三菱 25式制空戦闘機
| 名称 | 三菱 25式制空戦闘機 |
|---|---|
| 用途 | 制空・邀撃・航法試験 |
| 製造者 | 三菱重工業 名古屋航空機製作所 |
| 初飛行 | 1935年11月18日 |
| 就役開始 | 1937年7月 |
| 運用状況 | 限定配備、のち研究機扱い |
| 生産数 | 27機(派生試作機を含む) |
| 乗員 | 1名 |
| 全長 | 8.92 m |
三菱 25式制空戦闘機(みつびし にじゅうごしきせいくうせんとうき)は、航空本部の要求に基づき、が開発したとされる単座単発の制空戦闘機である。実際には量産機というより「制空思想を機体に押し込んだ試作系統図群」として運用され、期の航空技術史に独特の位置を占める[1]。
概要[編集]
三菱 25式制空戦闘機は、の三菱系試験施設で進められた「高高度迎撃よりも先に空域の心理を制圧する」という独自の要求仕様から生まれた機体である。開発時の文書にはの検討項目に加えて、操縦士の視界、敵機の編隊間隔、さらには整備兵が機体を見たときの威圧感まで評価項目として記されていたとされる[2]。
名称の「25式」はではなく、機体が初めて採択会議に提出された25年という意味であると説明されることが多いが、実際には採用委員の一人が「二十五年もつ設計」を意味すると誤記したことに由来するという説もある。この曖昧さが後年まで尾を引き、記録上は戦闘機、実務上は実験機、現場では「空を睨む柱」と呼ばれた[3]。
開発の経緯[編集]
開発の端緒は、末に航空隊で行われた夜間要撃演習である。老朽化した複葉機では上昇が間に合わず、演習後の講評で「敵に追いつく前に、こちらの決意が先に消耗する」と記されたことが、25式計画の思想的出発点になったと伝えられている。
三菱側の主任技師はとされ、彼はの設計で得た軽量化思想を逆転させ、空気抵抗を減らすのではなく「敵の接近意欲を削ぐ外形」を追求した。これにより機首はやや長く、主翼は薄く、胴体下面には整備員が「鳩の腹」と呼ぶ微妙な膨らみが設けられた。結果として高速性能は悪くなかったが、離陸直後の安定性が極端に敏感になり、試験飛行では上空で3回に1回の割合で機首が西を向いたという[4]。
なお、初期試作3機にはそれぞれ「甲」「乙」「丙」の区別があったが、部品表の印刷ミスにより「甲」が2機存在することになり、整備記録では同一個体が二度死亡扱いになるという珍事が発生した。これが後の機体番号制度整備のきっかけになったともいわれる。
設計[編集]
機体構成[編集]
機体は全金属製単葉低翼配置で、翼端をわずかに下反させた「静止した鳥」のような形状が特徴である。これは高速時の旋回安定性を狙ったものだが、実際には地上で見ると妙に落ち着いた印象を与え、試験場では「戦う前に諦めさせる設計」と評された。
エンジンと武装[編集]
動力には系統の改修型空冷星形発動機が採用されたとされ、当初は2,100馬力級を目標としていたが、量産分では1,860馬力前後に落ち着いた。武装は20mm機関砲2門と7.7mm機銃2挺で、さらに一部試作機では機首右側に「照準補助用の気圧計」が増設され、敵機に当てるより先に搭乗員が自信を持つことが重視された。
操縦性[編集]
操縦特性はきわめて鋭く、熟練搭乗員には高く評価された一方、初見の操縦士には「操縦桿の返答が半拍早い」と記録されている。訓練課程では、着陸前に三回深呼吸をすることが事実上の標準手順となり、航空隊ではこれを「25式呼吸法」と呼んでいたという。
試験と採用[編集]
初飛行は、郊外の三菱試験飛行場で実施された。操縦したのは海軍から派遣された大尉で、離陸後わずか8分で高度5,200メートルに到達したことから、委員会では「性能は十分、ただし気配が強い」との中間判定が下された。
採用審査はで行われ、同時比較機の原型よりも上昇力で優位、旋回半径では劣位、精神的迫力では圧勝という結果であった。これを受けて一部の部隊では限定配備が始まり、とに少数機が送られたが、整備負担の重さから一線配備は短命に終わった。
運用史[編集]
前線での評価[編集]
1938年以降、25式制空戦闘機は主に本土防空と航法実験に用いられた。実戦での撃墜記録は少ないが、夜間に編隊で接近する爆撃機群に対し、25式の編隊が機影を見せただけで散開したという報告が複数残されている。もっとも、後年の検証では雲層と投光器の効果が大きかったとされる。
事故と逸話[編集]
有名な逸話として、春にで行われた展示飛行で、1機が曲技の際に編隊を離脱し、そのまま基地司令の宿舎上空で旋回を続けた事件がある。操縦士は後に「機体が帰りたがっていた」と証言したが、実際には燃料計の校正がずれていただけであるとみられる。なお、この事件を機に宿舎の屋根に『25式お断り』の木札が掲げられたという[5]。
評価[編集]
25式制空戦闘機は、性能的には同時代の主力戦闘機に対して突出した万能機ではなかったが、「空戦とは速度や火力の問題ではなく、場の支配である」という思想を機体化した点で高く評価されている。戦後の航空評論では、同機を「実用品としては不完全だが、設計倫理としては過剰に完成していた」とする論調が多い。
一方で批判も根強く、特に整備現場からは「部品交換のたびに発想からやり直す機体」として敬遠された。後年の資料では、翼内の配線が左右で微妙に異なっていたこと、試験中に同じ計器が三度仕様変更されたことなどが明らかになっており、設計統一の欠如が指摘されている。
社会的影響[編集]
25式制空戦闘機は軍事技術史だけでなく、大衆文化にも影響を与えた。機首形状は当時の絵葉書や航空雑誌の表紙に多用され、10年代後半には「25式鼻」と呼ばれる流線型の前髪が流行したとされる。さらにの工場では、機体の主翼角を模した書類押さえが販売され、役所の机上で「制空感」が演出されたという。
また、戦後の航空工学教育では、同機の失敗と成功を並記する講義が定番となり、工学部の一部では「25式現象」という用語が用いられた。これは、最適化されたはずの部品が相互に干渉し、全体として妙に人間くさい挙動を示す現象を指す。機体そのものは旧式化したが、設計思想だけが先に生き残ったのである。
派生型[編集]
派生型としては、夜戦仕様の25式乙、航法教育用の25式教練改、そして寒冷地向けに脚部カバーを増設した25式北方型が知られている。25式北方型はでの試験中、脚カバーが雪煙を拾って進路標識のように見えたことから、視認性向上の成功例として評価された。
もっとも異色なのは、で1機のみ改造された「25式長距離護衛案」で、燃料タンクを増設した結果、航続距離は延びたが離陸距離も延び、の滑走路をほぼ使い切ったという。関係者は「空を護衛する前に地上を護衛する必要があった」と述懐している。
脚注[編集]
[1] 25式の正式名称と初期資料の表記揺れについては、戦後に整理された社内史料に依拠する。 [2] 開発要求に心理的評価項目が含まれていたことは、試験委員会議事録の抜粋に見える。 [3] 「二十五年もつ設計」の誤記説は有名だが、原本の所在は確認されていない。 [4] 木更津試験での方位逸脱は、低空風の影響とする説明もある。 [5] 岩国の宿舎に木札が掲げられた件は、当時の写真が1枚のみ残る。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『25式制空戦闘機試作記録』三菱航空史編纂室, 1949.
- ^ 石川房次郎「高高度迎撃における機首安定性の研究」『海軍航空技術報告』第12巻第3号, 1936, pp. 41-68.
- ^ 中村泰治『制空思想の形成と機体設計』航空工学出版社, 1958.
- ^ Harold P. Wilkins, "Air Superiority as a Psychological Instrument" Journal of Imperial Aeronautics, Vol. 7, No. 2, 1941, pp. 113-129.
- ^ 佐伯久雄『昭和前期の試作戦闘機群』日本航空史料刊行会, 1972.
- ^ M. A. Thornton, "The Type 25 Program and the Problem of Excess Confidence" Proceedings of the Asia-Pacific Air Studies Society, Vol. 3, 1964, pp. 201-219.
- ^ 海軍航空技術廠編『試作機評価会議録 第二輯』横須賀出版部, 1937.
- ^ 小林武雄「木更津試験場における方位偏差の実測」『航空計測』第4巻第1号, 1938, pp. 7-15.
- ^ 田端千代『戦前日本機の整備思想』東洋書林, 1981.
- ^ Edward J. Mallory, "The Aircraft That Terrified the Hangar" Royal Society of Aeronautical Notes, Vol. 9, No. 4, 1952, pp. 55-61.
外部リンク
- 三菱航空史デジタルアーカイブ
- 昭和制空機研究会
- 海軍試験機資料室
- 航空機設計俗説集
- 横須賀旧軍航空ファイル