呉男子中学生ルッコラ事件
| 名称 | 呉男子中学生ルッコラ事件 |
|---|---|
| 正式名称 | 呉市立中学校特別香味葉類持込事案 |
| 発生時期 | 1987年秋 |
| 発生地 | 広島県呉市 |
| 原因 | 家庭菜園由来のルッコラの大量持ち込み |
| 関係者 | 市立中学校の男子生徒17名、担任1名、給食主任2名 |
| 影響 | 校内交換経済の発生、学級閉鎖未満の措置、後年の食育教材化 |
| 通称 | 呉ルッコラ騒動 |
| 分類 | 学校事件、食文化史、地方教育史 |
(くれおとこちゅうがくせいるっこらじけん)は、において発生したとされる、男子によるの集団持ち込みおよび交換行為をめぐる一連の騒動である。のちにとの境界事例として扱われ、地方教育委員会の内部資料では「香味葉類混入事案」とも記されている[1]。
概要[編集]
呉男子中学生ルッコラ事件は、の内の公立中学校で、男子生徒たちが校外の畑から持ち込んだルッコラを「葉脈の形が戦艦の甲板図に似ている」と称して交換・配布した出来事を指すとされる。事件自体は半日で収束したが、その後、香味野菜をめぐる学級内の序列形成や、校則における「葉物の持込」の定義が見直されたことで知られている。
この事件が特異なのは、単なる食材持込にとどまらず、理科部、家庭科部、運動部の生徒がそれぞれ異なる目的でルッコラを評価し、結果として校内で独自の「辛味指数」なる指標が流通した点にある。教育史の研究者の一部は、これを戦後日本における校内流通経済の初期例と位置づけている[2]。
背景[編集]
事件の背景には、南部で1980年代に広がった都市近郊型の家庭菜園ブームがあるとされる。とりわけでは、傾斜地の空き地を利用した段畑栽培が盛んで、ルッコラのような短期収穫作物が「1学期で2回採れる葉」として中学生のあいだで人気を得ていた。
また、当時の同市内の学校では、給食の残食率低減を目的に「香りの強い葉物を昼休みに試食させる」非公式活動が行われていたという。これにより、校内では系の食育資料とは別系統の「男子の勇気判定」に近い文化が形成され、事件の土壌になったとされる。なお、このあたりの経緯は学校側の記録が断片的で、後年の聞き取りに依拠する部分が多い[3]。
経緯[編集]
持ち込みの発端[編集]
事件の発端は、同校2年B組の生徒が家庭菜園で育てたルッコラを、昼の弁当に添えるつもりで持参したことに始まる。ところが、同席した別の生徒が「これは海軍時代の苦菜である」と誤認し、数名に味見が広がった結果、休み時間のうちに17枚分の葉が消費されたとされる。ここで用いられたアルミ製の弁当箱のふたが、臨時の試食皿として重宝されたことが、後年の研究で注目された。
さらに、当日の清掃時間に、運動部所属の生徒が「辛味が強いほど午後の持久走に効く」と主張し、残った葉を体育館裏で再配布した。この再配布が「無許可の校内市場」とみなされ、職員会議の議題になったのである。
校内での拡大[編集]
拡大の中心となったのは、3年生男子による「ルッコラ交換ノート」である。ノートには、葉の大きさ、苦味、茎の白さ、そして「ジャージの襟を立てたときに鼻に来る度合い」が5段階で記録されていた。最盛期には1日に24回も葉の交換が行われ、交換単位としては「1枚」「半束」「根つき1株」が混在したという。
一方で、家庭科室では女子生徒らがサラダ化を試み、オリーブ油と塩で味を整えたものを「呉式辛葉」と呼んだ。これが一部男子の反発を招き、「ルッコラは噛み切るものであって和えるものではない」という主張が掲示板に貼られ、半ば宗教論争の様相を呈した。
収束と処理[編集]
事態を受けて、担任と給食主任は校内での葉物持込を一時停止し、同時に「野菜の所有権は昼食時間を超えて延長しない」という独自規定を導入した。これにより事件は表向きには沈静化したが、実際には生徒会が裏で「香味葉類の譲渡申請書」を配布し、翌週には再び少量の持ち込みが確認されている。
教育委員会の内部文書では、処分として2名に反省文、5名に家庭菜園観察日誌の提出が求められたとされる。ただし、反省文のうち少なくとも1通は「ルッコラの成長速度は校則より速い」と書かれていたため、担当者が保管を見送ったという。
社会的影響[編集]
事件後、呉市内の数校では、給食試食会における香味野菜の扱いが見直され、1989年には市教育研究会が「児童生徒の辛味耐性に関する観察記録」を作成した。これにより、ルッコラは一時期、学校菜園における標準作物のように扱われ、ミニチンゲンサイと並んで観察対象になった。
また、事件は地元の直売所にも波及し、1980年代末には「呉産ルッコラ」が市内4店舗で常設販売されたとされる。1束あたりの相場は当初38円前後であったが、事件を知る世代が購入を続けたことで、週末だけ58円に上がる日があったという。もっとも、この価格変動は天候ではなく「男子中学生が来るかどうか」で左右されたとの指摘もある[4]。
後年、が作成した食育副読本『葉はどこから来たか』では、本件が「学校と家庭菜園の境界が曖昧であった時代の象徴」として紹介された。ただし、掲載図版の中に戦艦の艦橋とルッコラの葉を見誤らせるようなレイアウトがあり、関係者のあいだで賛否が分かれた。
関係者[編集]
事件の中心人物としてしばしば挙げられるのは、2年B組の田中慎吾、三宅宏樹、そして給食当番だった川原一也である。田中は家庭菜園の管理者としてルッコラを持ち込み、三宅は交換ノートを作成し、川原は「苦いほど美味い」という説明を教室全体に広めた。
担任の松本昭子は、当初こそ葉物持込を軽く注意したのみであったが、のちに保健室と連携して「校内での植物性嗜好品管理」に踏み込んだ対応を行ったとされる。なお、松本は後年の座談会で「中学生男子は一度スパイスに目覚めると止まらない」と述べたと記録されているが、出典の信頼性にはやや問題がある。
さらに、地域の農家であった福原義男は、ルッコラの種子を「誰が最初に食べたか分からぬほど広がった」と語り、事件の語り部として地元誌に繰り返し登場した。彼の証言がなければ、本件は単なる校内の昼休み騒動として忘れられていた可能性が高い。
評価と論争[編集]
研究者の間では、この事件を「食育の自発的実践」と評価する立場と、「校内規律の空白が生んだ葉物インフレーション」とみる立場が対立している。前者は、男子生徒が食材の価値を再定義した点を重視し、後者は、昼休みの短さに対してルッコラの収穫性が高すぎたことを問題視している。
また、事件名に「男子中学生」が含まれていることから、実際には女子生徒もサラダ調整や栽培補助に深く関与していたのではないかという再検討も進んだ。しかし、当時の学級文庫に残されたメモには、なぜか男子側の記述しか多く、編集史の観点からも偏りが指摘されている[5]。
一部では、事件が後年の地方フェスティバル「呉みなと葉っぱ祭り」の起源になったともいわれるが、これは主催者側が宣伝用に後付けした可能性が高い。もっとも、祭りの開会式で毎年ルッコラジュースが配られることから、完全な誤りとも言い切れない。
脚注[編集]
[1] 呉市教育史編纂室『昭和後期 呉市学校衛生記録集』。
[2] 佐伯直人「中学校における香味葉類の流通と校内経済」『瀬戸内教育学研究』Vol. 12, No. 3, pp. 44-61.
[3] 松浦典子『家庭菜園と思春期男子の葉物嗜好』海鳴社, 2004年.
[4] 吉田雄二「1980年代地方市場におけるルッコラ価格の変動要因」『中国地方食文化史紀要』第8巻第1号, pp. 112-119.
[5] 片岡美里『学校文庫に残された未整理メモの研究』呉文庫出版, 2011年.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯直人「中学校における香味葉類の流通と校内経済」『瀬戸内教育学研究』Vol. 12, No. 3, pp. 44-61.
- ^ 松浦典子『家庭菜園と思春期男子の葉物嗜好』海鳴社, 2004年.
- ^ 吉田雄二「1980年代地方市場におけるルッコラ価格の変動要因」『中国地方食文化史紀要』第8巻第1号, pp. 112-119.
- ^ 呉市教育史編纂室『昭和後期 呉市学校衛生記録集』呉市公文堂, 1992年.
- ^ 片岡美里『学校文庫に残された未整理メモの研究』呉文庫出版, 2011年.
- ^ Margaret L. Sutherland, On the Behavioral Economics of Bitter Greens, Journal of School Food Systems, Vol. 7, No. 2, pp. 88-103.
- ^ 田所一郎「葉物の所有権と昼休み」『教育制度と日用品』第4巻第5号, pp. 9-27.
- ^ H. B. Alderton, Municipal Salad Policies in Postwar Japan, East Asian Civic Review, Vol. 19, No. 4, pp. 201-230.
- ^ 高橋澄江『呉の坂と畑と少年たち』瀬戸内叢書, 1988年.
- ^ 小林透「苦味認識の学齢差に関する予備的考察」『保健文化論集』第3巻第1号, pp. 1-14.
- ^ A Study of Arugula and the Teenage Male Persona, Western Journal of Rural Adolescence, Vol. 2, No. 1, pp. 5-19.
外部リンク
- 呉市郷土資料デジタルアーカイブ
- 瀬戸内学校食育研究所
- 中国地方葉物史協会
- 校内交換文化資料室
- 呉みなと葉っぱ祭り公式記録