僵尸病
| 正式名称 | 僵尸病 |
|---|---|
| 別名 | 倒歩病、月照性硬直症候群 |
| 初出 | 1897年ごろの福建沿岸記録 |
| 主な症状 | 筋硬直、逆向き歩行、低照度下での発話遅延 |
| 原因 | 寄生性酵母と塩分不足、ならびに夜間儀礼への曝露 |
| 関連分野 | 民俗医学、公衆衛生、比較感染症学 |
| 研究機関 | 香港植民地衛生局、東京帝国大学医科大学 |
| 流行記録 | 1911年、1934年、1978年の3回が特に有名 |
| 象徴物 | 紙札、桃木、塩壺 |
| 現在の扱い | 医学上は否定、民俗学上は継続調査 |
僵尸病(きょうしびょう、英: Jiangshi Disease)は、末から初期にかけて沿岸部で記録されたとされる、筋緊張の異常固定と歩行反射の逆転を特徴とする感染性民俗症候群である[1]。のちにの民間医療との衛生学が交差することで再定義され、との境界に位置する概念として知られている[2]。
概要[編集]
僵尸病は、死体のように硬直しながらも歩行や発声が断続的に持続するという、きわめて特異な病像を指す用語である。名称はの民間観念に由来するとされるが、実際には沿岸の塩商人が冬季の低体温症を誤認したことから定着したとの説が有力である[3]。
この病気は、単なる怪談として扱われることも多い一方で、の租界病院やの開港地診療所では、1900年代前半に「夜間硬直症」としてカルテに記載された例がある。とくにの実地調査団が採取したという「白い紙片状の痰」は、のちに乾燥した米粉と判明したが、当時の研究者は真顔で病原体候補として報告している[4]。
定義と特徴[編集]
僵尸病の第一義は、筋肉が異常に緊張し、関節が鉛のように動きにくくなる点にある。患者はしばしば、前進よりも後退のほうが安定して見えるため、路地や階段で逆向きに進む姿が目撃されたという。
また、月明かりの下で症状が強くなるとされ、これはの衛生年報でも「月照性反応」と呼ばれた。ただし、同報告の付録には、照明設備の少ない診療所で観察されたため単なる転倒の連鎖であった可能性がある、と注記されている。
名称の成立[編集]
「僵尸病」という名称は、もともとで「硬い死者」を意味する俗称に医師が病名風の語尾を付けたものである。これにより、民間の恐怖感と近代医学の権威が不自然に結合し、新聞記事の見出しとして極めて強い訴求力を持つようになった。
なお、の地方紙『海聲日報』には「僵尸病患者、塩を舐めて正気に返る」との記事が載ったとされるが、後年の調査では同日付の紙面が広告面しか残っておらず、記事本文は要出典とされている。
歴史[編集]
清末の沿岸伝承[編集]
起源は末期の沿岸交易にさかのぼるとされる。とくにからにかけての塩蔵倉庫では、夜番が「歩き方がおかしい荷役人夫」を僵尸と見間違え、翌朝に一斉に発熱と硬直を訴えたという逸話が残る。
の冬、の衛生記録には、1か月で27名が同様の症状を呈し、そのうち19名が「桃の枝を握らされると静まった」とある。今日では儀礼的保温措置の一種だったとも解釈されるが、当時は完全に超常現象として受け止められた。
殖民地衛生と症例分類[編集]
では、港湾検疫の担当官であったハロルド・P・ウィットコーム博士が、僵尸病を「熱帯性筋拘縮の亜型」として分類しようと試みた。彼の報告書は内で回覧されたが、脚注に「患者が塩壺を抱いて落ち着く例がある」と記したため、上層部からは民俗学に寄り過ぎていると評された。
一方での新聞『South China Gazette』は、この症状を「harbor zombie fever」と訳し、見出しだけが独り歩きした。これにより、以後20年にわたって港湾労働者の欠勤理由欄に「HZF」と書かれる風潮が生まれたという。
日本への流入と制度化[編集]
日本では末から初期にかけて、帰国した留学生や通訳官を通じて概念が紹介された。医科大学のは、に『僵尸病ノ民俗学的考察』を提出し、症状の6割が夜間の食塩摂取不足と関連すると主張した。
この論文は、当時の学生自治会が「塩を食べれば死者も歩く」と誤読したことで一部で有名になった。また、の検疫所では、実際の感染症よりも「僵尸病の疑い」が先に書類に残ることがあり、行政文書上の幽霊病名として扱われた節がある。
病因論[編集]
僵尸病の病因は、時代によって大きく揺れた。初期には説、次いで説、さらにによる神経抑制説が唱えられたが、いずれも決定打には至らなかった。
1930年代にの研究班が提唱した「塩分記憶仮説」は、患者の体液ではなく生活史に塩が足りていないことが病態を生むという独特の理論である。これは栄養学の文脈に見せかけた道徳教育として利用され、学校検査で「味噌汁を残す児童は僵尸化しやすい」とまで指導された[5]。
その後、の郊外調査で、症状の多くが倉庫内のと強い疲労の組み合わせで説明できることが示唆された。しかし、同報告書の末尾には「なお、患者の家族が桃木を好む傾向は統計的に有意であった」とあり、科学と民俗が最後まで分離しなかった点がこの概念の特徴である。
社会的影響[編集]
僵尸病は、医療のみならず娯楽、教育、行政にまで影響を及ぼした。少年雑誌では「硬直に効く三つの塩味料理」が連載され、映画館では上映前に桃木の香りを焚く演出が流行した。
また、の一部学校では、冬季体育の準備運動として「僵尸体操」が採用された。腕を前に突き出し、膝をほとんど曲げずに歩く動作は、当初こそ風紀上の懸念を呼んだが、のちに姿勢矯正に良いとしてPTAの支持を得た。
一方で、港湾労働者への偏見を助長したという批判もある。には「僵尸病歴あり」を理由に就職を断られたとする訴えが複数寄せられたが、調査の結果、その多くは単に履歴書の字が汚かったことが判明している。
批判と論争[編集]
僵尸病の研究史は、常に懐疑と熱狂の間を揺れ動いてきた。の衛生委員会に提出されたの報告では、症例の半数以上が「病名の先行による心理的模倣」であるとされたが、報告者自身が帰国後に桃木のお守りを常用していたため、学界では公平性に疑義が呈された。
また、以降の民俗学では、この概念が「近代以前の死生観を固定化した植民地的ラベル」であるとの批判もある。ただし、反対派の一部は現地調査で「真夜中にだけ硬直する犬」を見たとしており、議論は現在も収束していない[6]。
なお、の内部文書には、会議で僵尸病を説明した若手研究者が、資料映写中に自ら硬直して見えたため、聴衆が本気で病原曝露を疑ったという記録がある。これは教育効果が高すぎた例として半ば伝説化している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『僵尸病ノ民俗学的考察』東京帝国大学医科大学紀要, Vol. 12, 第3号, 1916, pp. 41-68.
- ^ Harold P. Whitcombe, "Notes on Harbor Zombie Fever in Hong Kong", Journal of Colonial Hygiene, Vol. 8, No. 2, 1904, pp. 113-129.
- ^ 陳 嘉樹『華南沿岸における倒歩症例の分布』南洋医学雑誌, 第17巻第1号, 1928, pp. 5-22.
- ^ Margaret L. Henshaw, "Salt Deficiency and Ritual Exposure in the South China Coast", Transactions of the Royal Asiatic Medical Society, Vol. 21, No. 4, 1932, pp. 201-233.
- ^ 小林 恒一『月照性硬直症候群と学校保健』日本学校衛生学会誌, 第9巻第2号, 1939, pp. 77-95.
- ^ Wang Mei-ling, "The Fictional Pathogen of a Real Fear", East Asian Folklore Review, Vol. 3, No. 1, 1979, pp. 1-19.
- ^ 田所 義彦『僵尸病資料集成 第一輯』横浜港湾衛生研究所報告, 第4巻第1号, 1951, pp. 9-44.
- ^ E. R. McAllister, "The Paper Talismans and the Misread Epidemiology", Bulletin of Maritime Medicine, Vol. 14, No. 7, 1962, pp. 311-328.
- ^ 『海聲日報』編集部「僵尸病患者、塩を舐めて正気に返る」, 1912年10月4日付朝刊.
- ^ 高瀬 由紀『僵尸病と近代都市の夜間衛生』新潮社, 2008, pp. 119-156.
- ^ Nakamura, S. "Why 37 Boiled Eggs? A Question of Recovery Diets", Kobe Medical Notes, Vol. 5, No. 3, 1934, pp. 55-57.
外部リンク
- 香港民俗衛生アーカイブ
- 東アジア夜間症候群研究会
- 横浜港湾医療史データベース
- 東京帝国大学旧医科資料室
- 塩壺と桃木の民俗博物館