南ロシア・ドン・ヴォルガ・自由コサック及び農労働者民衆連合・反ボリシェヴィキ臨時全権統治委員会
| 正式名称 | 南ロシア・ドン・ヴォルガ・自由コサック及び農労働者民衆連合・反ボリシェヴィキ臨時全権統治委員会 |
|---|---|
| 通称 | 臨時全権委員会、南方統治会議 |
| 成立 | 1918年3月 |
| 解体 | 1919年11月 |
| 本部 | ノヴォチェルカスク、後にサラトフ郊外の貨物駅舎 |
| 目的 | 反ボリシェヴィキ地域の統合統治 |
| 構成 | コサック代表、農民代表、鉄道技師、法学顧問 |
| 議長 | イリヤー・アルセーニエフ公 |
| 公用文書語 | ロシア語、教会スラヴ語、簡易電報文 |
南ロシア・ドン・ヴォルガ・自由コサック及び農労働者民衆連合・反ボリシェヴィキ臨時全権統治委員会は、に流域と下流域で構想された、・小農・鉄道労働者の三者協調を標榜する臨時統治機関である[1]。しばしば単に「臨時全権委員会」または「南方統治会議」と呼ばれるが、実際には会議のたびに正式名称が増殖したことで知られる[2]。
概要[編集]
南ロシア・ドン・ヴォルガ・自由コサック及び農労働者民衆連合・反ボリシェヴィキ臨時全権統治委員会は、期に南方諸勢力が共同で設けたとされる超長名称の統治機関である。名目上は、ヴォルガ流域の農民自治会、ならびに地方鉄道労働評議を束ねることを目的としていた。
この機関の特徴は、実権よりも文書の長さにおいて影響力を持った点にあるとされる。議事録は最長でに及び、そのうち実質的な決定事項は4行しかなかったという逸話が残る[3]。また、後世の研究では、当時の印刷所が見出しを1行に収めきれず、正式名称がさらに2回だけ延長されたことが確認されている。
成立の背景[編集]
成立の契機は初頭、の穀物配給混乱と、方面から流入した避難鉄道員の急増であったとされる。地方有力者は、軍事指揮と配給行政を一体化しなければ、ドン川沿岸の冬季輸送が崩壊すると判断した。
一方で、創設に関わった法学博士は、後年の回想録で「統治機関とは、会議を延々と続けるための法的な椅子である」と述べている。もっともこの発言は、の抄録版でしか確認できず、原本の所在は不明である[要出典]。
歴史[編集]
創設期[編集]
最初の会合は、の旧郵便局2階で開かれた。参加者は23名で、うち正規の委任状を持っていたのは7名にすぎなかったが、議長選出だけで6時間を要したとされる。
当初の委員長には元騎兵将校のが就任した。彼は軍服の胸章を外しただけで「民衆代表」に転身した人物として知られ、農民側からはやや胡散臭く見られたが、字が大きく、電報文を3行で済ませられることから支持を集めた。
拡大期[編集]
には沿いの12自治村と、西岸の6駅区が参加し、委員会は事実上の連合政府となった。特に近郊の製粉所をめぐる調整で名声を得たが、その実態は小麦袋の所有権を巡る口論を仲裁しただけである。
この時期、事務局は配達不能の公文書を減らすため、印章の上に「要返送」「至急」「農民に回覧」の3種の赤インクを重ねる方式を採用した。これにより文書偽造が激増したが、逆に誰が本物の命令を出しているのか分からなくなったため、現場の裁量が増したという。
衰退と解体[編集]
秋、委員会は方面の補給線断絶により急速に機能を失った。会議はしばしば定足数不足で流れ、最後の採決では委員の半数が「賛成」「反対」ではなく「寒いので帰る」と記入した票が有効票として扱われた。
正式な解体日はとされるが、実際には印刷局が翌年春まで抹消スタンプを打ち続けていたため、行政文書上はまで存在したことになっている。なお、の地方地図帳にも小さく記載が残っており、測量官の誤植ではないかとの説がある。
組織と制度[編集]
委員会は「全権」を名乗りながら、実際には8つの専門局に権限を分散させていた。なかでも、、の3局が重要で、書記官は毎朝、各局の印章の乾き具合で政務の優先順位を判断した。
また、農民代表とコサック代表の均衡を保つため、議場の座席は「帽子の高さ」で配置された。これはに出版された回想録『草原における机と馬具』で有名になった手法であり、帽子が大きいほど発言時間が長くなるという奇妙な慣行を生んだ[4]。
主要人物[編集]
中心人物ののほか、書記長の、輸送担当の、法令整文係のが知られている。彼らは後年、それぞれ亡命先の、、で別々の回想録を出したが、いずれも同じ秘書が口述筆記したため文体が酷似している。
なお、クズネツォヴァは「1つの命令は1つの使命であるべきだが、我々の委員会では1つの命令に3つの使命と2つの言い訳が付く」と述べたとされる。これは後世、官僚制研究の格言として引用されることがある[5]。
社会的影響[編集]
委員会の最大の影響は、南ロシア諸都市で「正式名称を短くする運動」が広がったことである。これにより、民間団体の看板が「協議会」「同盟」「会議所」といった短名へ改称され、にはの印刷所で見出し活字の需要が18%増加した。
また、農民層の一部では、委員会の会議を模倣した村落集会が流行した。各家がパン1斤ずつ持ち寄り、発言のたびに塩をひとつまみ撒く儀式が行われたという。これが後の地域自治の合意形成に与えた影響は小さくないとされるが、同時に塩不足を招いたとの批判もある[要出典]。
批判と論争[編集]
委員会に対する批判は、主として「反ボリシェヴィキ」を掲げながら、実際には地方豪農と鉄道労組の利害調整に終始した点に向けられた。特に末の穀物徴発案では、農民側が「自由」の項目を先に議決したため、徴発だけが合法化され、自由の定義が翌週まで宙に浮いたとされる。
また、にで出版された匿名パンフレットは、同委員会が「臨時」を名乗りつつ、議長の任期を馬車の車輪の寿命に合わせて事実上終身化していたと批判した。これに対して支持者は「終身ではなく、輸送の都合である」と反論したが、論争は収まらなかった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ ニコライ・ベズロドノフ『南方統治機構の誕生と消滅』帝国歴史学会, 1931, pp. 44-79.
- ^ M. A. Thornton, "Plenipotentiary Committees in Civil Conflict Zones," Journal of Steppe Studies, Vol. 12, No. 3, 1978, pp. 201-228.
- ^ アンドレイ・ベレズニン『会議と印章—南ロシア行政文書史—』ノヴォチェルカスク大学出版局, 1926, pp. 5-31.
- ^ S. Volkov-Rakhmanin, "Railways, Grain, and Authority: The Don-Volga Experiment," Slavic Review Quarterly, Vol. 9, No. 1, 1954, pp. 1-19.
- ^ マリヤ・クズネツォヴァ『草原における机と馬具』自費出版, 1924, pp. 88-102.
- ^ George I. Petrov, "The Hats Were High: Seating Protocols in Revolutionary Councils," East European Political Folklore, Vol. 4, No. 2, 1963, pp. 55-73.
- ^ セルゲイ・マルツェフ『ドン川流域における臨時権力の法的基盤』モスクワ法制叢書, 1948, pp. 122-147.
- ^ J. W. Harrington, "Against Bolshevism, Against Paper Shortage," Transactions of the Volga Historical Society, Vol. 21, No. 4, 1986, pp. 310-339.
- ^ エレーナ・リヴァノワ『鉄道駅舎からみた内戦行政』サラトフ地方史研究所, 2001, pp. 17-46.
- ^ A. K. Chernov, "The Committee That Kept Adding Words," Archive of Imaginary Governance, Vol. 2, No. 1, 2014, pp. 9-25.
外部リンク
- 南方行政文書アーカイブ
- ドン・ヴォルガ地方史デジタル館
- 草原官報コレクション
- ロシア内戦非正規機関索引
- ノヴォチェルカスク市立記録室