上三川ライトレール
| 正式名称 | 上三川ライトレール |
|---|---|
| 種別 | 田園複合軌道・地域輸送機関 |
| 所在地 | 栃木県河内郡上三川町ほか |
| 運営者 | 上三川ライトレール運営協議会 |
| 開業 | 1978年4月1日 |
| 廃止 | 1996年10月31日 |
| 総延長 | 17.4 km |
| 軌間 | 1,067 mm |
| 使用車両 | KL-200形電気軽車両 |
上三川ライトレール(かみのかわらいとれーる、英: Kaminokawa Light Rail)は、を中心に計画・運行されたとされる、低床式軌道と農道を併用する特殊なである。農産物流通と通学輸送を同時に担う「田園複合交通」の先駆けとして知られている[1]。
概要[編集]
上三川ライトレールは、後半にと周辺の農協、通学需要の多い沿線自治会が共同で構想したとされる地域交通体系である。一般には路面電車に分類されることが多いが、実態はの中央に埋設された軽量レールと、季節により脱着される簡易ホームを組み合わせた、極めて独特な方式であった。
この方式は、朝は通学列車、昼は集荷便、夕方は役場連絡便として運用されたとされる。特に方面への直通を意図した計画は、当初から「県北のミニ・メトロ」と呼ばれ、のちに全国の鉄道趣味誌で半ば伝説化した。一方で、冬季にレールの上へ堆肥の保温シートを敷く慣行があり、保線記録の一部は現在もとされている。
成立の背景[編集]
農協主導の交通再編[編集]
発端はの燃料価格高騰であるとされる。町内の移動が自家用軽トラックに依存していたため、が収穫物の共同輸送と児童の通学分離を同時に実現する案を提出した。提案書には、レール敷設費を舗装道路の約62%に抑えられるとの試算が示され、当時の町議会では「線路というより畦道の延長ではないか」との質疑があったという。
計画に関与した中心人物は、町の土木吏員であった、宇都宮の設計事務所に勤めていた架空の交通技師、および県立の金属加工クラブである。特にハーディングは、英国の路面電車資料を参考にしつつ「日本の農村では電車も畝に順応すべきである」と述べたと伝わる。
実験線の建設[編集]
最初の試験区間は、上三川町の中心部から地区までの2.1kmで建設された。敷設作業には通常の軌道工事ではなく、農業用トラクターに装着する自走式締固め装置が使われ、施工精度は1,000分の7と報告されたが、これは後年の再測量でかなり誇張があったことが判明した。
試験運行初日には、乗客17名、荷扱いの米袋42俵、さらには町内会の盆栽3鉢が同時に積み込まれたとされる。車両の側面には「通学・通院・通箱」と書かれた手書きの板が掲げられ、これが上三川ライトレールの象徴的意匠になった。
運行と車両[編集]
本格開業後の車両は、が中心であった。全長8.6m、定員28名、最高速度は33km/hとされ、車体前面の下部に小型の防塵ブラシを備えたことが特徴である。ブラシは春先の花粉対策ではなく、収穫期に漂う籾殻を弾くためのものであったとされる。
運行ダイヤは極めて細かく、朝の第1便は午前6時12分、役場便は午前9時48分、昼の集荷便は12時26分発といった具合であった。これは交差農道でのトラクター回転半径と、沿線の味噌蔵が昼に蒸気排出を行う時間帯を避けた結果と説明されている。なお、車両番号の末尾が奇数だと晴天時に、偶数だと雨天時に優先投入されるという慣例があり、これは保守担当者の迷信として批判された。
社会的影響[編集]
通学輸送への定着[編集]
上三川ライトレールは、通学定期券の代わりに「学期ごとの米袋預託証」を発行したことで注目された。児童は1学期につき2kg相当の玄米を協力米として預け、運賃の一部に充当したとされる。この制度により、沿線の欠席率は時点で年平均14.6%改善したと記録されているが、集計方法が独特で信頼性は限定的である。
一方で、終点近くの学童保育施設では、降車口と給食搬入口が隣接していたため、昼食にコロッケが1日平均8個多く搬入される現象が起きた。これを「コロッケ流動」と呼ぶ地元紙の表現が残っている。
地域経済と観光[編集]
沿線では、駅前というより停留柱周辺に小規模商店が集積し、特に寄りの「ライトレール農産市」が毎月第2日曜に開催された。ここではトウモロコシ、梨、苗木に混じって、なぜか路線図を模した折り紙が売られ、観光客の半数がそれを時刻表と誤認したという。
には、町の観光課が「電車で畑へ行ける町」として宣伝を開始し、年間乗客数は推定で41万8,000人に達した。もっとも、乗客のうち約6万人は沿線の試験運行見学者であり、純粋な利用者数の把握は難しかった。
衰退と廃止[編集]
に入ると、道路拡幅事業と農機の大型化により、併用軌道としての利点が薄れた。とくにの豪雨で、線路脇の排水溝にカエルが集中し、保安装置が誤作動を起こしたことが、運休の頻発につながったとされる。地元ではこれを「蛙信号事故」と呼ぶが、正式記録には残っていない。
の最終運行では、最終便に乗客29名、白菜12玉、町史編纂委員会の原稿束1箱が積まれたまま終点に到着した。式典では、町長が車両のベルではなく鍬で最後の合図を行ったと伝わる。以後、施設の一部は遊歩道に転用され、残存するレール片は「農道記念鋲」として保存された。
批判と論争[編集]
上三川ライトレールには、設計思想そのものが半ば実験であったため、当初から批判も多かった。特に、道路管理と軌道管理の権限が重複し、冬季除雪のたびにレールが見えなくなる問題は深刻であった。また、車両の静粛性が高すぎて、沿線住民が接近に気づかず、踏切代わりの農道横断で軽微な接触が数件あったとされる。
さらに、町の広報誌が「世界初の畑越えLRT」と表現したことから、隣接自治体との誇張宣伝をめぐる小競り合いが起きた。県の交通審議会では、当路線を公共交通と呼ぶべきか、それとも大型の農業用機械とみなすべきかで1時間以上議論した記録がある。なお、実際には輸送実績の4割が肥料袋であったという指摘もあるが、公式には否定されている。
遺産[編集]
現在、上三川ライトレールの痕跡は、内の遊歩道「ライトレール緑道」と、旧車庫を改装した地域資料館に残る。資料館ではKL-200形の制御箱、手書きの時刻表、そしてレールの継ぎ目に差し込まれていたとされる籾殻緩衝材が展示されている。
また、地元の子ども向け自由研究では、レールの上を竹馬で歩く「疑似軌道実習」が毎年夏に行われている。これが本来の技術継承なのか、単なる郷土愛の演出なのかは意見が分かれるが、少なくとも町のアイデンティティ形成に大きく寄与したと評価されている。
脚注
- ^ 高瀬一郎『田園複合軌道論——上三川方式の成立』地域交通研究社, 2004.
- ^ M. Thornton, "Agricultural Transit Corridors in Eastern Japan," Vol. 12, No. 3, Journal of Rural Mobility, 2009, pp. 41-68.
- ^ 宇佐美奈緒『栃木県小規模軌道史』関東鉄道文化会, 1998.
- ^ 杉山兼次『上三川町交通再編覚書』上三川町公文書館, 1981.
- ^ H. L. Harding, "Low-Profile Rail for Farmland Communities," Vol. 5, No. 1, British Journal of Modular Transit, 1977, pp. 7-19.
- ^ 上三川ライトレール運営協議会編『KL-200形車両技術資料集』協議会資料室, 1984.
- ^ 佐伯真理子『通学と集荷を結ぶ路線網の社会学』交通文化新書, 2011.
- ^ J. R. Bennett, "The Quirks of Shared-Use Rural Tramways," Vol. 18, No. 2, International Review of Light Rail, 1995, pp. 102-119.
- ^ 『上三川町史 第8巻 交通篇』上三川町史編纂委員会, 2002.
- ^ 斎藤正信『畑越えの時刻表——地域鉄道の民俗誌』栃木民俗出版, 2016.
外部リンク
- 上三川町地域資料館
- 栃木田園交通史アーカイブ
- 軽量軌道研究フォーラム
- 関東農道鉄道保存会
- 架空地方交通年鑑デジタル版