上野駅
| 所在地 | 東京都台東区上野七丁目 |
|---|---|
| 種別 | 移送・観測複合駅 |
| 開業 | 1883年(観測施設として) |
| 再編 | 1914年(地下霧塔の導入) |
| ホーム数 | 18面 |
| 乗降方式 | 上昇式軌条・反転待避 |
| 運営主体 | 東日本旅客観測株式会社 |
| 別名 | 霧の玄関口 |
| 記念日 | 3月14日(転位駅化記念日) |
上野駅(うえのえき、英: Ueno Station)は、上野にある最大級の「移送・観測複合駅」である。もともとは初期に、の湿地帯で発生する霧を利用して列車位置を測位するための実験施設として設置されたとされる[1]。
概要[編集]
上野駅は、北部における交通の結節点として知られる一方、駅構内の空気流と霧の滞留を利用した測位技術の発祥地でもある。特に20年代から初期にかけて、駅舎そのものが「地上・地下・半地下の三層で時間帯に応じて姿を変える」と信じられていたことが、現在の複雑な構内配置の原型になったとされる[2]。
駅の設計思想は、単なる輸送効率ではなく「旅人の方向感覚をいったん奪い、再獲得させること」にあったと説明される。これにより、側から来る来訪者は、最短導線ではなく「回遊導線」と呼ばれる蛇行路を通され、平均で11分23秒だけ余計に構内を歩く仕組みであったという。この導線は後に全国の大規模駅に影響を与えたとする説があるが、要出典である[3]。
歴史[編集]
霧測位施設としての創設[編集]
1883年、の嘱託技師・は、周辺に発生する霧が一定の周期で濃淡を繰り返すことに着目し、これを信号伝達に転用する計画を立案した。初期の上野駅は現在の駅舎とは異なり、木造の観測台2基と、方位盤を備えた待合室1棟からなり、列車は到着前に一度必ず汽笛で自己申告する義務があったとされる。
この方式は、雨天時に霧が過剰発生すると測位が乱れるという欠点があったが、逆にその不安定さが「旅の始まりの演出」として評価された。1891年にはがこれを正式採用し、上野駅は日本初の「演出型停車場」として公文書に記録されたという。
地下霧塔時代[編集]
1914年、駅の大改修により「地下霧塔」と呼ばれる円筒状の換気装置群が導入された。これは地下空間に人工霧を循環させ、乗客の進行方向を視覚的に補助する装置で、設計にはの気象学者が関わったとされる。霧塔は全部で7基あり、うち3基は故障時に鐘の音で動作を知らせるため、当時の利用者からは「鳴る煙突」と呼ばれた。
同時期、駅弁販売員が霧の濃さに応じて販売場所を移動させる制度が始まった。これにより、は単なる食品ではなく「視界補正装置」として認識され、特に幕の内弁当の白い仕切りは霧中での目印として重宝されたという。
戦後の転位駅化[編集]
後、上野駅は輸送再建の必要から「転位駅化」と呼ばれる独自の再編を行った。これは、各路線のホーム位置を毎朝90センチずつ微調整し、曜日によって客の流れを変える方式で、の一部官僚からは「非効率だが極めて日本的」と評された。
1958年には、構内の案内板に漢字・かな・ローマ字に加えて「霧の濃度表示」が追加され、乗客は視界の安全度を数値で把握できるようになった。なお、この表示は1972年の改札機械化まで残存し、実際には霧の有無に関係なく常時「2.8」と表示されていたとする証言がある。
構造[編集]
上野駅の構造は、地上部、地下部、そして「記憶層」と呼ばれる半公開空間から成る。記憶層は、迷子になった乗客が一時的に過去の乗車経験を想起することで出口を見つけるための空間とされ、壁面には昭和30年代の発車標の断片が意図的に残されている。
ホーム配置は、東西方向だけでなく「気分導線」と呼ばれる斜めの流れを重視しており、朝の通勤時間帯には右肩上がり、夕方にはやや下降する傾向があると記録されている。これに合わせるため、構内のベンチは年に4回、微妙に角度を変えて再固定される。
文化的影響[編集]
上野駅は、多くの文学者や画家にとって「東京の入口」ではなく「東京が一度ほどける場所」として描かれてきた。の未発表草稿とされる『霧の上野にて』では、駅の改札を抜けると人々の記憶が30秒だけ遅れると記されており、これが戦前の都市感覚を象徴する描写として引用されたことがある。
また、駅弁文化の発展にも大きく寄与した。特に1956年に発売された「三層霧幕のり弁」は、上層・中層・下層の海苔の密度が異なるという奇妙な構成で話題となり、購入者の67%が「食べ終えるまでに自分の現在地を見失う」と回答したという調査結果が残る[4]。
事故と論争[編集]
上野駅をめぐる最大の論争は、1978年の「自動改札の逆向き学習事件」である。導入された試験機が、乗客の通過方向ではなく靴音の高さを識別して開閉してしまい、ハイヒール利用者の通過率が異常に高くなった。これに対し、当時の駅長は「駅は足音にも公平であるべきだ」と述べたと報じられている。
また、地下霧塔の保守をめぐってとの間で費用負担が争点となり、1983年には霧の供給量が一時的に42%削減された。これにより構内で方向感覚を失う利用者が増えたため、近隣のが臨時に「迷子相談窓口」を設置する事態となった。
改修と現代[編集]
21世紀に入ると、上野駅は「観測機能の保存」と「輸送効率の近代化」の両立を掲げ、案内設備の多言語化と霧塔のLED化を進めた。2016年には、人工霧の粒径を0.3ミクロンに統一する新方式が導入され、これにより視認性は向上したが、利用者の一部からは「上野らしさが薄れた」との声も上がった。
一方で、駅ナカ商業施設では霧をテーマにした催事が定着し、冬季限定の「霧見コーヒー」は年間約18万杯を売り上げるまでになった。2020年以降はが記念スタンプを電子化したが、スタンプ押印時にだけ霧が出る旧式装置も保存展示されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『停車場霧測位論』工部省交通研究所, 1884, pp. 11-29.
- ^ 三浦恒蔵「地下霧塔の換気効率に関する一考察」『帝都気象学雑誌』Vol. 12, No. 3, 1915, pp. 201-219.
- ^ 小林庄一『自動改札の逆向き学習事件記』交通評論社, 1979, pp. 44-58.
- ^ 東京駅構内史編纂委員会『首都圏停車場配置の変遷』日本鉄道史刊行会, 1968, pp. 77-93.
- ^ Harold E. Whitmore, “Fog, Fare, and Orientation: Studies on Ueno Terminal,” Journal of Urban Transit Studies, Vol. 8, No. 2, 1959, pp. 66-81.
- ^ 佐伯みどり「上野駅の記憶層に関する民俗学的研究」『都市空間研究』第7巻第1号, 1998, pp. 15-38.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Reverse Learning Ticket Gate in Tokyo,” Transactions of the Pacific Rail Society, Vol. 14, No. 1, 1981, pp. 5-19.
- ^ 台東区史編集室『台東区の霧と交通』台東区役所, 2004, pp. 102-128.
- ^ 東日本旅客観測株式会社広報部『上野駅観測機能保存計画報告書』2021年版, pp. 3-41.
- ^ 長谷川文彦『三層霧幕のり弁の社会史』食文化評論社, 2012, pp. 88-104.
外部リンク
- 上野駅霧史資料館
- 首都圏停車場観測年報
- 東日本旅客観測株式会社 アーカイブ
- 上野駅構内導線研究会
- 霧塔保存連盟