保土ヶ谷独立戦争
| 発生時期 | 1928年7月 - 1930年3月 |
|---|---|
| 発生場所 | 神奈川県横浜市保土ヶ谷区 |
| 別名 | 保土ヶ谷駅前自治騒擾 |
| 原因 | 駅前広告税の新設と町内会の独立宣言 |
| 結果 | 臨時自治協定の締結、看板の高さ制限の導入 |
| 死傷者 | なし(軽傷者14名とされる) |
| 主要人物 | 長谷川嘉一、南雲トミ、内田要蔵 |
| 関係機関 | 保土ヶ谷町役場、神奈川県警察部、横浜商工会議所 |
| 記念日 | 毎年8月14日の「独立防災訓練」 |
保土ヶ谷独立戦争(ほどがやどくりつせんそう)は、で1928年から1930年にかけて発生したとされる、駅前商店街の自治権をめぐる一連の騒乱である。のちにの運賃改定と結び付けて語られることが多く、地方自治史と都市伝説の境界に位置する事件として知られている[1]。
概要[編集]
保土ヶ谷独立戦争は、の駅前商店主らが、町の看板、電線、日曜朝市の配置をめぐってと対立したことを発端とする事件である。参加者は当初、あくまで「通行の自由」と「日除けの位置」を主張していたが、のちに独立委員会を名乗り、独自の通貨として木製の通行札を流通させたと伝えられる[2]。
この事件は、正式な戦争として扱われることは少ないものの、の地域史研究では、戦前都市部における商店街自治の極端な事例として言及されることがある。また、昭和初期の地方紙には「保土ヶ谷の小共和国」とする表現が散見され、当時の市民感情を反映するものとして注目されている。なお、当事者の証言には食い違いが多く、特に「誰が最初に区境線を白墨で引いたか」については現在も論争がある[3]。
背景[編集]
事件の背景には、保土ヶ谷停車場前の急速な商業化があったとされる。1920年代後半、駅舎の改修に伴い人の流れが北口に偏り、旧来の茶舗、下駄屋、氷屋の売上が平均で27%減少したという商工会資料が残っている。これに対し、商店主らは「駅前を保土ヶ谷区民の共同放牧地に戻せ」と主張したとされ、半ば冗談として始まった要求が、やがて自治運動へ転化した[4]。
また、当時のでは広告看板に対する徴税強化が検討されており、保土ヶ谷の商店街では各店が軒先に掲げる「歓迎」「名物」「本日入荷」の札まで課税対象になるとの噂が広まった。この噂が拡散した結果、夜間に看板を回収する者、逆に看板を増設する者が現れ、町内の掲示板は一時的に百枚を超えたともいわれる。資料の一部は火災で失われており、詳細は不明であるが、少なくとも財政不安が感情的対立を増幅したことは確かであるとされる[5]。
経過[編集]
第一期:白墨宣言[編集]
1928年7月14日、商店主の長谷川嘉一が西側の道路に白墨で境界線を引き、「ここより先は保土ヶ谷自由市街である」と書いたことが、独立宣言の始まりとされる。翌朝にはこれを見た通行人が面白がって線の内側だけを歩いたため、商店側は「交通統制に成功した」と誤認し、臨時の門番として少年3名を雇ったという。門番は赤い腕章をつけ、通行者に紙片を配布したが、紙片の裏には近所の和菓子屋の広告が印刷されていた[6]。
第二期:通行札の流通[編集]
8月になると、らが「保土ヶ谷通行札」と呼ばれる厚紙券を作成し、1枚1銭で販売した。これが事実上の独自通貨であり、札は駅弁の折り箱の底板を再利用して作られていたため、雨の日にはほぼ確実にふやけたという。町内の蕎麦店『松風庵』では通行札3枚で大盛りを認める独自のレートが生まれ、周辺の小学生のあいだでは札を集めることが遊びになった。保土ヶ谷警察署は回収を命じたが、すでに一部の札が切符箱の下敷きとして浸透しており、完全な没収には至らなかった[7]。
第三期:臨時自治協定[編集]
1929年1月、の仲介で三者会談が行われ、独立委員会側は「看板の高さを2間8寸以下に制限すること」「朝市の開始を午前6時30分に固定すること」「雨天時のひさし延長を一律18センチとすること」を要求した。これに対して町役場は強く反発したが、同席していた税務吏員の内田要蔵が、休憩時間に饅頭を7個食べたのち「高さはともかく、幅は相談できる」と発言したことで空気が和らぎ、仮協定が成立したとされる。協定文はわずか11条であったが、末尾に「ただし商家の繁栄を妨げぬこと」という一文があり、後年まで解釈をめぐる議論が絶えなかった[8]。
参加者と組織[編集]
中心となったのは、駅前の乾物商、履物商、写真館主、そして朝市を運営する近隣婦人会であった。特に婦人会は、戦闘行為よりも炊き出しと掲示板管理を担当し、記録上もっとも統率の取れた組織として評価されている。彼女らはの裏手に臨時台帳を設け、参加者の出入りと味噌汁の配分を厳密に管理したという。
一方で、反独立派として知られるのは、町役場の若手書記と、保土ヶ谷駅前を管轄する巡査10名ほどであった。彼らは「独立」は認めないが「商店街の自衛組織」は容認するという曖昧な態度を取り、結果として双方の境界が曖昧になった。このため後年の研究者は、保土ヶ谷独立戦争を「宣戦布告のはっきりしない都市内紛争」と分類している[9]。
社会的影響[編集]
事件後、内の商店街では、自治会の議事録に「独立」ではなく「自主調整」という語を使う慣行が広まった。また、看板の高さと道路占有の問題が行政上の争点として可視化されたことで、翌年以降、横浜市内では軒先条例の整備が進んだとされる。とくに保土ヶ谷駅周辺では、戦後まで続く「ひさし協定」の原型がこの時期に作られたという説が有力である[10]。
文化面では、事件を題材とした講談『保土ヶ谷七人衆』が1932年に興行され、巡業先で「通行札」を模した紙片が売られた。さらに、昭和40年代には地元の中学校の社会科研究で再評価され、独立戦争の参加者の一部が単なる商店主ではなく、帳面係や配達少年であったことが明らかになった。これにより、事件は「英雄的な独立運動」というより「駅前の段差をめぐる粘り強い交渉」として理解されるようになった。なお、一部の郷土史家は、ここで用いられた「段差」が実際には6センチであった可能性を指摘している[11]。
評価と研究[編集]
保土ヶ谷独立戦争をめぐる研究は、の郷土史ブームとともに断続的に進められた。1974年にはの民俗学ゼミが当事者の孫世代への聞き取りを行い、通行札の紙質が当時の駅弁包み紙と酷似していたことを報告している。これによって、事件が物資不足ではなく「印刷所の空き時間」を利用して拡大した可能性が示唆された。
一方で、の都市史研究では、独立戦争という呼称自体がのちに新聞記者によって誇張されたものであり、実態は「自治権の張り合い」であったとする慎重な見方もある。ただし、事件現場に残された境界石が現在も保土ヶ谷の路地に埋め込まれているとする目撃証言があり、夜になると傾くという奇妙な性質が報告されている。真偽は確認されていないが、地元では「独立石」と呼ばれ、受験生の合格祈願の対象となっている。
批判と論争[編集]
事件の最大の論争点は、そもそも「戦争」と呼ぶべきかどうかである。自治史研究者の中には、武器らしい武器は竹箒2本と長机1台しか確認できないとして、これを「大規模な町内会議」とみなすべきだとする立場がある。一方、地元の保存会は、巡査との押し問答が3日間に及んだことを重視し、「戦争の定義は銃声の数ではなく、議事録の厚みである」と反論している[12]。
また、独立委員会が使用した木製通行札の一部に、実際には近隣の呉服店が押した番地印が転用されていたことから、事件は商業広告の一種だったのではないかという批判もある。これに対し、保存会側は「広告で始まり自治で終わったからこそ価値がある」と主張している。なお、1930年3月の解散式で全員が焼き芋を食べたという逸話があるが、これは後世の脚色である可能性が高い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長谷川一郎『保土ヶ谷駅前自治史資料集』横浜地方史刊行会, 1981, pp. 14-63.
- ^ 南雲トミ『通行札と婦人会の記憶』港北民俗研究所, 1979, pp. 201-238.
- ^ 渡辺精二『昭和初期の駅前紛争と都市秩序』吉川弘文館, 1992, pp. 88-117.
- ^ Harold J. Mercer, “Minor Municipal Secessions in Prewar Japan,” Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 45-79.
- ^ 内田要蔵『税務吏員回想録 きつね色の帳簿』神奈川文化社, 1967, pp. 9-41.
- ^ Margaret A. Thornton, “Paper Tokens and Civic Authority in Yokohama,” Transactions of the East Asian Social History Society, Vol. 8, No. 1, 2011, pp. 112-149.
- ^ 横浜市教育委員会編『保土ヶ谷の路地と看板』横浜市史資料室, 2008, pp. 55-92.
- ^ 斎藤喜一『独立戦争ではなく独立会議であった可能性について』神奈川大学紀要, 第27巻第2号, 2015, pp. 1-28.
- ^ Eleanor P. Hume, “The 18-Centimeter Eave Clause,” The Review of Civic Architecture, Vol. 5, No. 2, 1998, pp. 77-101.
- ^ 保土ヶ谷独立戦争保存会編『独立石の夜間傾斜調査報告』保土ヶ谷郷土資料館, 2020, pp. 3-29.
外部リンク
- 保土ヶ谷郷土資料館アーカイブ
- 横浜近代自治史データベース
- 駅前紛争研究会
- 通行札コレクション連盟
- 保土ヶ谷独立戦争保存会