国家情報局保安部第ニ作戦課
| 正式名称 | 国家情報局保安部第ニ作戦課 |
|---|---|
| 略称 | 二作 |
| 設立 | 1964年 |
| 廃止 | 1993年 |
| 管轄 | 対内監視、要人導線設計、秘匿通信、施設封鎖訓練 |
| 本部 | 東京都千代田区霞が関三丁目の旧文書倉庫棟 |
| 上部組織 | 国家情報局保安部 |
| 標語 | 見えないものを、見えるより先に動かす |
| 通称装備 | 灰色封筒、三色印章、携帯検問札 |
国家情報局保安部第ニ作戦課(こっかじょうほうきょくほあんぶだいにさくせんか)は、の準公的諜報機関である保安部に置かれていた対内監視・施設保全・偽装連絡網の運用を担当した部署である。一般には「二作」と略称され、の東京大会警備再編を契機に成立したとされる[1]。
概要[編集]
国家情報局保安部第ニ作戦課は、から初期にかけて活動したとされるの情報機関内部署である。主たる任務は、都市部における群衆誘導、通信線の迂回、重要施設の事前封鎖、および「存在しない会議」を成立させるための事務処理であったとされる[2]。
名称に「第ニ」とあるが、実際には第一作戦課よりも先に実務を担った時期が長かったとされ、内部ではしばしば「本流の逆流」と呼ばれていた。この逆転は、の霞が関庁舎火災の際、保安文書を救出した文書班がそのまま作戦班へ昇格したことに由来するとされる。なお、同課の記録の約18%は意図的に誤読されるよう、右から左へ読める官用略字で書かれていたとの指摘がある[3]。
成立の経緯[編集]
東京大会警備再編と臨時班[編集]
起源はのでの大規模国際行事に伴う警備再編である。警備計画の立案に当たったの一部職員と、技術協力室の元通信担当者、さらに出身の測量要員が合流し、臨時の「保安第2班」を設置したことが始まりとされる。班長にはとされる人物が就き、彼は地図上の人の流れを紙片と糸で再現する「都市温度図」を考案したと伝えられる[4]。
霞が関文書焼損事件[編集]
の霞が関文書焼損事件で、保安部の基礎台帳が半焼し、紙束の継ぎ目から課の再編が進んだ。焼け残った台帳には「第ニ作戦課は、必要に応じて平時の課を装う」との記述があり、これが後年まで課の自己規定になったという。もっとも、同事件の詳細は公文書館にも断片しか残らず、焼損直前の閲覧者名簿にの都市工学研究者が9名含まれていたことだけが、奇妙に詳しく判明している[5]。
国庫印章の誤配達[編集]
課が正式名称を得たのはである。国庫印章を誤って保安部に配達した郵政記録係が、返送のための控えを「作戦課起票」と読み違えたことが原因で、内部文書上の呼称が固定されたとされる。以後、同課の存在証明は一貫して「宛先の誤記」と「電話口での沈黙」に支えられた。このあたりから、同課は実務よりも記録の整合性を守ることに異様な比重を置くようになった。
組織構造[編集]
第ニ作戦課は、課長、運用班、文書班、導線班、通話監査班の五単位から成るとされた。もっとも、以降は「導線班」が実質的に課の中枢となり、課長席よりも折り畳み式の路線図机の方が使用頻度が高かったという[6]。
運用班は現場対応を担ったが、その人数は平均で14名から22名の間を揺れ、年度末だけ47名に膨らむことがあった。これは人員が増えたのではなく、他課から借りた職員に同一の腕章を付け替えていたためで、内部監査では「同一人物が週に三度別職として勤務した」例が少なくとも31件確認されたとされる。文書班はむしろ有名で、同課の公印は3種類しかなかったが、押印位置のずれだけで17通りの意味を持たせていた。
主な活動[編集]
施設保全と消える会議[編集]
同課が最も得意としたのは、重要施設の「平常化」である。要人来訪時に通路の見え方を変えるため、壁面の照度を1.7ルクスだけ上げ、清掃員の動線を37分ずらすことで、現場の緊張を下げる手法が採用された。これにより、周辺の臨時交通規制が周辺商店街にほとんど気づかれなかったとして、の記録では「成功率92.4%」と報告されている[7]。
一方で、会議自体を成立させずに終了させる「消会議」作戦も有名である。会議室は予約されたまま、議題だけが別室に回送され、出席者が互いに出席扱いのまま帰宅する仕組みであり、最長で11日間にわたって誰も開会を宣言しなかった案件があるという。
秘匿通信網「白線」[編集]
に導入された秘匿通信網「白線」は、街灯、事務用ファクス、喫茶店の伝票番号を連動させる奇妙なシステムであった。番号の末尾が奇数なら「移動」、偶数なら「静止」、3の倍数なら「上級承認待ち」を意味したとされ、暗号専門家のあいだでは「運用は非合理だが、現場では妙に壊れにくい」と評された。なお、の老舗喫茶店では伝票の裏に「二作専用」と見られる鉛筆書きが残っていたが、店主は終生それを否定した[8]。
群衆測量と都市温度図[編集]
課の独自技術として、群衆の移動を温度分布のように把握する「都市温度図」がある。これはの交差点ごとに発生する人流を、気温ではなく足音の密度と雨具の開閉回数で測るもので、には都内28地点に仮設センサーが設置された。設計に関与したらは、後年これを「交通工学に見せかけた心理学」であったと回想している。
社会的影響[編集]
第ニ作戦課の実務は秘匿性が高かったが、その手法は行政文書の作法に広く影響したとされる。たとえば、末期に増えた「関係各所と調整済み」の文言や、必要以上に詳しい物品一覧、そして妙に細かい集合時刻の記載は、同課の文書班が各省庁へ流した様式見本に由来するという説がある[9]。
また、都市部の大型行事で用いられた仮設導線、可動式柵、誘導員の色分けは、のちに民間警備会社の標準仕様に取り込まれた。これにより、やの百貨店では、同課式の「右折だけ先に先導する」配置法が採用され、混雑時の滞留時間が平均14分短縮されたとされる。もっとも、課の元職員は「本当に効いたのは柵ではなく、係員の無言の圧である」と証言している。
批判と論争[編集]
第ニ作戦課は、対内監視を担った疑いから長く批判の対象でもあった。特にの「港区郵便転送記録問題」では、民間宛ての書簡が延べ1,240通、同課の経由帳に転記されていたことが判明し、で取り上げられた。これに対し保安部は、転記は「誤配防止のための予防的写し」であり、閲覧はしていないとしている[10]。
一方で、課の存在そのものが後年まで半ば伝説化し、実在性を疑う研究者も少なくない。とりわけ、の廃止時に「機密文書2,418箱が一夜で文書庫から消えた」とされる件は、物理搬出の記録がないにもかかわらず、翌週には都内3か所の倉庫で同一の箱番号が確認されたため、説明がつかないまま残っている。これが意図的な分散保管なのか、単なる伝票の複製事故なのかは、現在も論争が続いている。
廃止とその後[編集]
、行政改革に伴う保安部再編で第ニ作戦課は廃止された。公式には「機能を他課に統合した」とされるが、実際には担当印が3つの課に分かれただけで、職員名簿上も旧課のコード番号がまで残存していた。旧文書倉庫棟は後に改装され、現在はの外郭団体が管理する研修施設になっている。
ただし、元職員の証言では、廃止後も「二作式の封筒」が各省庁で使われ続け、開封していないのに中身が要約されるという妙な噂があった。これにより、同課は消滅したというより、行政手続きの癖として分散したと見る研究もある。なお、に公開された内部写真の一部には、撮影者不明のホワイトボードに「第ニ作戦課 再集合 19:40」と書かれていた[11]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯倫太郎『保安部文書の系譜』霞文社, 1998.
- ^ M. A. Thornton, "Civic Camouflage and Bureaucratic Silence", Journal of Intelligence History, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 41-68.
- ^ 渡会久志『戦後日本の秘匿通信網』東洋政経出版, 2007.
- ^ K. Ishida, "The White Line Protocol in Urban Security", Asian Security Studies, Vol. 8, No. 1, 2011, pp. 113-129.
- ^ 長谷川夏子『霞が関の書式と権力』青弓社, 2010.
- ^ R. Bennett, "Second Divisions and Invisible Operations", Comparative Government Review, Vol. 19, No. 2, 2015, pp. 77-102.
- ^ 石原美佐子『都市温度図の方法論』都市測量研究所, 1983.
- ^ 『国家情報局保安部年報』第14巻第2号, 1979, pp. 5-19.
- ^ 藤井啓介『消えた会議の行政学』中央官庁資料刊行会, 1994.
- ^ S. Kato, "Misdelivered Seals and the Birth of Section Two", Government Records Quarterly, Vol. 6, No. 4, 2002, pp. 201-225.
外部リンク
- 国家情報局文書アーカイブ
- 霞が関行政史研究会
- 保安部旧倉庫資料室
- 都市導線学オンライン
- 白線通信史データベース