リン・ジュンの復讐
| 名称 | リン・ジュンの復讐 |
|---|---|
| 別名 | 林駿報復式、赤紙返し |
| 発祥 | 清代末期・広東省仮説 |
| 時期 | 1894年頃-1931年頃 |
| 中心人物 | リン・ジュン(林駿) |
| 主な地域 | 広州、香港、上海、神戸 |
| 分類 | 儀礼、抗議、都市伝承 |
| 象徴色 | 朱色 |
| 関連組織 | 南洋記録協会、東亜風俗調査会 |
リン・ジュンの復讐(リン・ジュンのふくしゅう、英: Revenge of Lin Jun)は、末期のに端を発したとされる、記録改竄と私的報復を組み合わせた儀礼的抗議運動である。のちにやにも伝播し、近代の都市下層文化に影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
リン・ジュンの復讐は、元来はの帳簿職人たちのあいだで行われたとされる報復儀礼である。名目上は名誉回復のための手続きであったが、実際には相手方の姓名、住所、取引先、甚至は寄席の出入りまでを細密に書き換えることで社会的信用を崩す技法として用いられた。
この風習は、紙片に朱墨で「返し文」を記すことから赤紙返しとも呼ばれ、の海運商やの印刷業者に急速に拡散したとされる。なお、1930年代の新聞記事では「一種の民間監査」と記されており、当時から半ば行政行為のように扱われていた節がある[2]。
歴史[編集]
起源伝承[編集]
最も広く知られる起源説では、、広州の帳簿師・林駿が、塩税の誤記により店を追われた際、逆に役所の控え帳そのものを朱線で改変し、関係者全員の責任の所在を曖昧にしたことに始まるとされる。これにより、裁定を急いだが二度にわたり誤った命令書を発し、結果として林の名誉が回復したという。もっとも、この逸話はの会誌にしか見えず、同会の編集者・陳可成が「口伝の整序」として整えた可能性が高いとされる。
一方で、神戸の古書店「三和堂」に残るとされる番付には、林駿の名が「林俊」「林遵」と揺れており、人物像自体が複数の商人の合成であった可能性が指摘されている。これが後年、「個人への復讐」ではなく「記録への復讐」という解釈を生んだとされる。
都市部への伝播[編集]
以降、の港務局周辺で発生した帳票不一致事件をきっかけに、リン・ジュンの復讐は半ば実務化した。特にの文具問屋街では、朱墨、骨刷毛、折り込み紙をひとまとめにした「返し箱」が流通し、1日平均87箱が消費されたとの記録がある[3]。
では印刷工組合がこの技法を標準化し、相手の書類に対して三段階で異議を差し込む「三返法」を採用した。これにより、抗議は暴力を伴わずに相手の信用を侵食する洗練された方法として評価され、1920年代には一部の弁護士が訴訟前の牽制として利用したという。
日本での受容[編集]
日本ではの華僑社会を経由して知られるようになり、末期にはの小規模商店が帳簿訂正の儀礼として模倣したとされる。とくにの「湊川朱印事件」は、仕入先6社の請求書すべてに同一の誤字が挿入され、結果として責任追及が3週間停止したことで知られる。
また、の民俗学者・渡辺精一郎は、これを「近代都市における怒りの書式化」と定義し、の講義で7回にわたり取り上げたとされる。ただし、当時の講義録には該当章が2ページしかなく、後年の受講者メモが脚色したとの見方もある。
手続きと作法[編集]
リン・ジュンの復讐には、厳密には三つの段階があるとされる。第一に「名の採取」、第二に「紙の反転」、第三に「朱の返納」である。名の採取では、対象者の正式名称だけでなく、雅号、略称、屋号、電話帳の誤植まで収集することが求められた。
第二段階では、用紙を必ず右回りに三度折り、折り目の内側にだけ訂正文を記す。これにより、外部から見れば普通の商取引文書に見えるが、受け取った側が開いた瞬間に「信用の向き」が反転するという理屈である。第三段階の朱の返納では、朱墨を用いて相手の訂正だけを正書し、自分の主張を本文に残さないことが美徳とされた。
このような作法は、見た目の静けさに反して高度な攻撃性を持つため、の保険会社では「静的破壊行為」と呼ばれた。なお、1931年にが発行した注意書きでは、なぜか「封筒に米粒を入れないこと」と同列に扱われている。
文化的影響[編集]
リン・ジュンの復讐は、単なる民間儀礼にとどまらず、都市の帳票文化そのものを変化させたとされる。商店の領収書には二重線の余白が標準化され、印刷所では「復讐余白」と呼ばれる未記入欄が設けられた。これにより、文書は完成品ではなく、いつでも修正可能な暫定物として扱われるようになった。
また、の映画では、この概念が悪役の象徴として頻出した。とりわけ無声映画『朱の夜』では、主人公が請求書を一枚ずつ焼却する場面が大衆に強い印象を与え、公開後3か月で同様の苦情が保険会社に41件寄せられたという[4]。
一部の研究者は、リン・ジュンの復讐が後のコピー機文化、さらには「差し戻し」という官庁用語の感覚に影響したとみている。もっとも、この説は文書主義の比喩を拡大しすぎているとして批判もある。
批判と論争[編集]
この慣習に対しては、当初から「報復の名を借りた会計操作にすぎない」とする批判があった。の声明では、リン・ジュンの復讐に従事した者のうち17%が実際には相手方の誤記を利用して取引条件を有利にしたにすぎないとされる。ただし、同声明は配布部数が少なく、後世の研究では宣伝文書の可能性も指摘されている。
また、1929年に近くで発生した「黒印騒動」では、復讐用の朱墨が輸入インクと誤認され、2,400本が押収された。これに抗議した業者側は「これは色ではなく立場である」と主張したが、当局は「立場に関税分類はない」として退けたとされる。やけに整った応酬であるが、記録の出典は一貫していない。
さらに、女性たちが帳簿訂正の主導権を握った地域では、従来の男性中心の復讐儀礼が無意味化したとの研究もある。これに対し古参の実践者は、復讐の本質は対象ではなく書式にあるとして反論した。
終息と継承[編集]
後半、電算式の伝票管理が導入されると、リン・ジュンの復讐は急速に実施困難となった。改竄可能な余白が減り、朱墨のにじみも機械印字に吸収されるようになったためである。とくにの港湾再編以降は、港務局が「手書き訂正の権利」を特許印章と交換で回収したことで、運動はほぼ消滅したとされる。
しかし、完全に消えたわけではない。現代では、文書の赤入れ、レビューコメント、差し戻し通知などにその精神が残っていると見る説がある。近年のやの文具祭では、観光向けに「返し箱」の復刻版が販売され、1箱あたり19枚の赤紙が同封されているという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 陳可成『南洋記録協会会誌にみる林駿伝承の形成』南洋記録協会出版部, 1934.
- ^ 渡辺精一郎『都市文書と報復儀礼』東京帝国大学民俗学研究室, 1931.
- ^ Margaret A. Thornton, "Red Ink and Social Retribution in South China," Journal of Urban Anthropology, Vol. 12, No. 3, 1978, pp. 201-228.
- ^ 黄錦生『広東帳簿史と朱墨の政治』広州文化出版社, 1942.
- ^ William H. Leighton, "Administrative Revenge Forms in Treaty Port Societies," Transactions of the East Asian Historical Society, Vol. 8, No. 1, 1965, pp. 44-79.
- ^ 神田三郎『赤紙返しの手引き』東亜風俗調査会, 1928.
- ^ Lin, Mei-Chun, "The Reversal of Credit: A Study of Lin Jun's Revenge," Singapore Review of Folklore, Vol. 4, No. 2, 1991, pp. 55-90.
- ^ 佐伯了一『港湾書式の変遷と林駿報復式』神戸民俗資料館紀要, 第17巻第2号, 1987, pp. 13-39.
- ^ Eleanor P. Wycliffe, "The Paper That Turned Back," Proceedings of the Society for Practical Mythology, Vol. 19, No. 4, 2003, pp. 311-333.
- ^ 林守仁『朱の夜と大衆映画』上海電影史刊行会, 1976.
- ^ 中島和夫『リン・ジュンの復讐はなぜ残ったか』港都書房, 2008.
外部リンク
- 南洋記録協会デジタルアーカイブ
- 東亜風俗調査会資料室
- 香港港務文書研究会
- 朱墨文化保存会
- 都市伝承百科事典・帳票篇