倉脇駅
| 所在地 | 島根県浜田市倉脇町 |
|---|---|
| 所属事業者 | 中国海岸鉄道管理局 |
| 路線 | 倉脇臨港支線・防潮実験線 |
| 開業 | 1937年11月3日 |
| 廃止 | 1984年4月1日 |
| 駅構造 | 地上駅、2面3線、半地下式避難待合室 |
| 備考 | 台風観測と荷役調整を兼ねた特別駅であった |
(くらわきえき)は、の西部にあったとされる旧・海岸防災連絡駅である。後年はの待避運用研究に転用され、独特の「潮待ち式ホーム配置」で知られる[1]。
概要[編集]
倉脇駅は、沿岸の小集落・倉脇に設けられたとされる特殊駅であり、当初は海産物の出荷との高潮監視を兼ねる施設として計画された。一般の旅客駅として扱われることは少なく、地元では「波を見る駅」とも呼ばれていた[2]。
駅名の由来は、当地にあった倉庫群を背後の崖沿いに“脇置き”したことにちなむとされるが、実際には内の測量担当者が、急峻な地形を見て半ば冗談で命名したという説が有力である。なお、この駅には潮位がごとに変動するという前提で設計された時刻表が残されており、後年の研究者を悩ませた[3]。
また、倉脇駅はからにかけて、災害時の避難誘導と荷役調整を一体化した「準公共駅」の先駆けと位置づけられている。一方で、駅舎の奥にあったとされる“乾ききらない木製時計”の存在については、今なお資料が少なく、要出典とされることがある。
歴史[編集]
計画の成立[編集]
倉脇駅の計画は、との沿岸部で相次いだ小規模高潮を受けて、の港湾改良班が作成した「海辺集落の退避線整備案」の一部として始まった。中心人物は土木技師ので、彼は通常の駅ではなく、避難所・気象観測所・荷さばき場を兼ねる三層構造の駅舎を提案したとされる。
設計段階では、ホームを満潮位より高くしつつ、逆に改札口を低く設ける案が採用された。この逆転構造は「逃げる人間の足取りを軽くする心理効果がある」と説明され、のちに鉄道建築史上でも珍しい“情動工学的駅舎”として言及された。
開業と初期運用[編集]
に開業した倉脇駅は、開業式典の直前に強風が吹き、紅白幕が海側へ三度ほど膨らんだことで知られる。地元の子どもが先頭列車より先にホームへ入ってしまい、結果として記念入場者の第1号が8歳児になったという逸話が残る。
初年度の利用者数は延べであったが、そのうち約3割は実際の乗降客ではなく、潮位観測や荷捌きの見学者であった。駅員は最大で配置され、うち2人は「波警報係」として、汽笛とは別に手旗で退避を促していたという。
戦後の改造[編集]
には駅舎北側にコンクリート製の増築棟が設けられ、そこに簡易ラジオ局と待機宿直室が併設された。これは沿岸集落に対する情報伝達の迅速化を目的としたもので、当時の新聞では「駅が村の耳になった」と報じられた。
しかしの台風第14号で駅裏の斜面が崩れ、待合室の床下から木箱が見つかった。中には昭和初期の運賃改定表、潮位計の目盛板、そして用途不明の“赤い切符”が含まれていたとされるが、現物の所在は不明である[4]。
駅構造と設備[編集]
倉脇駅の最大の特徴は、海に向かって斜めに延びるの配線である。これは通常の列車運行を想定したものではなく、高潮時に貨車を高所へ退避させるための「上げ線」を含んでいたため、構内図は一般の駅よりも防波堤の図面に近かった。
駅舎は木造平屋に見えるが、実際には地盤の傾斜を利用した半地下式で、裏手から入ると1階、海側から入ると2階に見える構造であった。これにより、旅客が少ない日は改札係が“実質的に地下勤務”となるため、夏でも涼しい駅として近隣では評判であった。
また、構内には「潮待ち標柱」と呼ばれる高さの木柱が立ち、満潮線を越えると赤、干潮線で青に見えるよう塗装が変えられていた。塗料はの規格外だったとされ、試験番号だけが残っている。
運行と利用状況[編集]
倉脇駅を発着する列車は、通常の旅客列車のほか、荷物車を連結した「潮荷列車」が存在した。これは海藻、干物、塩樽を積み込むための臨時列車で、荷主が多い日は遅れがむしろ正常とみなされた。
最盛期のには、1日平均が利用し、そのうちが通学・通勤、が市場搬入、残りは観光客と記録されている。ただし、同年の地方紙には「駅前で潮風を浴びるだけの客が増えた」ともあり、統計の取り方に若干の揺れがある。
一方で、駅員が潮位に応じて発車時刻を2回変更したことから、乗客が「鉄道なのに気象予報が本体」と不満を漏らした記録もある。これを受け、には時刻表の欄外に“本日、波はやや強し”という注記が追加された。
社会的影響[編集]
倉脇駅は、過疎地の鉄道施設でありながら防災拠点として機能したため、時代の「駅は輸送のためだけにあるべきか」という議論に一石を投じたとされる。これを契機に、沿岸部の小駅に簡易貯水槽や無線室を組み込む試みが各地で進められた。
また、駅舎の待合室に常備された温度計と潮位表は、地元の子どもたちにとって初めての“数値を見る文化”を育てたという評価もある。実際、倉脇小学校では毎朝の天気報告に「駅前の波の高さ」を読み上げる習慣がまで続いたとされる。
ただし、駅が防災名目で予算を確保し続けたことについては、近隣の商店主から「駅なのか避難所なのか分からない」との批判もあった。なお、駅前に設置された謎のベンチは、座面が高潮時に回転するため、観光ポスターではしばしば誤って遊具として紹介された。
廃止とその後[編集]
、路線再編に伴い倉脇駅は廃止された。表向きの理由は利用減少であったが、実際には駅舎の傾斜が年間ずつ増していたため、安全基準を満たしにくくなったことが大きいとされる。
廃止後、駅舎はの郷土資料室として転用され、潮待ち標柱や赤い切符の複製が展示された。しかし、展示室の照明が満潮時刻になると自動的に少し暗くなる現象が報告され、来館者の間で「駅の記憶が残っている」と語られた。
現在、跡地には石積みのホーム縁と、防潮柵に転用されたレール片が残るのみである。地元では毎年11月に「倉脇波止め講」が開かれ、元駅員の子孫が木製切符に似せた菓子を配る習慣がある。
批判と論争[編集]
倉脇駅をめぐっては、そもそも正式な駅であったのか、それとも港湾附属施設であったのかが長年争点となっている。の一部は「駅名を持つ以上は駅である」とする一方、土木史の立場からは「駅に見せた防災設備に過ぎない」とする見解もある。
また、開業時の写真に写るホーム端の立札には、路線名が後年のインクで上書きされた跡があり、資料改ざんの可能性が指摘されている。これについては、当時の駅長が「見やすくしただけ」と述べた回想録があるが、編集者の間では要出典扱いとなっている。
さらに、赤い切符の用途をめぐり「遭難時の優先乗車券」説と「潮汐訓練の合図券」説が対立しており、いまだ決着していない。もっとも、どちらの説でも、切符が普通の乗車券として使われた形跡は薄い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『沿岸駅舎の防潮設計』交通土木研究社, 1938年.
- ^ 中国海岸鉄道管理局 編『倉脇臨港支線 建設誌』第2巻第4号, 1940年.
- ^ 西田宗一『波を見る駅の記憶』浜田郷土出版, 1961年.
- ^ 田所弘二「潮位変動と小駅運用の相関」『鉄道施設学報』Vol. 12, No. 3, pp. 44-58, 1969年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Tide-Oriented Stations in Coastal Japan,” Journal of Maritime Infrastructure, Vol. 8, No. 2, pp. 101-119, 1974.
- ^ 倉脇駅保存会 編『赤い切符と木製時計』倉脇資料叢書, 1986年.
- ^ 浜田市教育委員会『倉脇駅跡地調査報告書』第5集, 1992年.
- ^ 佐伯一郎『駅舎が避難所になるまで』潮出版, 2001年.
- ^ Hiroshi Kanda, “Psychological Effects of Reversed Station Layouts,” Asian Railway Review, Vol. 19, No. 1, pp. 7-21, 2008.
- ^ 木村葉子『満潮時刻表の社会史』港湾史料社, 2017年.
- ^ 鈴木保『倉脇駅とその周辺の謎のベンチ』地方交通文化研究, 第4巻第1号, pp. 2-13, 2020年.
外部リンク
- 倉脇駅跡保存会
- 中国海岸鉄道アーカイブ
- 浜田沿岸交通史デジタル館
- 波待ち駅研究所
- 山陰旧駅資料室