十津川電気軌道
| 事業者 | 十津川電気軌道株式会社 |
|---|---|
| 路線種別 | 軽便電気軌道 |
| 開業 | 1912年(大正元年) |
| 廃止 | 1938年(昭和13年) |
| 総延長 | 18.4 km |
| 軌間 | 762 mm |
| 電化方式 | 直流600V |
| 起点 | 新宮仮駅 |
| 終点 | 上野地停留場 |
| 備考 | 谷底区間の一部で索道併用 |
十津川電気軌道(とつかわでんききどう、英: Totsukawa Electric Tramway)は、南部から南部にかけて計画・運行されたとされる山岳電気軌道である。末期の林産物流通を背景に成立したとされ、のちに豪雨災害と発電実験が混線した珍しい交通史の事例として知られている[1]。
概要[編集]
十津川電気軌道は、水系の木材輸送と観光客輸送を両立させる目的で構想された山岳電気軌道である。路線の骨格はの港湾集積地からの上野地に至るものとされるが、記録の多くは戦前の倉庫火災で失われ、実態は社史・新聞記事・古地図の断片から復元されている[2]。
同社は、通常の鉄道敷設が困難な急峻地形に対し、電気軌道と索道、さらに木材搬出用の短尺貨車を組み合わせる「三位一体輸送」を採用した点で特異である。もっとも、当時の技術者はこの方式を「山が動くなら車両を先に動かせばよい」と説明したと伝えられ、後年の研究者からは発想が過剰に単純であるとして半ば伝説視されている[3]。
歴史[編集]
計画の発端[編集]
創業の契機はの大水害後、側の材木商・がから招いた電気技師に「谷が深すぎて馬車が怒る」と相談したことにあるとされる。渡辺はの前身とも無関係な私設試験所で直流モーターの耐湿試験を行い、山林地帯でも通電可能な車両を設計したが、回路図の一部に炭鉱用リレーが混入していたため、初期車両は坂道で異常に加速する欠点を抱えた。
に設立された十津川電気軌道株式会社は、地元の伐採業者、系の資本家、そして観光振興を掲げた系の後援で資金を集めたとされる。なお、出資説明会では「終点の温泉で発電も行う」と書かれた説明書が配布されたが、これは後年の複写で「発電」が「発汗」と誤読され、従業員の福利厚生策と誤解されたとの指摘がある。
建設と試運転[編集]
建設はに着工し、最難関区間である付近では、レールを敷設するより先に電柱を立てるという珍しい手順が採用された。これは谷の霧が濃く、作業員が互いを見失うため、まず電線で位置を確認する必要があったためであるとされる。実際にはこの区間で架線が雷を呼び、試運転中の電車が一度だけ停留場を通過したまま側まで滑走した逸話が残る。
の開業時には、木製単車4両と客貨合造車2両、さらに「雨天専用」とされた屋根付きトロリー1両が配備された。雨天専用車は内部が極端に湿気るため人気がなく、のちに弁当販売車へ改造されたが、停車中に米飯が炊き上がるほど車内温度が上がったため、利用者からは半ば移動式かまどとして認識されていた[要出典]。
衰退と終焉[編集]
初期になると、林産物輸送は自動車と簡易索道に奪われ、観光客も経由の乗り継ぎを好むようになった。加えて、の豪雨で橋梁3か所が流失し、復旧費用の見積もりが「路線延長1kmにつき村の戸数が足りない」とされる水準に達したため、事業継続は困難となった。
最終運行は秋で、終電は上野地停留場を出たのち、回生ブレーキが故障して停車場手前で止まりきれず、結果として乗客が自発的に押して戻したという記録がある。廃止後、車庫の一部は製材所に転用され、残った架線柱は戦後にの山間部中継用アンテナとして再利用されたとする説が有力である。
路線[編集]
路線は、港湾部の新宮仮駅から山間の集落を縫って上野地停留場に至る単線区間を主体とし、途中に森林集積所と温泉前仮停留場が設けられていた。停留場間の平均距離は1.3 kmと短く見えるが、実際には谷を横断するため直線距離の2倍以上を蛇行したとされる[4]。
沿線では、材木搬出のほか、の宿泊客、学校への通学児童、郵便逓送が同時に扱われた。とくに午前8時台の列車は「薪束、学生帽、郵袋」が同じ車両に積まれるため、車掌が毎朝仕分けに45分を要したといい、これが地域の時間感覚を大幅に緩めた原因とも指摘されている。
また、谷底部の一部では架線の保守が難しいため、貨車をワイヤーで牽引する索道併用区間が存在した。現地ではこれを「走るか吊られるか分からぬ線」と呼んだが、観光パンフレットではより穏当な表現として「天空併走区間」と記載され、むしろ人気を集めた。
車両[編集]
電動客車[編集]
主力となったのは木造2軸の電動客車で、最大定員は着席24名、立席を含めると42名とされた。車体は湿気対策として柿渋で塗装され、内装に産の杉が用いられたため、雨の日には車内がほのかに香る一方、夏季には「森林浴をしながら渋い気分になる」と評された。
運転士には山間部の勾配に応じて3段階の抵抗制御を使い分ける技能が求められたが、初期には誤操作による暴走が多発した。特に第2号車は減速抵抗が弱く、ある区間で乗客が窓外の鹿と並走したという記録が残る。
貨客合造車と特殊車両[編集]
貨客合造車は木炭、米穀、郵便袋を同時に積載できる設計で、上部に座席、下部に荷台を備えていた。荷台の重量が偏ると車体が傾くため、車掌は「荷を右に、客を左に」と口頭で指示したが、慣れていない旅客には座席指定の案内と誤認された。
特殊車両としては、架線点検用の手押し電動トロッコ、落石除去用の前方突き出し式防護車、そして祝祭日のみ運用された「鳴子車」がある。鳴子車は通過時に木製の羽根が鳴る構造で、熊避けの効果があったとされるが、実際には近隣住民の昼寝を妨げたため数年で中止された。
経営と社会的影響[編集]
十津川電気軌道は、単なる交通機関ではなく、山間地域における電化・観光・林業金融の実験場であった。沿線の発電所では、夜間に余剰電力を使って製材機を回し、昼間は逆に軌道電力を村の集会所へ流して照明を賄ったとされ、地域住民の間では「電気が回ると景気も回る」と言われた。
一方で、運賃体系はきわめて複雑で、客は距離制、貨物は重量制、さらに雨天時には「滑走補助料」が加算された。これに対し、地元商工会は1931年に「乗客は濡れるが、請求書まで濡らす必要はない」と抗議したが、同社は「気象条件を含めた輸送サービス」であるとして譲らなかった。
このように同社は、山岳地帯の近代化を象徴する成功例として語られる一方、数字の上ではほとんど採算が取れていなかったとされる。ただし、廃止後も沿線で製材業と温泉業が比較的早く回復したことから、実質的には地域の基礎インフラとして機能していたとの評価もある[5]。
文化財・伝承[編集]
廃止後、十津川電気軌道は地元で「走る神棚」と呼ばれ、旧駅名標や碍子、車内の真鍮製つり革が縁起物として扱われた。とくに終点付近の曲線区間では、列車が減速するたびに窓から見える滝が一瞬だけ二重に見えたとされ、これが「二度福運」の由来になったという民間伝承がある。
また、に地元の小学校で配布された社会科副読本には、同路線が「電気で山を越えた例」として掲載されたが、挿絵の電車がなぜか蒸気機関車の煙突を備えており、子どもたちが混乱した。編集者は後年、「山が深すぎて、蒸気も電気も区別がつかなくなった」と回想したと伝えられる。
近年は、旧路線跡の一部が遊歩道とサイクリングルートに転用されている。なお、路盤上でときおり錆びた釘が見つかるが、地元ではこれを「軌道がまだ地面を忘れていない証拠」と呼ぶ者もいる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 岡本善兵衛『十津川山地輸送史考』紀州地方史研究会, 1927.
- ^ 渡辺精一郎『山岳電気軌道設計覚書』日本電気学術社, 1911.
- ^ 村上俊平「十津川電気軌道の勾配抵抗と雨天運行」『交通技術史研究』Vol. 8, No. 2, pp. 41-67, 1964.
- ^ H. K. Sutherland, “A Forgotten Tramway in the Kii Mountains,” Journal of Asian Transport History, Vol. 3, No. 1, pp. 12-29, 1978.
- ^ 『十津川電気軌道株式会社 第三回営業報告書』十津川電気軌道株式会社, 1914.
- ^ 中井澄雄『山間部電化と地域経済』大阪経済評論社, 1959.
- ^ 田所みな子「索道併用区間の文化地理学的検討」『奈良地理学報』第12巻第4号, pp. 88-103, 1982.
- ^ Eleanor M. Finch, “The Wet Timetable Problem: Logistics on Mountain Tramways,” Cambridge Papers in Applied Mobility, Vol. 6, No. 4, pp. 201-219, 1991.
- ^ 『交通と霧の民俗誌』和泉書房, 2004.
- ^ 北川雄大『雨天専用車の実用と幻想』鉄道趣味資料館叢書, 2018.
外部リンク
- 十津川地方鉄道史資料室
- 紀南交通文化アーカイブ
- 山岳軌道研究会
- 旧十津川電気軌道保存会
- 日本山間輸送史フォーラム