亀ちゃんのために作られたトマト屋さん
| 名称 | 亀ちゃんのために作られたトマト屋さん |
|---|---|
| 別名 | 亀ちゃん向けトマト店、亀専売トマト舗 |
| 起源 | 1978年ごろ、東京都台東区の青果市場周辺 |
| 業態 | 顧客特化型青果小売 |
| 主商品 | 完熟トマト、湯むき済みトマト、塩付きトマト |
| 関係人物 | 亀山キク、棚橋源蔵、亀田スミ |
| 最盛期 | 1986年 - 1994年 |
| 関連地域 | 東京都、千葉県船橋市、埼玉県川口市 |
| 通称の由来 | 常連客の亀田啓介(通称・亀ちゃん) |
| 現状 | 概念としてのみ継承され、実店舗は散在 |
亀ちゃんのために作られたトマト屋さんは、の下町を中心に発展した、特定の顧客ひとりの嗜好に最適化されたトマト専門商店の総称である[1]。もともとは昭和後期の個人商いに由来するとされるが、のちに都市流通史の一分野として扱われるようになった[2]。
概要[編集]
亀ちゃんのために作られたトマト屋さんは、単にトマトを売る店ではなく、特定の常連客の体調、口当たり、朝の機嫌までを商品設計に組み込んだ販売形態である。の仕入れ慣行との個別対応文化が結びついて成立したとされる。
この種の店は、店頭に並ぶ商品数が少ない代わりに、熟度・糖度・皮の薄さ・湯通し時間まで帳簿で管理されていた点に特徴がある。とりわけ亀ちゃん向けの店は、昭和末期のとで急増し、1989年には「朝だけ開くトマト屋」として新聞の地域面に複数回登場したとされる[3]。
成立史[編集]
市場の隙間から生まれた業態[編集]
起源は、台東区の仲卸・棚橋源蔵が、胃を悪くした常連客の亀田啓介に対し「酸味の少ないものだけを毎朝5個、包丁を入れずに渡す」という対応を続けたことにある。これが評判を呼び、近隣の商店街で「亀ちゃんのために作られたトマト屋さん」と呼ばれるようになった[4]。
当初は冗談半分の呼称であったが、亀田が毎週火曜の午前7時15分に必ず現れ、しかも来店時の気温がを下回る日は必ず紙袋を二重にする習慣が固定化されたため、店側は次第に「個別最適化された流通」として自覚するようになった。なお、この時点で既にトマトの仕入れ先は3県にまたがっていたという。
制度化と商標化[編集]
、亀山キクが加わると、店は「亀ちゃん専用選果表」を導入した。そこには糖度以上、ヘタの巻きが右回り、指で軽く押して0.8ミリ沈む個体のみを採用するなど、きわめて細かな基準が記されていた[5]。この選果表は後にの青果研究会でも参照されたとされるが、原本は1997年の倉庫火災で焼失したため、現存写しの真偽は定まっていない。
また、店名は正式には商標登録されていないが、包装紙に朱書きで「亀専」と入れる慣習が定着し、近隣住民のあいだでは半ば公式名称として扱われた。この曖昧さが逆にブランド化を促進したという指摘がある[要出典]。
商品構成[編集]
朝用・昼用・謝罪用[編集]
商品は用途別に分けられていた。朝用は皮が薄く、昼用は弁当の中で潰れにくく、謝罪用は「昨日の残りではない」ことを示すために茎跡が極端に美しいものが選ばれた。とくに謝罪用トマトは、贈答先に対する心理的補償として扱われ、1箱に必ず3個だけ黄変しかけの個体が混ざるという奇妙な規格があった。
この規格は一見不合理であるが、亀ちゃんが「全部きれいだと逆に怖い」と発言したことに由来するとされる。店主はその言葉を重く受け止め、以後は“完璧すぎない完璧”を商品哲学に掲げた。こうした思想はのちに一部の高級青果店にも影響したとされる。
湯むき済みトマトの導入[編集]
には、近隣の惣菜店との共同企画として、あらかじめ湯むきしたトマトを薄紙で包む商品が始まった。これは高齢客向けの配慮として始まったが、亀ちゃん本人が「口の中で皮が外れる瞬間が嫌い」と語ったことから定着した[6]。
一方で、湯むき済み商品は保存時間が短く、夏季には平均2時間40分で売り切れたという記録がある。売れ残りを防ぐため、店は午前10時12分に鐘を鳴らして値札を1円だけ下げる方式を採用したが、これが近隣の時計店に「商店街全体の時報を乱す」と苦情を呼んだという。
社会的影響[編集]
この店の最大の影響は、青果が「誰に向けて作られるか」を明示した点にある。従来の市場では、品質は等級で語られることが多かったが、亀ちゃん向けトマト屋では「誰が食べてもよい」より「誰が食べると最もうまいか」が優先された。
には、この考え方が内の小規模八百屋に波及し、「子ども向け梨」「帰省前夜用のバナナ」などの派生概念を生んだとされる。もっとも、商店街連合会はこれを正式に認定しておらず、当時の議事録には「過剰に人格化された果菜流通」とだけ記されている[7]。
論争[編集]
批判の多くは、店が“亀ちゃん”という一個人の好みに寄りすぎていた点に向けられた。とくにの夏、亀ちゃんが長期不在になった際、店が「本人不在のため販売基準を暫定的に引き上げる」と掲示したことで、常連の一部が激しく反発した。
また、同業者の間では「顧客一人の嗜好を神格化すると、在庫が哲学になる」と評された。しかし店主側はこれに対し、「哲学になるほど売れ残らない」と反論したと伝えられている。なお、この応酬は商店街機関紙の一面を飾ったが、掲載写真に写るトマトの大半がピント外れであったため、後年の研究者は象徴的資料として扱っている[8]。
歴史[編集]
最盛期[編集]
最盛期はからにかけてで、最も忙しい日は午前6時半の開店直後に43箱が動いた。店の裏では、トマトの硬度を確認するための木製押し棒が7本常備され、うち1本には「亀専用」と焼き印が押されていたという。
この時期、近隣のでは同系統の店が12軒確認され、いずれも「誰かのために作られた果物屋」を自称した。もっとも、亀ちゃんの店だけがやけに記憶されるのは、毎月1回、客が店先で試食したあと必ず「まだ足りない」と言って笑う儀式が続いていたからである。
衰退と保存運動[編集]
に入ると、流通の大型化により個別最適型の青果店は減少した。しかし、の地域文化部会が「小規模最適流通の実例」として再評価を始め、亀ちゃん向けトマト屋は商店街史の事例研究に取り上げられた。
保存運動では、最後の店主・亀田スミのノートが重要史料となった。ノートには「トマトは赤ければよいのではない。亀ちゃんが赤いと言った日だけ赤い」と書かれており、研究者のあいだでは半ば詩、半ば業務日誌として読まれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 棚橋源蔵『下町青果帳 1978-1994』みどり出版, 1998.
- ^ 亀田スミ『亀ちゃん向け選果表の研究』東都食文化研究所, 2007.
- ^ 佐伯真由美「個人嗜好に基づく青果販売の成立」『流通史研究』Vol. 14, No. 2, pp. 33-51, 2011.
- ^ Margaret L. Thornton, "Hyperlocal Tomato Retail in Postwar Tokyo", Journal of Urban Food Studies, Vol. 8, No. 1, pp. 77-104, 2015.
- ^ 渡辺精一郎「昭和末期の朝市と個別包装」『商店街経済史』第22巻第4号, pp. 112-129, 2004.
- ^ K. Igarashi, "The Ethics of One-Customer Produce", Tokyo Review of Market Anthropology, Vol. 3, No. 3, pp. 9-26, 2018.
- ^ 小松原直子『湯むき文化の成立とその周辺』港南社, 2001.
- ^ 市川玲子「『謝罪用トマト』という概念の社会史」『食と感情の民俗学』第6巻第1号, pp. 141-159, 2013.
- ^ 棚橋源蔵・亀田スミ「亀専売包材の変遷」『台東地域資料集』第9号, pp. 5-18, 1999.
- ^ Michael E. Brown, "When a Tomato Becomes an Apology", Food & Ritual Quarterly, Vol. 12, No. 4, pp. 201-219, 2020.
外部リンク
- 台東区商店街資料アーカイブ
- 東京食文化年表データベース
- 亀ちゃんトマト研究会
- 下町青果口述史プロジェクト
- 個人最適流通保存ネットワーク