三層山荘殺人事件
| 名称 | 三層山荘殺人事件 |
|---|---|
| 別名 | 三層館事件、三段錯誤事件 |
| 発生日 | 1968年11月14日 - 11月16日 |
| 場所 | 長野県北安曇郡の旧・桐淵高原 |
| 死者 | 3名 |
| 容疑者 | 5名 |
| 建物構造 | 地上3層・地下1層 |
| 捜査機関 | 長野県警察 特別山岳事件班 |
| 特徴 | 層ごとに異なる証言が残された |
三層山荘殺人事件(さんそうさんそうさつじんじけん)は、北部の山岳地帯で発生したとされる、の山荘を舞台にした未解決事件である。事件名は、建物の構造と犯行の進行が三段階に分かれていたことに由来するとされ、後年はにおける「閉鎖空間型事件」の原型として扱われている[1]。
概要[編集]
三層山荘殺人事件は、にの山荘で発生したとされる事件で、宿泊客の連続失踪と、翌朝に発見された3体の遺体をめぐって長く議論された事件である。建物が「一層目は調理、二層目は宿泊、三層目は展望」という珍しい構造をもっていたことから、当時の報道では単なる殺人事件ではなく「建築事故に偽装された心理戦」とも呼ばれた[2]。
事件は、の前衛に建てられた私人所有の避暑施設「三層山荘」で起きたとされる。設計者のは、欧州の療養施設を参考にしたと主張していたが、実際にはの古書店で見つけた登山雑誌の図版を拡大しただけだったともいわれる。なお、建築確認書の一部はの倉庫から未整理のまま発見されたが、裏面に43年の交通標語が転用されていたため、真贋の判定が難航したとされる[3]。
成立の背景[編集]
この事件が特異視されるのは、単に殺人が起きたからではなく、のちに「三層事件学」と呼ばれる独自の研究分野を生む契機になった点にある。これは、建築の層構造、証言の層構造、そして報道の層構造が互いに食い違う状況を分析するもので、人文学部のが1974年に提唱したとされる。
小野寺は、事件を「現場の事実」よりも「現場がどのように語り継がれたか」に重点を置いて整理し、の捜査記録、の夕刊、宿泊客の手帳を三層的に突き合わせた。その結果、同じ夜に聞かれた足音が、1階では「重い靴音」、2階では「女性の駆け足」、3階では「雪崩のような低音」として記録されていたことが判明し、以後この矛盾が事件の核心とみなされるようになった[4]。
事件の経過[編集]
第一夜[編集]
の夜、山荘には建築関係者、登山愛好家、地元の会計士ら計9名が集まっていた。夕食後、停電が2度発生し、最上階の展望室から赤い光が見えたと証言する者と、実際には青白いランプだったとする者に分かれた。いずれにせよ、その時点での三層構造はほぼすべての宿泊客に「余計に不安を煽る装置」として認識されていた。
午後10時20分ごろ、地下階の薪庫から金属音が3回鳴ったとされる。後にこれは、暖房管が収縮した音だと説明されたが、当時の聞き取りでは「合図」「暗号」「鐘」など表現が一致しなかった。ここで最初の失踪者が姿を消し、食堂の椅子の背に濡れた手袋だけが残された[5]。
第二夜[編集]
翌15日、宿泊者たちは二層目の談話室に集められ、外部への連絡を試みたが、周辺では積雪が35センチに達し、電話線も断続的に切断されていたとされる。午前1時過ぎ、三層目の天窓が内側から曇り、そこに「S」の字らしき指跡が残ったという証言があるが、実測では「逆向きのZ」であった可能性も高い。
この夜、二人目の犠牲者が階段の踊り場で発見された。遺体は肩にだけ粉雪が積もっており、雪の混入経路をめぐって鑑識課と地元の林業組合が激しく対立した。特に林業組合側は「犯人は山荘内部ではなく、屋根裏の換気口を通った」と主張したが、後年の調査では換気口の幅は成人男性の拳2個分しかなかったとされる[6]。
最終朝[編集]
の朝、地下1層の貯蔵室で最後の遺体が発見された。被害者は石油ストーブのそばに倒れていたが、周囲に煤がほとんど付着していなかったため、最初は「演出ではないか」との噂さえ流れた。現場検証の結果、遺体の足元には3種類の異なる靴跡が重なっており、これが「三層」事件の名を決定づけた要素である。
ただし、最も奇妙なのは犯行時刻の特定である。ある記録では午前2時17分、別の資料では午前3時42分、さらにを越えて到着した県警の報告書では「夜明け前の不明時刻」と書かれていた。のちに編集されたの記事では、なぜかこの事件だけ時刻欄が3段組みになっており、編集者の誰かが「層」という語に引っ張られたものとみられている[7]。
捜査と論争[編集]
捜査は当初、山荘の管理人を軸に進められたが、飯島は一貫して「山荘の三層目は、実際には四層目の影である」と主張し、取り調べをやや混乱させた。彼は後に、事件前夜にから来た旅行者が「階段を上るたびに名前が変わる」と語っていたとも供述しており、この発言が供述として有効かどうかは今日でも議論がある。
最大の争点は、犯行が単独犯によるものか、層ごとに役割分担された共謀だったかである。は一時、容疑者5名のうち2名を「心理的距離が近い共犯」として扱ったが、弁護側は「物理的に同じフロアにいなかった」と反論した。なお、当時の鑑識写真には、床板の節目が偶然のように見える箇所があり、これを根拠に「山荘自体が犯行の設計図だった」とする珍説まで現れた[8]。
社会的影響[編集]
事件後、やの別荘地では「三層構造を避ける」設計が一時的に流行し、2階建ての建物でも中2階を設けない例が増えたとされる。また、では1970年代前半に「多層避暑建築の安全性」に関する小委員会が設けられ、山荘の階段幅、換気口の位置、そして「不必要に謎めいた踊り場」の危険性が検討された。
文化面では、事件を題材にしたが少なくとも27作書かれたとされ、そのうちの『三層目の沈黙』は、山荘の構造をそのまま章立てに使ったため話題になった。さらに、長野県内の温泉旅館で「三層式夕食」と称して前菜・鍋・甘味を別階で提供する商法が試みられたが、導線が複雑すぎるとして半年で廃止された[9]。
後世の研究[編集]
1980年代以降、事件はよりもやの文脈で語られることが増えた。特にのは、三層山荘の平面図が「家族の権力関係を上から下へ並べ替えた象徴図」であると主張し、図面の余白に残されたコーヒー染みまで分析対象に含めた。
一方で、2011年に公開された遺族提供資料には、事件当夜の宿泊者名簿に本来9名であるはずの欄が11名分印刷されていたことが示され、名簿自体が増殖する書式だった可能性が浮上した。これにより、事件は「実際に起きた殺人」なのか「書類上で拡張された殺人」なのかという、極めて日本的な論点へと移行した。なお、の行政文書管理室が参考照会を受けた際、担当者が「事件名の長さが標準フォーマットに収まらない」と回答した記録が残っている[10]。
批判と論争[編集]
三層山荘殺人事件については、そもそも「三層山荘」なる建物が実在したのかをめぐる批判が根強い。の古地図と照合した研究では、該当地点に建物記号は確認できなかったが、別の版では記号が鉛筆で消されているように見えるため、結論は保留されているとされる。
また、事件に関する最初期の報道写真が、実際には別の山荘の暖炉を撮ったものであった可能性が指摘されている。ただし、写真左端に写り込んだ湯呑みの湯気だけは、三層山荘の当夜の気温条件と一致するため、完全な否定は難しいとする意見もある。もっとも、こうした論争そのものが事件の「三層性」を強化してしまっている、との皮肉な指摘も少なくない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小野寺正彦『三層事件学序説――建築と供述の相互汚染』信州民俗出版社, 1975, pp. 44-91.
- ^ 高見沢玲子「閉鎖空間における上下移動の象徴性」『日本犯罪建築学雑誌』Vol. 12, No. 3, 1982, pp. 201-229.
- ^ 飯島辰雄『山荘管理人の覚え書き』北信書房, 1971, pp. 7-38.
- ^ 長野県警察資料編纂室『特別山岳事件班報告書 第4号』長野県警察本部, 1969, pp. 3-64.
- ^ Margaret L. Thornton, “Layered Testimony and Alpine Crime Scenes,” Journal of Comparative Forensic Narratives, Vol. 8, No. 1, 1991, pp. 15-49.
- ^ 堂園亮一『三層目の沈黙』蒼林館, 1978, pp. 112-180.
- ^ 塚原善治『山荘設計図集 第2版』信州建築研究会, 1968, pp. 9-26.
- ^ 北信新聞社編『昭和四十三年 山岳事件報道集』北信新聞社, 1970, pp. 77-104.
- ^ Kenji Arai, “The Staircase That Remembered Too Much,” Alpine Studies Review, Vol. 5, No. 2, 2004, pp. 88-113.
- ^ 高橋一成『三層山荘殺人事件とその周辺』中央推理資料刊行会, 1987, pp. 1-55.
外部リンク
- 信州事件資料アーカイブ
- 北アルプス犯罪建築研究会
- 三層事件学会
- 長野県近代山岳報道データベース
- 閉鎖空間推理索引室