今川ギララ
| 正式名称 | 今川式高輝度反射演出機構 |
|---|---|
| 通称 | 今川ギララ |
| 起源 | 1949年ごろ |
| 考案地 | 東京都台東区・浅草橋周辺 |
| 用途 | 舞台照明、街頭宣伝、特撮撮影 |
| 主な素材 | アルミ板、和紙、魚油塗布布、車用ミラー片 |
| 流行期 | 1958年 - 1972年 |
| 代表的な関係者 | 今川準之助、黒崎照夫、松浦ミチ |
| 派生技法 | 逆ギラ、半目ギララ、湿式ギララ |
| 俗語的意味 | 必要以上に眩しいこと |
今川ギララ(いまがわぎらら)は、期の下町で成立したとされる、視認性を極端に高めた舞台照明兼演出装置である。のちに中継や撮影の現場へ流入し、光量の暴走を意図的に演出へ転化する技法として知られる[1]。
概要[編集]
今川ギララは、対象物の輪郭を失わせるほどの強い反射と瞬間的な点灯を組み合わせ、視線を強制的に集めるための演出技法である。もとはの寄席や安価な宣伝看板の補助装置として用いられたが、やがて界の撮影現場で独自の発展を遂げたとされる。
一般には、金属板の反射で「光る」こと自体が目的と思われがちであるが、実際には照射角の微妙なずれと観客の瞬目を誘発する間合いが重視された。特に後半には、雨上がりの路面を利用した路上実演が人気となり、周辺住民が「ギララが来ると洗濯物が乾く前に目が乾く」と評したという[2]。
名称の由来[編集]
名称の「今川」は、発案者とされる今川準之助の姓に由来する。ただし、本人は生前「自分は光を作ったのではなく、の空気を磨いたに過ぎない」と述べたとされ、記録によっては弟子筋の黒崎照夫が名付け親であるともされる。
「ギララ」は、当初は業界用語の「ぎらつく」「らんらんとする」を結合した呼称であったが、頃に子ども向け雑誌が怪獣名のように取り上げたことで独立した固有名詞化が進んだ。なお、ある資料では、浅草橋の乾物問屋街で使われていた「切れの悪い反射音」を指す方言が転用されたとも記されているが、確証はない[3]。
歴史[編集]
誕生期[編集]
今川ギララの原型は、に浅草の小劇場「雷門文化座」で使われた試作装置に求められる。これは停電対策として持ち込まれた自転車用発電機と、鏡面仕上げの菓子缶を組み合わせたもので、舞台袖の俳優が一歩動くたびに客席へ一斉に光が跳ね返ったという。
この装置が注目されたのは、観客が台詞より先に「まぶしい」という感想を共有し、結果として演目の理解度がむしろ上がったためである。劇場主の岡田信一は、1949年11月の改修記録に「視覚の先行は、内容の遅れを補う」と書き残したとされる。
拡張期[編集]
からにかけて、今川ギララは街頭宣伝へ転用され、からにかけてのデパート屋上で試験運用された。特にの公開中継では、カメラレンズにまで反射が入り込み、画面の人物が二重に見える現象が「高級感の演出」と誤認されたことから採用が続いたという。
この時期、技師の松浦ミチは反射板に微量の魚油を塗る「湿式ギララ」を考案し、曇天でも反射が落ちないことを証明した。ただし会場の床が異常に滑りやすくなったため、以後は安全靴の貸与が義務化された[4]。
大衆化と衰退[編集]
後半には番組や地方興行に広く使われたが、過度の発光が原因で視聴者から「内容が見えない」との苦情が増加した。これを受けて、の業界内通達では、光量を抑えた「半目ギララ」が標準化され、以後は演出よりも“雰囲気の暴力性”が評価されるようになった。
には新素材の蛍光カバーが普及し、従来型の今川ギララは急速に姿を消したとされる。しかし完全には廃れず、地方の夏祭り、駅前の選挙カー、町内会の防犯パトロール看板などで細々と生き残った。現在でも、古参の照明技師の間では「ギララは死んだのではなく、明るすぎて見えなくなった」と言い習わされている。
構造と技法[編集]
今川ギララの基本構造は、反射面、角度調整具、瞬間遮光板の三要素から成る。標準型は幅1.8メートル、高さ2.4メートルで、成人男性2名がかりで搬送されたとされるが、軽量化が進んだ末期型では折りたたみ時に畳一枚分へ収まったという。
技法上もっとも重要なのは、照明そのものではなく「点く直前の静けさ」であるとされ、現場では0.7秒から1.3秒の間に沈黙を置くことが推奨された。これにより観客は光量を先に予感し、実際の輝きが心理的に1.4倍増して感じられるとされたが、この数値は光環境研究室の一部メモにのみ見られる[5]。
社会的影響[編集]
今川ギララは、単なる舞台道具を超え、戦後日本の「目立つこと」そのものの記号として広まった。商店街では赤白の幕と併用され、子どもたちは眩しさの強い店先を「ギララ屋」と呼んだという。
一方で、との一部では、夕方の西日と混同される事故が多発し、には「まぶしさによる方向感覚の喪失」が町内会の議題に上った。これを契機に、交通課が反射材の角度規制を検討したが、当時の議事録では「規制すればするほど増える」として結論が先送りされた[6]。
また、若手俳優の間では、ギララを浴びることが“顔の覚えられやすさ”に直結すると信じられ、オーディション前に鏡の前で懐中電灯を当てる慣習が生まれた。これは後年のテレビアイドル文化にも影響したとする説がある。
批判と論争[編集]
今川ギララに対しては、早くから「視覚公害」であるとの批判があった。特にの『演芸新報』は、ギララを「説明を拒否する光」と評し、観客の理解よりも驚愕を優先する姿勢を問題視した。
これに対し支持者は、ギララは情報伝達の失敗ではなく、内容へ入る前の身体調整であると反論した。実際、上演後のアンケートでは「何を見たか覚えていないが、強かった」という回答が相次ぎ、芸術性の高さを示すものとして逆に引用されるようになった。
なお、の地方紙には、ギララ照明を導入した集会所で蛾が3,412匹集まり、近隣の街灯整備費が翌年度に1.8倍になったとの記事がある。ただし、数値の出所は不明であり、要出典である。
派生文化[編集]
今川ギララは後世、比喩表現としても定着した。たとえば、妙に主張の強いネクタイや、会議で過剰に存在感を放つ人物を「ギララ系」と呼ぶ用法がある。またでは、朝日に向かって自転車を走らせることを「今川に入る」と俗称した地域もあったとされる。
さらに、の界では、メッキパーツを過剰搭載した箱絵に対して「完全にギララ」と評する評論が生まれた。これは模型誌のコラムから広まったものだが、元の装置を知る者は少なく、単に“やたら光るもの”全般へ転用されていった。
近年では、SNS上で強い画像加工を「ギララ補正」と呼ぶ例も見られるが、これは本来の今川ギララよりもはるかに自己増殖的であり、照明技法というより精神状態の問題であると指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 今川準之助『反射演出の民俗工学』光文社, 1967年.
- ^ 松浦ミチ『湿式ギララ試験報告』日本照明学会誌 Vol.12, No.4, pp. 44-59, 1962年.
- ^ 岡田信一『雷門文化座改修記録集』浅草文化研究所, 1950年.
- ^ 黒崎照夫「街頭宣伝における高輝度反射の実用化」『広告技術』第8巻第2号, pp. 11-27, 1958年.
- ^ 佐伯一郎『昭和中期の視覚公害史』中央公論新社, 1998年.
- ^ Margaret A. Thornton, 'Luminous Aggression and Crowd Attention in Postwar Tokyo', Journal of Urban Spectacle Vol. 6, No. 1, pp. 88-104, 1979.
- ^ 渡辺精一郎「今川ギララと下町照明文化」『民俗と都市』第15巻第3号, pp. 201-219, 1971年.
- ^ Harold K. Berman, 'The Girara Phenomenon in Television Relay', Media and Light Studies Vol. 3, No. 2, pp. 5-18, 1965.
- ^ 『演芸新報』編集部『説明を拒否する光——ギララ論争資料集』演芸新報社, 1958年.
- ^ 小林あやめ『ギララ補正入門』星雲出版, 2004年.
外部リンク
- 日本反射演出史資料館
- 浅草橋視覚文化アーカイブ
- 昭和照明技術研究会
- 今川ギララ保存連絡協議会
- 下町特撮工学フォーラム