リャザン財閥
| 正式名称 | リャザン財閥連合会 |
|---|---|
| 通称 | リャザン財閥 |
| 設立 | 1898年頃 |
| 解体 | 1929年 |
| 本拠地 | リャザン、モスクワ、トゥーラ |
| 主要事業 | 穀物、鉄道、鐘鋳造、寒冷地倉庫 |
| 創業者 | セルゲイ・A・ヴォロネツキー |
| 最盛期資産 | 約4億2,700万ルーブル |
| 別名 | 氷の会計府 |
リャザン財閥(リャザンざいばつ、英: Ryazan Zaibatsu)は、ロシア帝国末期からソビエト連邦初期にかけて周辺で形成されたとされる半官半民の複合企業体である。穀物流通、冬季鉄道、教会鐘鋳造を中核に急成長したが、後に「氷上会計」によって財務が肥大化したことで知られている[1]。
概要[編集]
リャザン財閥は、を中心に成立したとされる企業連合で、モスクワの穀物取引所との海運保険市場の隙間を埋める形で台頭したと説明されることが多い。実際には地方の倉庫同盟にすぎなかったという見方もあるが、後年の宣伝文書によって帝国的な規模へと誇張されたとされる。
同財閥の特色は、冬季にしか測定できない「凍結利回り」を採用した点にある。これは湖面氷結の厚さ、牛車の往復回数、聖堂の鐘の反響時間を同時に勘案する独自指標で、財務省の一部官僚からは「最も信用できないが、最も便利な数字」と評されたとされる。
歴史[編集]
創設と初期拡大[編集]
創業者とされるは、に沿いの穀物倉庫を買収し、雪解け前の短い出荷期を制度化した人物として描かれる。彼は元々の馬具商であったが、出荷伝票にロウ引き封を用いたところ、書類が氷点下でも読めることが評価され、銀行から融資を受けたという逸話が残る。
には、地方の鐘鋳造所を傘下に収めたことで事業が一気に多角化した。鐘の鋳造音を倉庫の湿度管理に転用したとされ、これにより麦芽の発酵損失が3.8%改善したという数字が『リャザン商工年鑑』に見えるが、出典の所在はやや不明である[2]。
最盛期と「氷上会計」[編集]
からにかけては、財閥傘下にの倉庫、9の地方鉄道支線、の鐘鋳造工場が存在したとされる。特に有名なのが、凍結した池の上に帳簿を並べ、自然光の反射で数字の誤差を確認する「氷上会計」である。
この方法は、帳簿の角が霜で曲がるため細目の照合が容易になるとして賞賛された一方、春先になると証憑が水没して全ての貸借が再計算になるという重大な欠点があった。会計主任のは毎年これを「雪解け監査」と呼び、監査人を半ば諦めさせたとされる[3]。
革命期と解体[編集]
の後、財閥は一時的に労働者委員会へ経営権を委譲したとされるが、委員会は倉庫の空きスペースを政治集会と干し魚の保管に二分したため、物流が著しく混乱した。続くの後には、が接収を進め、までに名目上の株式会社としては消滅した。
ただし、実務上はまで「旧リャザン票」と呼ばれる裏帳簿が流通し、地方の市場では今なお「財閥の利札」として換金されていたという。これが事実であれば、ソビエト初期の貨幣政策にとって相当に厄介であったはずである。
事業構造[編集]
リャザン財閥の事業は、単なる穀物流通ではなく、寒冷地の物流全体を支配することに主眼が置かれていた。倉庫は木造でありながら内部に製の通風管を張り巡らせ、雪の侵入を防ぐために入口の段差が異常に高かったとされる。
また、同財閥は鉄道を「運ぶためのもの」ではなく「遅れを定量化するためのもの」と見なし、列車の到着時刻を基準に保険料を決定した。とりわけからモスクワ方面へ向かう貨物列車では、遅延が長いほど信用が高いという逆転した評価体系が用いられ、の綿花商人が視察に訪れたという記録もある[4]。
人物[編集]
セルゲイ・A・ヴォロネツキー[編集]
ヴォロネツキーは、地方商人でありながらの補給局にまで顔が利いた人物として語られる。彼は右手で帳簿を、左手で祈祷書を持つ癖があり、そのため同時代人からは「両利きの請求書」と呼ばれたという。
なお、彼がにベルリンで開かれた穀物会議で「北風は信用を消さない」と演説したという逸話があるが、これについては後世の創作とする説も強い。
アレクセイ・M・ザブロツキー[編集]
ザブロツキーは会計主任として財閥の数字文化を確立した人物である。彼は帳簿の赤字欄にだけ青インクを使う独自規則を導入し、視覚的には黒字に見えるが実際は赤字という、極めて実務的な改竄手法を発明したとされる。
には、自身の監査報告書を凍結保存するため、報告書を小麦粉袋に封入していたことが発覚し、かえって「保存技術の先駆け」として賞賛された。
社会的影響[編集]
リャザン財閥は、地方経済の近代化に寄与した一方で、冬季に限って独占価格を形成したため、周辺農村からは半ば自然災害のように扱われた。とくにの大寒波では、財閥の倉庫に穀物が集中し、パンの価格がでに上昇したとされる。
一方で、財閥が設置した無料の「凍傷休憩所」は、行商人や荷役夫にとって貴重な避難施設であった。ここでは熱いが一杯ずつ配られ、会計係がその都度「慈善費」と「宣伝費」のどちらで落とすかを悩んだ結果、双方に半額ずつ計上したという奇妙な慣行が残った。
批判と論争[編集]
後年、歴史家の間では、リャザン財閥の規模そのものが誇張されていたのではないかという議論が続いている。特ににの研究者が公表した文書では、財閥の主要資産の多くが実際には個別商人の共同出資であり、「財閥」という呼称は新聞社の見出しが独り歩きした可能性が指摘された[5]。
ただし、その一方で、地方自治体の一部がいまなお「旧リャザン式倉庫管理」を倉庫教育の原型として扱っている例もあり、実務上の影響は小さくないとされる。なお、財閥崩壊後に発見されたという『雪解け総勘定元帳』は、ページ数がありながら全て白紙だったため、逆に「完全な帳簿」として保存された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Иванов, П. С.『Рязанские капиталы и ледяная бухгалтерия』Невская типография, 1937.
- ^ Petrov, N. A. “Winter Logistics and Provincial Conglomerates in Central Russia” Journal of Imperial Economic History, Vol. 12, No. 3, pp. 214-239.
- ^ 佐伯俊介『帝政末期ロシア地方財閥史』東洋経済史学会, 1988年.
- ^ Sokolova, E. V. “Bell Foundries as Storage Infrastructure: A Curious Case from Ryazan” Slavic Material Culture Review, Vol. 7, No. 1, pp. 41-68.
- ^ 山内公彦『氷結期会計制度の研究』北方商業出版, 2001年.
- ^ Mikhailov, D. I.『The Frozen Ledger of Ryazan Zaibatsu』St. Anselm Press, 1964.
- ^ 高橋和也『雪解け監査とその周辺』南欧書房, 1994年.
- ^ Orlov, V. P. “A Note on the So-Called Ryazan Trust” Proceedings of the Moscow Society for Economic Folklore, Vol. 21, No. 2, pp. 88-102.
- ^ 中島里奈『ロシア地方物流と鐘の経済』晶文社, 2012年.
- ^ Kuznets, M. “On the Nocturnal Pricing of Grain in Ryazan District” Baltic Quarterly of Applied History, Vol. 5, No. 4, pp. 301-317.
外部リンク
- リャザン州立歴史経済アーカイブ
- 氷上会計研究会
- 中央ロシア産業史デジタル図書館
- 旧帝政財閥資料館
- 冬季物流史フォーラム