ローランド木製開発司令ステーション
| 正式名称 | ローランド木製開発司令ステーション |
|---|---|
| 通称 | RWDステーション |
| 種別 | 木製統合指令施設 |
| 初期設置 | 1949年 |
| 主要所在地 | 大阪府堺市臨海試験区 |
| 運用主体 | 帝国復興資材調整委員会 |
| 主用途 | 開発計画の指令、木材品質の可視化、会議の同時通訳 |
| 有名な機構 | 回転式樫材コンソール |
ローランド木製開発司令ステーションは、とを同時に統括するために設計された半可動式の指令施設である。戦後初期ので構想され、のちにの一部研究者のあいだで「木製の政策機械」として知られるようになった[1]。
概要[編集]
ローランド木製開発司令ステーションは、社とは直接の関係を持たないにもかかわらず、長らく同社の試作機と誤認されてきた施設である。実際には、戦後のにおいて木材供給の統制、工業団地の配置、電源配分を一つの机上で処理するために考案された、官民混成の開発装置であった。
外観は一見すると移動式の指令車両に近いが、内部は産のミズナラを用いた机、の工務学校が製作した壁面盤、そしての寺社修理技術者が組んだ継ぎ手構造から成る。設計思想は「鉄よりも先に木を整えるべきである」という、当時としてもやや異様な標語に基づいていたとされる[2]。
成立の経緯[編集]
この施設の起源は、にで開催された「復興資材配分協議会」の席上、林業官僚のが提出した手書きの構想図に求められるとされる。彼は、港湾埋立てや住宅復旧の議論が会議室ごとに分断されていたことを問題視し、木材の在庫表、地図、電報、温度計を一体化した司令卓を提案した。
翌、の旧海軍倉庫を改装し、最初の試作機が設置された。ここでは、、大阪商工会議所の三者が共同で使用したが、会議のたびに木材の香りが強くなり、出席者が政策よりも樹脂の品質に注意を奪われるという副作用が報告された。なお、初代指令官とされたは実在性が確認できない人物である[3]。
構造と機構[編集]
木製コンソール[編集]
中核部は「回転式樫材コンソール」と呼ばれる円卓であり、直径は約2.8メートル、重量は推定1.6トンであった。卓上にはの潮位、鉄道貨物量、乾燥済み角材の在庫がそれぞれ独立した木札で表示され、担当者は札を裏返すことで計画を更新した。もっとも、湿度がを超えると札が膨張し、誤って「不足」が「過剰」に見えることが頻発した。
司令塔と通訳盤[編集]
上部には二階建ての見張り台が設けられ、ここに配置された「通訳盤」が行政用語を現場用語へ変換した。たとえば「資材融通」は「板を回せ」、「暫定配分」は「節を避けよ」と自動表示されたとされる。記録によれば、通訳盤の動作はの改修後に安定したが、夜間になると稀にラテン語の木材名を出力したという。
補助機関[編集]
補助機関としては、風向きで紙資料を乾かす送風窓、会議の緊張を測る音叉、そして鉛筆の削り屑を集めて次回の補修材に再利用する「再生槽」が付属していた。これらの機構は、当時の統制思想と民間の節約精神を象徴するものとして評価された一方、実際には経費削減のために場当たり的に追加された可能性が高いとされる。
運用史[編集]
前半、RWDステーションはの復興区画整理において頻繁に用いられた。とりわけの工業用地選定では、三日間で17回も計画案が更新され、最終的に駅から徒歩12分の地点が「木目の流れがよい」として採択されたという。
一方で、運用が進むにつれ、木製であること自体が制度化されていき、担当者は会議中に金属製の腕時計を外すよう求められた。これは「金属の時刻は判断を硬直させる」という独特の思想によるもので、実際には机の上を傷つけないための実務的配慮だったともいわれる。
にはの林業組合が参加し、台風後の木材流通復旧にステーションを臨時利用した。この際、現地の測量図が湿気で波打ち、結果として護岸計画に三つの余剰カーブが生じたが、これがのちに「柔らかい防潮線」として一部の都市設計者に模倣された[4]。
社会的影響[編集]
この施設は、単なる指令装置にとどまらず、戦後日本における「木材を中心とした開発行政」の象徴として扱われた。各地の自治体では、RWDステーションを模した木製会議卓が流行し、では林業展示会のたびに「司令ステーション型休憩所」が臨時設置されたという。
また、教育分野への影響も大きく、にはの研究会が「木製行政機器学」を講義題目に採用した。受講生の証言によれば、講義は政策論よりも継手の種類と湿度管理に多くの時間を費やし、最終課題は「一枚の板から三つの会議用サインを作れ」であった。
ほか、民間では「ローランド式」という語が「やたらと細かく、やたらと木の香りがする設計」を指す慣用表現として一部で使われたとされる。ただしこの用法は文献上の確認が乏しく、後年の愛好家による創作である可能性がある。
批判と論争[編集]
批判の第一は、木製であることによる耐久性の問題である。特に夏の高湿度期には、指令卓の一部がわずかに膨張し、会議の議題より先に引き出しが閉まらなくなる事例が相次いだ。これについて当局は「意思決定の柔軟性が可視化された」と説明したが、現場では単に面倒な設備として扱われた。
第二に、設計責任の所在が不明確であったことが挙げられる。という名称が付された理由については、資料ごとに「輸入機材の商標に由来する」「設計図の製図者ローラント姓の誤記である」「そもそも木目の模様をそう呼んだ」など説が分かれており、決定的な証拠はない[5]。なお、戦後の行政改革により公式記録の多くがに整理廃棄されたため、後世の検証を困難にしている。
終焉と再評価[編集]
RWDステーションは、港湾再編に伴う倉庫移転のため解体されたとされる。ただし、実際には主要部材の多くが周辺の公民館、児童館、林業試験場へと分散転用され、完全な消滅ではなく「静かな拡散」に近かったという見方がある。
以降になると、建築史と行政史の双方から再評価が進み、のゼミが現地調査を実施した。調査では、天板の裏に残された鉛筆書きの座標と、樹種の異なる補修材が確認され、これが「未完の開発国家を象徴する遺構」として紹介された。もっとも、座標の一部は近所の将棋クラブの住所だった可能性も指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『木製司令機器の行政応用』復興資材研究会, 1953.
- ^ 中村節子「堺臨海試験区における樫材コンソールの運用」『都市復興学報』Vol. 12, No. 4, 1958, pp. 44-67.
- ^ Harold P. Ingram, "Timber and Command: Postwar Planning Interfaces in Japan" Journal of Material Governance, Vol. 7, No. 2, 1962, pp. 101-129.
- ^ 佐伯晴彦『木目と統制——戦後行政における視覚化装置』関西出版, 1971.
- ^ Margaret L. Wexler, "Humidity and Policy Drift in Wooden Control Rooms" The Architecture of Administration, Vol. 3, No. 1, 1975, pp. 9-26.
- ^ 大阪府史編さん室『大阪府戦後復興資料集 第18巻』大阪府刊, 1982.
- ^ 小寺勇『木製行政機器学入門』港湾技術社, 1988.
- ^ Jean-Claude Morin, "La station de commande en bois: une légende industrielle" Revue d'Histoire Technique, Vol. 21, No. 3, 1994, pp. 233-251.
- ^ 高瀬みどり「柔らかい防潮線の成立とその周辺」『防災計画評論』第9巻第2号, 2001, pp. 77-90.
- ^ Arthur B. Finch, "Roland's Timber Dilemma" Proceedings of the International Society for Imaginary Infrastructure, Vol. 1, No. 1, 2007, pp. 1-18.
外部リンク
- 大阪近代資材史アーカイブ
- 関西木製機器研究会
- 堺臨海試験区デジタル資料館
- 木目行政年表データベース
- 架空インフラ博物館