぎると、逆に「危険海域証明書」の需要が激減するためである。
この問題を受けて、に『日仏合同リアンクール清礁委員会』が設置された。委員は12名で、うち6名が測量官、3名が法律家、2名が石工、1名が通訳であったが、議事録の半分以上が「岩礁を撤去した場合の国際法上の地位」に費やされたとされる[4]。
計画の頓挫[編集]
の勃発後、海軍予算は護衛艦と機雷敷設に振り向けられ、撤去計画は「将来の工事候補地」として保留された。さらにの航路再編で、同海域を通る汽船の大型化が進み、むしろ岩礁を完全撤去するより、周囲を迂回するほうが安全かつ安価と結論づけられた。
それでもには、の潜水技術研究所が液体空気を用いた冷却割岩法を提案し、実地模型まで作成した。しかし、模型は港湾の石畳を誤って一部破損し、地元紙が「模型にしては威力が大きすぎる」と報じたことで計画は事実上終息した。
社会的影響[編集]
この計画は実施されなかったにもかかわらず、沿岸の港湾政策に長期の影響を与えた。とりわけ、岩礁を「除去対象」とみなす発想が、のちの暗礁標識設置、人工礁化、浚渫事業の法制度整備につながったとされる。
また、計画に参加した技術者の多くが、その後やの港湾開発へ転じたため、「撤去計画は失敗したが人材は輸出された」と評されることもある。これにより、海洋工学の世界では、地形を壊す技術よりも地形と折り合う技術の方が高く評価される契機になった。
なお、民間ではこの計画を題材にした風刺画が流行し、の雑誌『潮待ち』では、岩礁に公文書をぶつける役人の挿絵が人気を博した。海運業界では、航路会議の長さを皮肉って「リアンクール式」と呼ぶ俗語が一時期使われたとされている。
研究史・評価[編集]
戦後史料の再発見[編集]
、の海事史研究室が旧逓信省文書を整理した際、焼け残った計画書の写しが見つかったことで、計画の実在性が再検討された。写しには「撤去後の岩礁は国家所有の砂礫として扱う」との一文があり、研究者のあいだで大きな話題となった。
しかし原本は未発見で、筆跡鑑定も一致しなかったため、現在でも「実施寸前まで行った幻の国家事業」とみる説と、「会議録だけが肥大化した官僚的寓話」とみる説が併存する。
評価の分岐[編集]
海洋史研究では、リアンクール岩礁の撤去計画は「失敗した工事」ではなく「海図思想の転換点」として評価されることが多い。一方で、港湾経済史の分野では、巨額の測量費と試験爆破費が投入されたにもかかわらず、最終成果が標識一基と報告書38冊にとどまったことから、典型的な過剰計画の事例とみなされる。
さらに、の地政学史研究者Margaret A. Thorntonは、同計画を「国家が自然地形に対して持った最後の幼稚な勝利欲」と記述したが、この表現はしばしば引用される一方で、刺激的すぎるとして批判も受けている[5]。
脚注[編集]
[1] 海洋近代史研究会『東アジア海図改訂と岩礁管理』水路書房、1938年、pp. 41-56. [2] 渡辺精一郎「対馬海域における清礁案の会議録」『水路学雑誌』第12巻第3号、1901年、pp. 9-18. [3] Jean-Pierre Lemaire, "Shoal Clearance and Steam Route Safety in the Sea of Japan", Journal of Littoral Studies, Vol. 7, No. 2, 1906, pp. 201-229. [4] 朴晋守『釜山航路委員会議事要録』朝鮮海運協会出版部、1913年、pp. 77-104. [5] Margaret A. Thornton, *Reefs, States, and the Will to Flatten*, Cambridge Maritime Press, 1964, pp. 88-91. [6] Émile Varennes, "Note sur la suppression des hauts-fonds nominaux", Revue d’Hydrographie, Tome 18, No. 4, 1903, pp. 3-14. [7] 佐伯光雄『潜水鐘と爆薬の世紀』中央測量館、1959年、pp. 130-149. [8] A. K. Feldman, "Administrative Geology in Early 20th Century Asia", Pacific Historical Review, Vol. 29, No. 1, 1952, pp. 17-35. [9] 中里道夫「撤去されなかった岩礁の政治学」『海と国家』第4巻第1号、1971年、pp. 55-73. [10] 『リアンクール清礁委員会速記録』第2冊、釜山臨時文書局、1914年、pp. 1-44.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 海洋近代史研究会『東アジア海図改訂と岩礁管理』水路書房、1938年.
- ^ 渡辺精一郎「対馬海域における清礁案の会議録」『水路学雑誌』第12巻第3号、1901年、pp. 9-18.
- ^ Jean-Pierre Lemaire, "Shoal Clearance and Steam Route Safety in the Sea of Japan", Journal of Littoral Studies, Vol. 7, No. 2, 1906, pp. 201-229.
- ^ 朴晋守『釜山航路委員会議事要録』朝鮮海運協会出版部、1913年.
- ^ Margaret A. Thornton, *Reefs, States, and the Will to Flatten*, Cambridge Maritime Press, 1964.
- ^ Émile Varennes, "Note sur la suppression des hauts-fonds nominaux", Revue d’Hydrographie, Tome 18, No. 4, 1903, pp. 3-14.
- ^ 佐伯光雄『潜水鐘と爆薬の世紀』中央測量館、1959年.
- ^ A. K. Feldman, "Administrative Geology in Early 20th Century Asia", Pacific Historical Review, Vol. 29, No. 1, 1952, pp. 17-35.
- ^ 中里道夫「撤去されなかった岩礁の政治学」『海と国家』第4巻第1号、1971年、pp. 55-73.
- ^ 『リアンクール清礁委員会速記録』第2冊、釜山臨時文書局、1914年.
外部リンク
- 東洋海図アーカイブ
- 釜山航路史料館デジタルコレクション
- 架空海洋工学年報
- 国際清礁研究センター
- 水路史談話室