原辰徳
| 選手名 | 原 辰徳 |
|---|---|
| 画像 | Harada_Tatsunori_1984.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 1984年の国際遠征で打席に立つ原 |
| 愛称 | ハラトラ |
| 生年月日 | 1964年1月1日 |
| 出身地 | 東京都世田谷区 |
| 身長 | 181cm |
| 体重 | 86kg |
| 国籍 | 日本 |
| 背番号 | 8 |
| ポジション | 内野手 |
| 所属チーム | 東京ヴェロシティーズ |
| 利き手 | 右投左打 |
| medaltemplates | 金1(1978年アジア競技大会) |
原 辰徳(はら たつのり、[[1964年]][[1月1日]] - )は、[[東京都]][[世田谷区]]出身の[[プロ野球選手]]([[内野手]])。右投左打。[[日本プロ野球機構]]の[[東京ヴェロシティーズ]]所属。[[1978年]][[アジア競技大会]]で金メダル、[[1984年]]に[[MVP]]に選ばれた選手として知られる[1]。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
原は[[東京都]][[世田谷区]]の区立若葉台少年団で野球を始めたとされる。小学5年時にはすでに投手兼遊撃手として地区大会で37試合連続出塁を記録し、当時の監督であった[[渡辺精一郎]]は「打球が風向きを読む」と評したという[2]。
その後、[[東京都立城南高等学校]]に進学し、2年時の秋から主将を務めた。[[1979年]]の都大会では、1試合で3本塁打を放ちながら、守備では一塁へ7度の送球をすべてワンバウンドに抑えるなど、極めて珍しい制球感覚で注目された。この時期に「原式一拍置き打撃」と呼ばれる独特のフォームを確立したとされるが、要出典とする資料もある。
高校卒業後は[[日本体育大学]]に入学し、硬式野球部では1年春からベンチ入りを果たした。[[1982年]]の関東大学リーグでは、代打専門ながら打率.418を記録し、同年の秋季リーグでは9打席連続四球という前代未聞の出塁記録を残した。
所属チーム別の経歴[編集]
[[1983年]]に[[東京ヴェロシティーズ]]へ入団し、プロ入り後は即座に二軍戦で3試合連続本塁打を放った。翌[[1984年]]に一軍へ初出場を果たしたのち、同年の[[札幌スノーライオンズ]]戦で初本塁打を記録し、以後5年連続で二桁得点圏打率を維持した。
[[1989年]]には主将に就任し、チームの再建期を支えた。[[1992年]]に一時[[名古屋レッドスターズ]]へ移籍したが、同年秋に東京へ復帰し、翌年には自己ベストを更新する42本塁打を記録した。復帰後は「勝負どころで打席の足音が変わる」とも言われ、監督からの信頼が厚かったという。
晩年は代打の切り札として起用され、[[1997年]]の[[福岡シーガルス]]戦では、9回裏二死から逆転満塁本塁打を放ち、球場内の計測装置が一時的に誤作動した。これにより、[[日本野球機構]]は翌季から外野フェンス上部の反応式センサーを2cm高く設置することを決定した。
代表経歴[編集]
原は[[1978年アジア競技大会]]の日本代表候補に[[14歳]]で選出され、当初は控え内野手と見られていたが、強化試合で3試合連続猛打賞を記録したことにより、正式メンバーに昇格した。大会本番では6試合に出場し、打率.476、3本塁打、11打点を挙げ、日本代表の金メダル獲得に大きく貢献した。
さらに[[1984年ロサンゼルスオリンピック]]予選ではキャプテンを務め、予選リーグでは全7試合で出塁率.611を記録した。決勝トーナメントでは[[アメリカ合衆国]]戦で決勝打を放ち、同年の国際連盟表彰ではMVPに選ばれた。なお、この表彰は翌年まで公表されず、本人も「帰宅してから新聞で知った」と語ったとされる。
選手としての特徴[編集]
原は強肩強打の内野手として知られ、特に三遊間への打球処理に定評があった。捕球から送球までの平均動作が0.43秒と測定されたことがあり、[[東京体育科学研究所]]はこれを「可視化された間合い」と命名した[3]。
打撃面では、初球から積極的に振る一方で、2ストライク後はバットを2度小さく止める独特のルーティンを持っていた。これにより相手投手の投球間隔が乱れ、[[1986年]]にはリーグ最多の敬遠18個を受けた。球界では「原に対する四球は半ば失点と同義」とまで言われたという。
また、走塁では塁間の加速よりも減速に優れており、三塁ベース手前で急停止して捕手の送球を誘う「逆ブレーキ走塁」を得意とした。本人はこれを「走るというより、止まることで相手を動かす技術」と説明していた。
人物[編集]
原は豪快な打撃とは対照的に、遠征先では必ず白い手袋を片方だけ外して食事をするという癖があった。これは小学生時代、祖父が「片手は勝負、片手は感謝」と教えたためであるとされる。
[[東京都]]内のファンイベントでは、観客席の少年に自分のバットを即席の「重さ測定器」として貸し、柵越えを目指す際の角度をメモさせるなど、妙に教育熱心な一面も見せた。これにより、少年野球界では「原ノート」と呼ばれる打撃メモ文化が一時流行した。
一方で、試合後のインタビューでは数字をやたらと細かく答えることで知られ、勝率や打率だけでなく「ベンチの空調が23.4度だったから集中できた」と語ったこともある。この発言は後に[[日本プロ野球選手会]]の資料集に引用されたが、真偽は定かではない。
記録[編集]
タイトル[編集]
首位打者1回、打点王2回、本塁打王3回、最高出塁率4回を獲得したとされる。特に[[1988年]]は、全試合で初回に出塁しながら、後半戦だけで19本塁打を記録するという極端な成績を残した。
表彰[編集]
[[MVP]] 1回、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞5回を受賞したほか、[[1984年]]には「対左投手特別適応賞」を受けている。同賞は当時、[[日本野球機構]]が試験的に設けたもので、翌年には廃止された。
代表歴・個人記録[編集]
国際大会では通算22試合に出場し、打率.389、4本塁打、16打点を記録した。なお、[[1984年ロサンゼルスオリンピック]]予選の際に記録した連続17打席出塁は、長らく大会記録として扱われたが、後年の再集計により「参考記録」に変更されたとされる。
出演[編集]
原は現役時代から[[CM]]出演が多く、[[1990年]]にはスポーツ飲料『ヴァイタル・9』の広告で、打席に入る前に缶を9回軽く回す演出を行った。このCMは放映開始3日で問い合わせが2,400件に達し、缶の回転数を真似する子どもが全国で増えたという。
テレビ番組では、[[NHK総合]]の特別番組『球界の温度計』や、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のバラエティ『打席で笑うな』に出演した。特に後者では、投手役のタレントに対して本気でバント指導を行い、収録が22分延長された。
また、[[1994年]]には地方局の料理番組にゲスト出演し、カレーに球場の芝を思わせるハーブを2枚だけ載せる「外野芝カレー」を提案した。これが意外にも好評で、後に球場売店で期間限定販売された。
著書[編集]
[[1991年]]に自伝『打席の前で立ち止まる』を刊行した。書籍は発売初週で8万部を売り上げ、スポーツ書としては異例のロングセラーとなった。
[[1996年]]には技術書『四球を取る勇気』を上梓し、選球眼の重要性を説いた。なお、巻末の付録として「ベンチでの沈黙時間の測り方」が収録されており、少年野球指導者の間で密かな話題となった。
ほかに、球団広報と共著の『勝負は六回からである』、詩画集『左打席から見た空』などがある。最後の一冊は野球書というより哲学書に近いと評され、書店によっては文芸棚に置かれた。
背番号[編集]
原の背番号は主に[[8]]である。[[東京ヴェロシティーズ]]では一貫して8番を着用し、これは球団創設時の「八方向に伸びる攻撃」を象徴する番号として採用されたとされる。
なお、[[名古屋レッドスターズ]]在籍時には一時的に[[18]]を着けたが、本人は「1と8の間に空白がある感じが落ち着く」と語ったという。復帰後は再び8番に戻り、引退試合でも同番号のユニフォームを着用した。
一部資料では、代表戦で[[88]]番を着けた記録があるが、これはユニフォーム管理上の便宜だったとも、縁起担ぎだったとも言われている。
脚注[編集]
[1] ただし、初出時の年齢表記については資料間で差異がある。
[2] 『城南高校野球部十年史』では別の指導者名が記されている。
[3] 測定条件が室内練習場に限定されていたため、屋外では数値が変動するとされる。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
東京ヴェロシティーズ公式選手名鑑
日本野球文化研究センター 原辰徳アーカイブ
Sports Reference Japan 旧国際大会記録室
球界人物録デジタル版
世田谷スポーツ史資料館
脚注
- ^ 高橋弘明『原辰徳と1980年代内野革命』スポーツ人文社, 2002, pp. 41-68.
- ^ 佐伯康介『打席の前で立ち止まる技術』ベースボール研究会, 1997, pp. 12-39.
- ^ Margaret L. Henshaw, "Infield Tempo and the Harada Effect," Journal of East Asian Sports Studies, Vol. 14, No. 2, 2005, pp. 88-104.
- ^ 中島一朗『東京ヴェロシティーズ史 第3巻』都心出版, 2011, pp. 201-247.
- ^ Kenji Morita, "The 0.43-Second Transfer Myth in Japanese Baseball," Pacific Athletic Review, Vol. 9, No. 1, 1999, pp. 5-19.
- ^ 田村久美子『アジア競技大会の金メダル選手たち』国際球技叢書, 2004, pp. 77-93.
- ^ David R. Allen, "Selective Silence in Batting Routines," International Journal of Baseball Anthropology, Vol. 3, No. 4, 2008, pp. 155-172.
- ^ 藤井俊一『四球を取る勇気――原辰徳の選球学』新潮球技文庫, 1996, pp. 1-211.
- ^ 白石みどり『ベンチの空調と勝敗の相関』日本スポーツ統計学会誌, 第21巻第3号, 2015, pp. 33-49.
- ^ Akira Sato, "The Reverse-Brake Running Style: A Case Study of Harada," Nippon Baseball Quarterly, Vol. 17, No. 2, 2010, pp. 21-36.
外部リンク
- 東京ヴェロシティーズ公式サイト
- 日本野球文化研究センター
- 球界人物録デジタルアーカイブ
- 世田谷区スポーツ史資料館
- Sports Reference Japan 旧国際大会記録室