偽史倭人伝
| 正式名称 | 偽史倭人伝 |
|---|---|
| 別名 | 倭人偽録、倭辺抄、青紙本 |
| 成立時期 | 4世紀末-6世紀初頭(諸説あり) |
| 成立地域 | 朝鮮半島南部・瀬戸内海沿岸・山西の写本圏 |
| 言語 | 古漢文・倭語訓点混淆文 |
| 主題 | 倭の系譜、航路、祭祀、戸籍 |
| 現存写本 | 15系統31点 |
| 真偽 | 偽作説が有力 |
| 影響 | 中世史書、国学、近代史料批判 |
偽史倭人伝(ぎしわじんでん)は、における古代の系譜を、写本の攪乱と年代のずれを用いて再構成したとされる史書である[1]。一部では末から初頭にかけて成立したとされるが、本文の語法と記載地名の不整合から、後世のたちによる改作が強く疑われている[2]。
概要[編集]
偽史倭人伝は、の祖先伝承、海上交易、首長層の儀礼を体系的に記したとされる歴史文書である。現存する本文は、系の字形を持つ写本、で伝来した訓点本、期の紙背文書の断片から復元されており、成立当初の形態は定かでない。
従来は失われた正史の補遺とみなされたが、末の学派による文献比較で、本文の年次配列が二重に折り返されていること、また同一人物が三つの異なる王名で呼ばれていることが指摘された。これにより、史書というよりも、史官実習用の「比較年代帳」を改題したものではないかとの説が有力となった[3]。
成立[編集]
初期編纂[編集]
成立の契機は、期の海商が持ち込んだ航海日誌と、北岸の祭祀記録を同一冊子に綴じたことにあるとされる。書き手としては、出身の書吏・陳仲達、の渡来僧・道善、ならびに名も残らぬ巫祝の娘が挙げられるが、いずれも後代の注釈層が創作した人物とみる研究者も多い。
とくに第七巻に見える「倭人は戸を海に向けて開く」という文句は、もともと税務調査用の符牒だったものが、のちに風俗記事へ転用された可能性がある。本文の筆致は一見して統一されているが、墨の成分分析では種類以上の煤が検出され、少なくとも回の加筆があったと推定されている[4]。
写本の拡散[編集]
にはの寺院経由で一部がへ伝わり、の占星官が暦法補助資料として参照したとする記録がある。ただし、その記録自体が後世の目録にのみ見え、原本は失われている。
一方で、の外典写しでは、倭人伝の「偽」の字に朱が入れられ、校訂者が意図的に真正本との差異を示した形跡がある。この朱訂はのちに「偽朱本」と呼ばれ、期の僧侶たちが地名の比定に利用したとされる。なお、ある写本ではの項が突然風の騎馬儀礼に差し替わっており、古写本学の悪夢として知られている。
内容[編集]
倭の系譜[編集]
本文の中心は、倭の始祖が「潮汐を聞いて名を得た三兄弟」であるという独特の系譜である。長兄は海辺に石を積んで王権を示し、次兄は貝貨を数え、三男は舟の舵を削って神託を行ったとされる。
この系譜は一見して神話的であるが、沿岸の航海儀礼との土地占有儀礼を接合した跡があり、交易民が異なる祭祀を一冊にまとめて自己正当化したものとの見方がある。とりわけ「三兄弟のうち一人だけが戸籍に載らない」という記述は、実際には徴税漏れを示す隠語だったのではないかとされている。
航路と地名[編集]
地理記事は本書の白眉であり、、、のほか、現実には比定不能な「青潮の岬」「二重霧の島」などが並ぶ。これらの地名はからへ至る航路を暗号化したものと考えられている。
もっとも有名なのは「木の舟にして砂を漕ぐ」という表現で、長らく不可能航海の比喩とされた。しかし末に湾の干潟で類似の浅瀬航法が再現され、本文の実用性を裏づけたとする報告が出た。ただし再現実験の責任者が史料よりも料理用の杓子を多用したため、学会では今なお評価が割れている。
祭祀と戸籍[編集]
偽史倭人伝は、倭人が年に四度、塩と紙片を焼いて戸籍を更新したと記す。これは宗教儀礼に見えるが、実際には海上集落の人口把握と港湾労役の割当を兼ねた制度だった可能性がある。
本文には「女王が三度頷くと、島の名が変わる」との記載があり、の政治的中心が流動的であったことを示すとも解釈される。また、祭器の数が「七十二、ただし欠け皿を除く」と細かく記される点は異様に会計的であり、の年次勘定と接近している。ここに、史書と帳簿が未分化だった古層が見えるというのが、近年の通説である。
受容と改作[編集]
中世以降、偽史倭人伝はしばしば真正史料として扱われたが、同時に「便利な比喩の宝庫」としても愛用された。特に期の連歌師は、本文の地名を和歌の本歌取りに転用し、の問屋は倭の戸籍制度を自らの帳合の由来に結びつけた。
時代には国学者・小笠原斎直が、本文中の「白い舟は南から来ず」という一節をもって、日本列島の独自起源を論じたが、のちにこの句が実は塩焼き工程の注意書きであった可能性が浮上した。なお、斎直の弟子が誤って「白舟」を「白州」と読んだため、の酒蔵史にまで波及する珍事が起きている[要出典]。
研究史[編集]
近代史料批判[編集]
期にはの史料編纂掛が本文の異同を整理し、青紙本・朱訂本・灰背本の三系統に分けた。とりわけに発表された佐伯真澄の論文は、倭人伝の語彙に由来の商業用語が含まれることを指摘し、海上ネットワーク説を強めた。
一方で、ドイツの大学教授エルンスト・ヴェルナーは、文中の「王が笛を吹いて暦を数える」という記述を官僚訓練の隠喩とみなし、史書ではなく教育マニュアルの転用と結論した。この対立は、前半の東アジア史研究を妙に活気づけた。
現代の再評価[編集]
以降、デジタル画像解析によって本文の行間に消し跡が多数存在することが判明し、ひとつの写本に複数時代の知識人が介入していたことが可視化された。現在では、単一著者による偽作というより、世紀以上にわたり増補された「共同編集史料」とみる説が有力である。
ただし、の私設文庫で発見された「第零巻」だけは、全篇が料理の手順書に酷似しており、研究者を困惑させている。そこでは倭人の祖先が「まず海藻を洗う」と始まり、最後に「灯火を消して歌う」と締めくくられるが、何を示すのかは不明である。
影響[編集]
偽史倭人伝は、史の枠組みを考えるうえで、真正性よりも伝播経路が重要であることを示した史料として扱われている。とくにの海洋史研究との古代国家論とのあいだで、本文の引用がしばしば学説の橋渡し役となった。
また、港湾都市の自治文書に「戸を海に向けて開く」という比喩が残ったことで、商人たちはこれを「税を先に払うと港が静かになる」という意味に読み替え、現代でもの一部商家にその言い回しが残るという。なお、系の郷土史では、この史書が香辛料の取引記録を隠した暗号帳であるとする説が根強く、毎年に小規模な解読会が開かれている。
批判と論争[編集]
最大の論点は、偽史倭人伝が「史書」であるのか「偽史」であるのかという名称自体にある。保守的な研究者は、偽作であっても史料は史料であると主張し、本文を否定するのではなく、誰がどの目的で偽ったかを追うべきだとする。
これに対し、文献学の一部では、書名に含まれる「偽」が後世の批判者によるラベルではなく、原題の一部だった可能性が論じられている。つまり、当初から「これは偽りの倭人伝である」と宣言することで、むしろ真正性を担保しようとしたのではないかという逆説である。もっとも、この説を支持する決定的証拠はなく、議論はしばしば深夜の学会懇親会で終わる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯真澄『倭人伝異本考』史林社, 1897.
- ^ Ernst Werner, "Die Pseudo-Wa-Chronik und ihre Hafenbegriffe," Archiv für Ostasiatische Philologie, Vol. 12, No. 3, 1908, pp. 201-244.
- ^ 小笠原斎直『倭辺抄の成立と港市』国史考究, 第4巻第2号, 1911, pp. 55-89.
- ^ 陳仲達『海路と戸籍のあいだ』広州文庫, 5巻, 402年.
- ^ 渡辺精一郎『偽史倭人伝訓点本の再構成』東京帝国大学史料編纂掛報告, 第18号, 1934, pp. 11-67.
- ^ Margaret A. Thornton, "On the Double-Scribed Annals of Wa," Journal of Comparative Antiquity, Vol. 7, Issue 1, 1962, pp. 44-79.
- ^ 佐藤芳樹『青紙本と朱訂本の墨成分分析』文献学季報, 第22巻第4号, 1988, pp. 301-330.
- ^ Jean-Luc Moreau, "Les routes de la mer brumeuse: lecture cryptographique du Wa," Revue d'Histoire Imaginaire, Vol. 19, No. 2, 2001, pp. 90-128.
- ^ 高橋里美『第零巻の料理史的注釈』京都私設文庫研究, 第1巻第1号, 2009, pp. 1-18.
- ^ Hiroshi Kanda, "The Chronicle That Said It Was False," Pacific Historical Review of Scripts, Vol. 3, No. 4, 2017, pp. 233-260.
外部リンク
- 東亜偽書研究会
- 古写本画像アーカイブ
- 海路年代帳データベース
- 倭人伝異本総覧
- 訓点文献デジタル館