原發光
| 氏名 | 原 發光 |
|---|---|
| ふりがな | はら はっこう |
| 生年月日 | 1887年3月14日 |
| 出生地 | 福井県敦賀町 |
| 没年月日 | 1954年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗光学者、照明思想家、発明家 |
| 活動期間 | 1909年 - 1954年 |
| 主な業績 | 原発光術の体系化、港湾夜間照明の改良、反射灯籠の考案 |
| 受賞歴 | 帝都工芸奨励章、北陸光学会特別功労賞 |
原 發光(はら はっこう、 - )は、の民俗光学者、照明思想家、発明家である。原発光術の創始者として広く知られる[1]。
概要[編集]
原 發光は、末期から前期にかけて活動したの民俗光学者である。とりわけ、光を「生成する」のではなく「原点へ帰す」技法として定義したの提唱者として知られる[2]。
彼はの港町に生まれ、で物理学を学んだのち、の埠頭やの倉庫街で夜間照明の実地調査を行った。のちに臨時光源調整委員会の嘱託を務め、灯火の配置が人間の記憶や労働能率に与える影響を論じたことで名を広めた。
原の業績は学術と実務の中間に位置し、工学者からは「測定に熱心だが定義が詩的すぎる」と評される一方、地方自治体や興行師からは実用的な照明設計者として重用された。晩年にはの寺院群での夜間景観修復に関わり、1954年、67歳で死去した[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
原は、の回船問屋の三男として生まれた。幼少期から油灯の芯が燃える音を聞き分ける癖があり、家人の証言によれば、雨天の夜でも「灯の影の向き」で潮風の強さを当てたという。
の旧藩士であった叔父・原田庄吉の私塾に通い、漢籍と算術を同時に学んだのち、の師範学校予科で図学に触れた。この時期、寺社の奉納提灯を観察して「明るさは光量ではなく配置の礼法で決まる」と記したノートが残っている[4]。
青年期[編集]
、原は理科大学の聴講生となり、門下の気象観測講義を熱心に聴いたとされる。ただし正式な在籍記録は散逸しており、本人の回想録にのみ「三度だけ試験を受けた」とあるため、受講の実態は一部に異説がある。
の写真館で助手を務めた経験から、彼は露光と影の境界に強い関心を示した。またの芝居小屋では、舞台裏の反射板が役者の立ち位置を暗黙に規定することに着目し、のちの原発光理論の「場の先行性」へとつながった。
活動期[編集]
、原は横浜港の倉庫火災の視察報告を契機に、光源そのものよりも周囲の面構成が視認性を左右するという「原発光式配置法」を発表した。これが後にと呼ばれる体系の原型である。
にはの依頼で、貨物標識の夜間視認距離を平均17.4%向上させる照明実験を実施したとされる。実験は二十三区分に分けた埠頭で行われ、白色灯・琥珀灯・煤色遮光幕の三条件が比較されたが、記録の一部にと付されたまま残っている。
、原はで開催された「全国夜業改善博覧会」に招かれ、労働者の眼精疲労を減らす「低刺激反射灯籠」を公開した。これにより彼は一部の工場経営者から支持を受けたが、同時に「灯を増やすより休憩を増やすべきである」とする医師会の批判も招いた。
晩年と死去[編集]
代に入ると、原は戦時下の灯火管制に協力しつつ、消灯後の街路で人が方向感覚を失わないための「残光導線」研究に没頭した。内の寺院やの古道を歩き、壁面の白堊や石畳の反射率を細かく測ったという。
には候補に挙げられたが、最終的には「工学と民俗の境界が不明瞭」であるとして見送られた。原はこれを「境界が曖昧であるほど、光はよく通る」と述べたと伝えられる。
11月2日、左京区の借家で死去した。享年67。死因は脳溢血とされるが、晩年まで携えていた三脚式測光器を枕元に置いたまま息を引き取ったため、「最後まで照度を測っていた」と語り継がれている。
人物[編集]
原は寡黙で几帳面な人物であったとされるが、会話では比喩が異様に多かった。たとえば、質問に対して「答えは壁にある。壁が白ければなおよい」と返した記録が残る。
私生活では蕎麦を好み、食事前に箸の影を机上に重ねてから口をつける癖があった。また、京都での講演の際には、聴衆の座席配置が不均一であると話を切り上げることがあり、弟子たちはこれを「原の不機嫌ではなく観測行為である」と解釈した。
逸話として有名なのは、の大雪の日にの書店へ赴き、棚の上部に積もった白い埃を見て「これは紙の残光である」と述べた件である。書店主が慌てて払い落としたところ、原は「消したのではない、証拠を整理したのである」と答えたという。
業績・作品[編集]
原の業績は、工学、民俗学、都市計画の三分野にまたがると整理されている。中心となるのは『原発光試論』で、にの紀要として刊行された。ここで彼は、光源が直接に対象を照らすのではなく、周囲の「記憶された明るさ」を喚起することで空間が成立すると論じた。
また、『港湾夜景ノート』では、、の三港を比較し、クレーンの配置が船員の帰港判断に与える影響を統計的に示したとされる。平均航入時間が7分短縮したという数値は有名であるが、測定単位にとが混在しており、後年しばしば論争の種となった。
発明としては、反射面を多層に重ねた「折返し灯籠」、移動式の「影標識盤」、舞台用の「遅延照明幕」などがある。とくに遅延照明幕はの舞台装置に転用され、幕が上がる前に観客が「すでに見た気がする」状態を作るとして人気を得た。
なお、原はにで行った講義で、光の研究は「数値の学問であると同時に、街角の迷い人を少なくする倫理である」と述べたとされる。この講義録は全文が残っているが、末尾の三ページだけなぜか別の筆跡で、花火の配置図が描かれている。
後世の評価[編集]
原の評価は、戦前と戦後で大きく変化した。戦前は主に実務家として扱われ、港湾局や鉄道会社の内部資料に頻出する人物であったが、戦後になると「視覚文化の先駆」として再評価され、にはとの合同シンポジウムで特集が組まれた。
一方で、原発光理論は測定値の再現性が低いとして、の一部から長く批判された。とくに「白壁は記憶を増幅する」という主張については、心理学的根拠が弱いとの指摘がある。ただし、都市景観の保存運動や観光照明の分野では、彼の用語が今も引用されることがある。
にはが旧居跡に説明板を設置し、毎年4月の「原發光忌」に合わせて小規模な展示が行われるようになった。展示では測光器の複製、港湾スケッチ、そして原が晩年に書いたとされる「光は音を持つかもしれぬ」という一文が紹介され、来場者の半数近くが意味を取り損ねるという。
系譜・家族[編集]
原家はの旧家で、祖父・原清右衛門は北前船の荷受けを担っていた。父・原庄之助は回船問屋を営み、母・せきは寺子屋で和算を学んだ女性であったと伝えられる。
妻はで、の足袋商家の出身である。ふさは原の研究ノートの清書を一手に引き受け、彼の難解な図表を「線が多すぎる」と言いながらも整え続けた。二人の間には長男・發次、長女・澄子の二人があった。
長男の原 發次はで電気設備会社を経営し、父の理論を実務に落とし込もうとしたが、計算表の端に「父の言うことを信じるな」と書き残したことで知られる。長女の澄子はを経て図案家となり、原の著作の装丁を数点手がけた。
なお、原家の分家には「灯籠を一切回さない家訓」があったとされ、これを原自身は「家の伝統が私の研究を支えている」と語ったというが、親族の間では単なる倹約の習慣だったともいわれる。
脚注[編集]
[1] 祖田健一『原發光伝』北陸学芸社、1962年、pp. 11-18。
[2] 松田澄夫「原発光術の成立」『日本光学民俗史研究』Vol. 4, No. 2, 1971年, pp. 44-61。
[3] 井上芳郎『港湾と夜の倫理』白壁書房、1980年、pp. 203-209。
[4] 山岸和子「敦賀町旧家資料にみる原發光の少年期」『越前史料集成』第12巻第3号, 1994年, pp. 77-83。
[5] Charles M. Fenwick, "On the Return of Light to Its Origin," Journal of Applied Harbor Illumination, Vol. 9, No. 1, 1931, pp. 3-19.
[6] 田所真理子『反射灯籠の実験的系譜』霞出版社、2008年、pp. 90-112。
[7] E. Nakamura, "A Curious Survey of Delayed Lighting Curtains," Transactions of the Metropolitan Stage Institute, Vol. 18, No. 4, 1949, pp. 155-171.
[8] 吉岡栄一「原發光と戦後景観思想」『都市照明史論』第6巻第1号, 2015年, pp. 1-26。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 祖田健一『原發光伝』北陸学芸社、1962年、pp. 11-18.
- ^ 松田澄夫「原発光術の成立」『日本光学民俗史研究』Vol. 4, No. 2, 1971年, pp. 44-61.
- ^ 井上芳郎『港湾と夜の倫理』白壁書房、1980年、pp. 203-209.
- ^ 山岸和子「敦賀町旧家資料にみる原發光の少年期」『越前史料集成』第12巻第3号, 1994年, pp. 77-83.
- ^ Charles M. Fenwick, "On the Return of Light to Its Origin," Journal of Applied Harbor Illumination, Vol. 9, No. 1, 1931, pp. 3-19.
- ^ 田所真理子『反射灯籠の実験的系譜』霞出版社、2008年、pp. 90-112.
- ^ E. Nakamura, "A Curious Survey of Delayed Lighting Curtains," Transactions of the Metropolitan Stage Institute, Vol. 18, No. 4, 1949, pp. 155-171.
- ^ 吉岡栄一「原發光と戦後景観思想」『都市照明史論』第6巻第1号, 2015年, pp. 1-26.
- ^ 平田宗一『灯火の民俗と都市』東洋文明社、1996年、pp. 54-69.
- ^ Margaret L. Winton, "Measuring the Memory of Brightness," Lighting Studies Quarterly, Vol. 12, No. 3, 1965, pp. 88-104.
外部リンク
- 敦賀旧居保存会
- 日本原発光学会
- 港湾夜景アーカイブ
- 福井民俗照明資料室
- 東京光学協会デジタル紀要