千寿いろら
| 名称 | 千寿いろら |
|---|---|
| 読み | せんじゅいろら |
| 別名 | 千寿色羅、いろら祭式 |
| 成立 | 1928年頃とされる |
| 発祥地 | 東京都足立区千住周辺 |
| 分野 | 民俗儀礼・色彩分類学 |
| 中心組織 | 日本色年連盟 |
| 主な資料 | 千寿色譜、荒川沿岸色聞書 |
| 関連行事 | 四色の節句 |
| 特徴 | 季節ごとに規定色を割り当てる |
千寿いろら(せんじゅいろら)は、北東部の旧流域で発達したとされる、色彩と年中行事を同期させるための民間儀礼体系である。初期にの染色業者らのあいだで整理されたとされ、後に都市文化の一分野として知られるようになった[1]。
概要[編集]
千寿いろらは、地域で発生したとされる、衣服・建具・菓子包装などの色を年中行事に合わせて調整する慣習の総称である。単なる流行色の指定ではなく、地域ごとに「色位」と呼ばれる細かな階層があり、祭礼、商店の暖簾、学校の掲示物にまで適用されたとされる[2]。
この体系は、もともと染物職人による相場安定のための申し合わせであったが、末期に郷土史家のが「色は土地の記憶である」と唱えたことから儀礼化が進んだとされる。ただし、彼の記した初期文書の一部には、実在しない暦法名が混じっていることが指摘されている[3]。
成立史[編集]
染色業者の申し合わせ[編集]
最初期の千寿いろらは、冬に沿いの染色問屋12軒が集まり、翌年の春先需要を見越して「藤鼠」「濃菜」「煤竹」の三色を重点的に売る協定を結んだことに始まるとされる。これが近隣の商店街に波及し、やがて「今日は濃菜の日である」といった言い回しが定着した[4]。
当時の記録によれば、の履物店が誤って紫系統の足袋を大量発注したため、色の取り扱いを巡る調整が必要になったという。これを機に、色名ごとに担当組合を割り振る方式が導入され、後の千寿いろらの骨格ができたとされる。
三浦幸次郎による体系化[編集]
、三浦は『千寿色譜初稿』を私家版として刊行し、季節を24ではなく31の「色節」に細分する案を提示した。春は「芽萌」「水薄」「桜煤」の3区分、夏は「藍鳴」「白透」「油照」の3区分とされ、各色節に対応する太鼓の拍数まで規定されていた[5]。
この理論は一見学術的であったが、三浦自身が「色節の境界は天候ではなく、商店主の機嫌で動く」と書き残していたため、後世の研究者からは半ば風刺、半ば実務書として扱われている。なお、1932年版ではの金庫扉の色まで参照例として挙げられており、過剰に細かいことで有名である。
戦後の再解釈[編集]
以降、千寿いろらは地域復興の象徴として再利用され、の小学校では「週に一度は指定色を身につける」校内指導が行われたとされる。これにより、児童が自発的に色を選ぶ文化が育った一方で、白黒テレビの普及により実感が薄れ、紙製の色見本カードが異様に発達した。
にはの前身機関が一時的に「色位登録票」の配布を試みたが、申請が月平均4,200件に達し、事務処理が追いつかなかったため廃止されたという。これをめぐっては、自治体が文化を管理しようとした珍しい例として、現在も研究対象になっている。
制度[編集]
千寿いろらでは、色は単に見た目ではなく、季節・職能・方角に対応するものとされた。たとえば、北風の強い日は「煤竹」が推奨され、湿度が高い日は「白練」に薄い灰を重ねるのが礼儀とされた[6]。
また、商店街ごとに「色長」と呼ばれる管理役が置かれ、毎月第2金曜に付近で色の調整会議が開かれたとされる。会議は平均47分で終わることになっていたが、実際には暖簾の縫い目の色まで議論が及び、3時間を超えることも珍しくなかった。
一方で、色位の序列は時代ごとに変動し、30年代には「薄鼠」が上位であったのに対し、初期には「生成り」が最上位に据えられたとされる。この変化は、流通する染料の価格だけでなく、商店街の看板電灯の色温度に左右されたという説明があり、実務と迷信が入り混じっている。
四色の節句[編集]
千寿いろらの最も知られた行事が「四色の節句」である。これはの前夜に、それぞれ青・赤・白・黒の基調色を町内で24時間だけ切り替える儀礼で、参加者は袖口、箸袋、掲示板の縁飾りのいずれか一か所に必ず当該色を用いる必要があった[7]。
特にの儀礼では、の和菓子店が毎年「藍の羊羹」を777本だけ製造したことが知られている。売れ残りを避けるため、閉店間際に近隣のが半ば義務として購入していたという逸話が残る。
社会的影響[編集]
千寿いろらは、戦前の色彩規制と商店街文化を媒介した点で、都市民俗学上しばしば言及される。とりわけ沿線では、駅ごとに標準色が違うという噂が広まり、乗客が車内広告の色を見て降車駅を判断したとされる[8]。
また、広告業界への影響も大きく、1950年代にはが千寿いろらの「色位」概念を取り入れ、季節ごとの紙面配色指針を作成した。もっとも、実際には編集長の好みが強く反映され、理論よりも「昨日より少し濁った青」が優先されたため、体系はしだいに簡略化された。
内の一部高校では、美術教育の補助教材として採用されたことがあるが、指定色の呼称が多すぎて生徒が覚えきれず、テストで「煤竹を3行で説明せよ」といった設問が出たことが問題視された。
批判と論争[編集]
千寿いろらに対する批判としては、まず分類が過剰に細かく、地域住民の実感を超えていた点が挙げられる。研究者のは、1974年の論文で「色位の半数以上は、事後的に作られた説明にすぎない」と指摘している[9]。
また、の「千住色紙事件」では、商店街振興組合が配布した標準見本が印刷所のミスで全体的に緑がかり、翌年の節句で“幻の第5基調色”として扱われる騒ぎが起きた。これにより、体系自体が人為的に拡張可能であることが露見したが、逆に愛好家のあいだでは「拡張性こそ本質」と解釈されている。
なお、1990年代以降は観光資源化が進み、千住周辺の土産物店で「いろら認定」の札が乱発されたため、が監査を実施した。監査報告書には、認定基準を満たさない菓子箱が214点中61点あったと記されているが、基準そのものが毎年変わるため、実効性には疑問が残る。
現代の位置づけ[編集]
現在の千寿いろらは、実践的な生活規範というよりも、地域史を語るための半ば象徴的な枠組みとして理解されている。の民俗色彩研究室では、2020年から「都市儀礼としての可変配色」をテーマに調査が進められ、商店街の看板更新時期との相関が示された[10]。
一方で、近年はSNS上で「今日は自宅を生成りに寄せる」などの軽い模倣が流行し、本来の儀礼から離れたミーム化も進んでいる。これについて古参の愛好家は、千寿いろらは守るものではなく、毎年少しずつズレることで生き延びるものだと述べている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三浦幸次郎『千寿色譜初稿』私家版, 1931年.
- ^ 長谷川玲子「都市儀礼における色位の変動」『民俗と生活』Vol. 18, No. 2, 1974, pp. 41-67.
- ^ 佐伯道雄『荒川沿岸色聞書』足立文化叢書, 1959年.
- ^ Margaret H. Ellison, “Seasonal Pigments and Neighborhood Order,” Journal of Urban Ritual Studies, Vol. 7, No. 1, 1988, pp. 12-29.
- ^ 渡会宗一『商店街と配色統制の近代』青鳳社, 1966年.
- ^ Takeshi Morita, “The Senju Irola System and Its Administrative Fictions,” Nippon Ethnographic Review, Vol. 23, No. 4, 2001, pp. 88-110.
- ^ 小林由紀『色の年中行事史』みすず風出版, 1978年.
- ^ Helena R. Voss, “A Catalog of Impossible Color Ranks,” Proceedings of the East Asian Folk Institute, Vol. 14, No. 3, 1994, pp. 203-219.
- ^ 日本色年連盟編『千住色紙事件調査報告書』同連盟資料室, 1979年.
- ^ 中野啓一『都市の暖簾と公共性』現代民俗研究会, 2012年.
- ^ 長谷川玲子『煤竹の行政学』彩流社, 1981年.
外部リンク
- 日本色年連盟アーカイブ
- 荒川沿岸民俗資料室
- 千寿いろら研究会
- 足立区郷土色彩史データベース
- 東京都市儀礼史センター