今村 柊野
| 氏名 | 今村 柊野 |
|---|---|
| ふりがな | いまむら しゅうや |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 出生地 | 京都府船井郡園部町 |
| 没年月日 | 1964年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗装置研究家、記録編集者 |
| 活動期間 | 1921年 - 1963年 |
| 主な業績 | 「柊野式臨時舞台分類法」の提唱、祭礼機構図譜の編纂 |
| 受賞歴 | 芸能記録功労賞(1959年) |
今村 柊野(いまむら しゅうや、 - )は、の民俗装置研究家、都市伝承記録家である。各地の祭礼に用いられる仮設機構の整理と分類を独自に進めた人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
今村 柊野は、末期から中期にかけて活動した日本の民俗装置研究家である。各地の祭礼や余興に設けられる仮設舞台、山車の補助機構、可動式の幕仕掛けなどを体系的に記録し、のちに「柊野式臨時舞台分類法」をまとめたことで知られる[1]。
今村の研究は、当初は内の小規模な春祭の記録から始まったが、やがて、、、へと広がった。特にの下部委員に任じられた以降は、民俗芸能の保存だけでなく、設営の寸法や搬入動線まで詳細に図面化した点が評価された一方、あまりに機械的な分類を行ったため「祭礼を配管図のように見た男」と揶揄されることもあった[要出典]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
今村は、船井郡園部町の紙問屋の家に生まれる。幼少期から祭礼の手伝いに駆り出され、流域の村々で仮設の桟敷や飾り山が、毎年ほぼ同じ様式で組み替えられていく様子を観察したという。後年、彼はこの経験を「無意識のうちに解体と再建を繰り返す装置文化への最初の接触であった」と述べている[2]。
青年期[編集]
を経て文学部に進み、の講義に触発されて民俗学へ傾倒した。もっとも、今村が最初に関心を示したのは神話ではなく、講堂裏に放置されていた折畳み演台の蝶番であったとされる。卒業論文は「仮設演目施設における継手と人員配置の相関」であり、指導教員からは「やや工学に寄りすぎる」と評された[3]。
活動期[編集]
、今村はの地方欄に連載を持ち、各地の祭礼で使われる舞台装置をスケッチと寸法付きで紹介した。これが評判を呼び、にはを自ら設立するに至る。同会は、会員が実地調査の際に「鉛筆、巻尺、赤鉛筆、乾パン」を必携としたことで知られ、時点で国内外あわせて47名の会員を擁したという。
戦時下には一時活動が停滞したが、にの旧家を改装した私設資料室「柊野文庫」を開き、全国から寄せられた舞台図、木札、縄、滑車の標本を整理した。資料室の天井には実物大の回転幕が吊られていたが、湿気対策のため実際には年に2回しか回されなかったとされる。
晩年と死去[編集]
、今村は長年の記録活動によりを受賞した。受賞式では、賞状よりも先に木製の測定器を受け取ったことに強い満足を示したという。晩年はの別宅で静養しつつ、未完の著作『可動芸能の日本地図』の執筆を続けたが、11月2日、で死去した。死因は心不全とされるが、最期まで「舞台の幅は人の記憶より三寸ほど大きい」と呟いていたという逸話が残る。
人物[編集]
今村は、温厚で社交的であった一方、現地調査では異様なまでに几帳面であったとされる。宿泊先の旅館でまず確認するのは食事ではなく縁側の幅であり、畳のへりの色が図面と異なると一晩中気にしていたという。
また、彼は実測値に強い執着を見せ、祭りの喧噪の中でも「踊り手の足元の板厚が2分違う」と指摘したと伝えられる。弟子たちからは「柊野先生は人を見ず、まず木を見る」と言われたが、本人は「木を見れば村が分かる」と反論したという[4]。
一方で、子どもや若い研究者には極めて寛容で、調査に同行した学生が誤って滑車に縄を通し忘れても、叱責せず、代わりに自分で通し直してから「これも記録である」と言ったという。こうした態度から、彼は実務家としての厳格さと、民俗への奇妙な愛情を併せ持つ人物として語られている。
業績・作品[編集]
今村の代表的業績は、に刊行された『柊野式臨時舞台分類法』である。同書では、仮設舞台を「直線展開型」「折返し回廊型」「吊架半円型」など14類型に分類し、さらに各類型に「雨天耐性」「子ども上がり率」「太鼓視認性」という独自指標を設けた[5]。民俗学の書物でありながら、図版の半分以上が数値表で占められている点が異彩を放っている。
ほかに『祭礼機構図譜』『縄と木口の地方差』『可動芸能の日本地図』などがある。『祭礼機構図譜』はからにかけて全3巻で刊行され、からまでの計218件の事例を収録した。とくに第2巻「回転と振動」において、のねぶた系灯籠の支柱角度を「平均14度から19度」とした記述は、後年の研究者から「実測としては妙に正確だが、なぜそこまで数えたのか不明」と評されている。
なお、今村が残した図面のうち7点は、折り畳むと舞台ではなく机になる構造であったため、本人が実は家具職人の系列を引いていたのではないかという説もある。これは今なお確証がないが、彼の図面が実用性と執念の両方を備えていたことを示す逸話として引用されることが多い。
後世の評価[編集]
今村の評価は、後半から再検討が進んだ。初期には「民俗の細部を過剰に工学化した人物」と見なされることもあったが、以降は、消えゆく祭礼技術を寸法ごと保存しようとした先駆的資料編集者として再評価されている。
の研究紀要では、今村の記録は「現場の空気を取りこぼす代わりに、空気を支える骨組みを保存した」と表現された。また、近年はやの分野でも参照され、仮設構造の歴史をたどる基礎資料として扱われている。
ただし、その分類法はあまりに独自性が強く、地方ごとの信仰や演目差よりも、釘の本数や梁の長さが前面に出るため、民俗学の入門書ではしばしば補注扱いで済まされる。もっとも、今村自身は「補注に落ちる記録こそ長生きする」と書き残しており、この言葉だけは妙に予言的であるとされる。
系譜・家族[編集]
今村家は以来、京都で紙商と道具商を兼ねた家系であったとされる。父・今村重助は帳簿に強い人物で、祭礼の備品を「貸出」「修繕」「返却待ち」に分けて管理していたという。母・今村ときは、近隣の子どもたちに古布で小さな舞台を作って見せるのを好み、柊野の装置志向はこの影響を受けたともいわれる[6]。
妻はの呉服商の娘・今村千鶴で、調査旅行にしばしば同行した。千鶴は記録帳の誤字を黙って直す人物で、今村が唯一「この漢字は私では敵わない」と認めた相手である。子は一男一女があり、長男の今村修平はで舞台機構の設計に携わったが、父の分類法を見て「家業より癖が強い」と述べたと伝えられる。
また、今村の門下からはやの研究者が複数育ち、彼の調査方法は後年「柊野メモ」と呼ばれる独特の野外記録術として継承された。記録には必ず「風向」「地面のぬかるみ」「司会者の声量」が含まれる点で知られる。
脚注[編集]
[1] 今村柊野研究会 編『柊野式臨時舞台分類法の系譜』民俗記録社、1971年、pp. 14-21. [2] 今村柊野「園部町祭礼覚書」『京都民俗』第8巻第2号、1930年、pp. 3-9. [3] 田所義一『戦前京都の学徒と折畳み演台』山陰書房、1984年、pp. 201-207. [4] 宮下澄江「今村柊野の聞き書きと作法」『地方芸能研究』Vol. 12, No. 4, 1992, pp. 55-61. [5] 今村柊野『柊野式臨時舞台分類法』民俗装置出版、1952年、pp. 1-148. [6] 岩室照夫『京都紙商家の生活文化』風来堂、1967年、pp. 89-94.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 今村柊野『柊野式臨時舞台分類法』民俗装置出版, 1952.
- ^ 今村柊野『祭礼機構図譜 第一巻』柊野文庫刊, 1956.
- ^ 今村柊野『祭礼機構図譜 第二巻 回転と振動』柊野文庫刊, 1957.
- ^ 今村柊野『祭礼機構図譜 第三巻 地方差の記録』柊野文庫刊, 1958.
- ^ 宮下澄江『地方芸能と木口の科学』東和書林, 1962.
- ^ 田所義一『民俗装置の成立とその周辺』日本記録学会出版部, 1974.
- ^ Robin M. Hargreaves, The Portable Stage and the Ritual City, Vol. 3, University of Caledonia Press, 1981.
- ^ 中西隆『日本祭礼構造論』岩波書店, 1986.
- ^ S. P. Ellison, Notes on Temporary Performance Architecture, Vol. 9, No. 2, Journal of Ritual Studies, 1994, pp. 77-103.
- ^ 山本和彦『可動芸能の日本地図』未完資料版, 柊野文庫, 1963.
- ^ 黒田真理子『縄と滑車の民俗誌』新潮社, 2001.
外部リンク
- 柊野文庫デジタルアーカイブ
- 日本民俗装置学会
- 京都近代芸能史研究センター
- 仮設舞台図譜プロジェクト
- 地方祭礼機構研究所