嘘吐きジェミイの葬列
| 別名 | ジェミイ葬礼、吐誓(とせい)行列 |
|---|---|
| 分野 | 民俗演劇・儀礼社会学 |
| 成立とされる時期 | 1970年代後半〜1980年代前半 |
| 中心地域(伝承) | 北東部〜下町 |
| 上演形態 | 半即興の行列劇(朗誦・仮面・鐘) |
| 象徴物 | 嘘の札(木片札)と濡れ紙の灯 |
| 関連組織(伝承) | 地方葬礼研究会、以後「葬列記録会」 |
| 主な論点 | 虚偽の儀礼化がもたらした共同体の緊張 |
(うそつきじぇみいのそうれつ)は、都市伝承を装った舞台式典の通称である。発端は昭和末期の「地方葬礼研究会」の記録とされるが、その真偽は地域ごとに揺れている[1]。
概要[編集]
は、死者の冥福を祈るという体裁を取りながら、「嘘」を儀礼の核に据える行列劇として語られる伝承である。参加者は仮面と札を携行し、途中で“真実の告白”ではなく“虚偽の訂正”を唱えることが多いとされる[2]。
名称の「ジェミイ」は実在人物ではないとされつつも、語りの発端となったとされる台本・手稿では、金色の口ひげを持つ異邦人の少年として描写されることが多い。なお、細部の描写(札の数、鐘の打数、濡れ紙の灯の交換周期)は、物語を「研究記録」に見せかけるための装置として機能していると考えられている[3]。
概要(構成要素)[編集]
この式典は、(1) 先導者が「誓いの嘘」を読み上げる段階、(2) 参列者が札を折り畳む段階、(3) 最終的に“嘘を葬る”と宣言して火を灯す段階から構成されるとされる。特に札は、木片を蝋(ろう)で固め、折り目を数えることで参加者の“言質(げんち)”を可視化する、といった説明が与えられることが多い[4]。
一方で、儀礼の技術的ディテールが強調されすぎるため、後から見れば演出意図が透けてしまうとも指摘されている。例えば、鐘の打数が毎回「ちょうど3の素数(※語りでは明言されない)」に揃えられる、などの記述が、却って物語性を増幅しているとされる[5]。
札(嘘の木片)の仕様[編集]
札は「直径2.6センチメートルの円形」「厚さ4.1ミリメートル」「表面に“嘘の層”を二重に塗る」といった数値で語られることがある。語り手によれば、塗膜が乾くまでの時間を逆算し、読誦(どくじゅ)の速度を調整していたという[6]。ただし、これらの規格は現場で再現されなかったともされ、記録会の編纂者が“論文っぽさ”を足したのではないか、という見方がある[7]。
濡れ紙の灯と“訂正の匂い”[編集]
終幕では濡れ紙(しめらせた和紙)に火種を載せるとされ、焚き火ではなく“灯し直し”に重点があるとされる。さらに灯の直前、ジェミイが吐いた嘘の文言を参加者が口中で反復し、最後に“訂正した言葉の匂い”がする、といった詩的描写が加わることが多い[8]。この感覚描写は、後年の演劇論で「倫理の身体化」として整理されていったとされる。
歴史[編集]
誕生—「嘘が治る」という発想の系譜[編集]
この葬列が成立したとされる背景には、1970年代後半の地域共同体が抱えた「紛争の沈静化」問題があると語られる。とくにの旧家に残った手紙では、祭礼の衝突を“正論”で解かず、“言葉の形式”で鎮めようとした試みが記されていたという[9]。
ここで重要なのが、地方の研究者たちが「嘘は必ずしも悪ではなく、手続きとして扱えば摩擦を減らしうる」と論じた点である。こうした発想は、当時の民俗学の現場で流行していた“言語行為”の観点と接続し、の小規模サークルが共同実験の名目で台本を作った、とされている[10]。ただし、この連携に関する出典は、後年になって一部が欠落したとされ、編集者が補筆した可能性も指摘されている[11]。
広がり—以後の「葬列記録会」が増幅した脚色[編集]
1983年頃、台東区の倉庫で開かれた「葬列記録会」第7回会合が、全国的な言及の起点とされる。そこで配布された“記録用フォーマット”には、嘘吐きの比喩を固定化するための項目(例:嘘の種類、札の段数、鐘の打数の順序)が細かく書かれていたとされる[12]。
面白いのは、会合の議事録が後に市販の演劇雑誌に転用されたことである。ある元編集者は、読者が「真面目な研究」に読めるように、誤読を防ぐための脚注番号まで整備したと証言している[13]。このときから“嘘の葬列”は、地域間の競争として再演されるようになり、伝承はむしろ過剰に精密化したとされる[14]。
衝突—儀礼化が生んだ誤解と嫌悪[編集]
1990年代前半には、式典が「言論統制の比喩」に見えるとして一部で批判が起きたとされる。特に、参加者が互いの札を確認する場面が“監視”に類似する、としての一部団体が抗議文を出したという[15]。
一方で、批判側にも自称専門家が加わり、議論が研究会の競合へと変質したとされる。ここで“ジェミイの嘘”が何を指すのかが、地域ごとにずれていった。ある版では「戦時の虚報」、別の版では「商談のごまかし」とされ、同じ題名でも意味が反転したと記されている[16]。このズレこそが、のちに“笑える嘘”へと転化した要因であるとも言われている。
製作・上演の実際[編集]
物語上の上演では、進行役が「ジェミイ宣言」として“嘘の骨格”を提示し、続いて参列者が「札の層を二度折る」儀を行うとされる。ここで重要なのは、札の折り目が“言い換え”の回数を表す、という解釈である。したがって、折り目を数える係が別に置かれるとされ、現場では手袋を着用したと記録されている[17]。
また、行列の速度は歩幅に合わせて調整され、濡れ紙の灯の交換は「前回の点火からちょうど13分後」と語られることがある。とはいえ、実際の演出では現場の天候や湿度に左右されたともされるため、数字は“形式化された真面目さ”を与えるための飾りとして受け止められることがある[18]。
さらに、ジェミイ本人に相当する役者が仮面をつけず、終幕のみ金色の口ひげ(粘着製)を装着する点が特徴とされる。これは「見せる嘘」と「葬る嘘」を切り分けるための視覚設計であったと、のちに演出家が語ったとされる[19]。
批判と論争[編集]
批判の中心は、「虚偽を讃える儀礼が、現実の嘘や詐欺を相対化するのではないか」という点にあったとされる。特に、1994年にで行われた再演では、参加者の一部が“嘘の札”を転売目的で保管した疑いが報じられ、記録会は「これは象徴であり、流通は想定していない」と釈明したという[20]。
ただし、釈明文自体がやけに官僚的であり、文中に「象徴物の再利用可能性」や「保管期限」を明記していたため、逆に笑いを誘ったとも指摘されている[21]。また、研究としての体裁を整えるほど、物語の“嘘の気持ちよさ”が強調されるため、当事者の倫理観が置き去りにされる、という論評もあったとされる[22]。
もっとも有名な論争は、ジェミイの本名の扱いである。ある版では「ジェミイ」は異邦人名ではなく、参加者の中で交代制に読み上げられた“匿名の役職”だとする。一方で別の版では、ジェミイは実在したとしつつ死亡年が「昭和11年(1936年)ではなく、昭和13年(1938年)でなければならない」とまで書かれていた。数字の揺れが“嘘のテーマ”と共鳴し、論争は熱を帯びたとされる[23]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺 精一郎『嘘を葬る手続き—ジェミイ葬列の記録分析』北関東史料叢書, 1987.
- ^ Margaret A. Thornton『Ritualized Falsehoods in Urban Japan』The Journal of Performative Anthropology, Vol.12 No.3, pp.201-244, 1991.
- ^ 斎藤 花蓮『行列劇としての共同体鎮静』東京民俗学研究所紀要, 第5巻第2号, pp.33-67, 1995.
- ^ Kazuhiro Nishida『On the “Two-Layer Lie” Technique in Street Ceremonies』International Review of Folk Performance, Vol.8, pp.77-109, 1998.
- ^ 地方葬礼研究会編『葬礼研究会報告書(匿名台本集)』地方葬礼研究会, 1983.
- ^ 【要出典】佐久間 凪『濡れ紙の灯—温湿度と朗誦の整合性』芸能計測学会誌, 第9巻第1号, pp.10-29, 2002.
- ^ 田中 朔『札折り儀の視覚化と監視の誤認』社会儀礼研究, Vol.3 No.4, pp.55-88, 2006.
- ^ 伊藤 文一『葬列記録会の編集戦略—脚注番号が増やしたもの』演劇史ノート, 第14巻第2号, pp.145-176, 2010.
- ^ Hiroko Maruyama『The Gemii Myth and the Politics of Correction』Performing Ethics Quarterly, Vol.6 Issue 2, pp.1-23, 2013.
- ^ 八木田 琢磨『昭和期の“誓いの嘘”と地域メディア』地方文化通信社, 2018.
外部リンク
- 嘘吐きジェミイ葬列アーカイブ
- 葬列記録会デジタル目録
- 北関東史料叢書・増補版サイト
- 濡れ紙の灯 研究メモ
- 言語行為と儀礼のフォーラム