堀越 明子
| 氏名 | 堀越 明子 |
|---|---|
| ふりがな | ほりこし あきこ |
| 生年月日 | 1918年4月12日 |
| 出生地 | 東京府下谷区入谷町 |
| 没年月日 | 1987年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗測量家、地名保存運動家、記憶地図研究者 |
| 活動期間 | 1939年 - 1984年 |
| 主な業績 | 『消えた町名索引』の編纂、帝都記憶地図会の設立、坂道聞き取り測量法の確立 |
| 受賞歴 | 日本地名史学会特別賞、東京都文化功労顕彰 |
堀越 明子(ほりこし あきこ、 - )は、の民俗測量家、記憶地図研究者である。旧内の町名消滅運動を記録したことで広く知られる[1]。
概要[編集]
堀越 明子は、昭和戦前期から戦後高度成長期にかけて活動したの民俗測量家である。とくに、区画整理や道路拡張で消えゆく内の旧町名を、聞き取りと実地歩行によって復元したことで知られる[1]。
彼女の業績は、単なる地図作成にとどまらず、町の記憶を地形・石垣・井戸跡・看板の陰影まで含めて保存しようとした点に特色がある。後年は史料編纂所やの周辺資料にも影響を与えたとされるが、当時の行政文書には「測量の範囲が妙に詩的である」との批判も見られた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、下谷区入谷町に生まれる。父・堀越庄吉はの帳場持ち、母・たきは染物屋の手伝いをしており、幼少期の明子は商店の納品帳に書かれた番地の記号に強い興味を示したという。近所の路地が後に何度も付け替えられたことが、後の「地名は行政よりも先に記憶から消える」という彼女の持論を生んだとされる[3]。
に進学後、地理よりも古地図の余白に惹かれ、校内で独自に「裏道観察会」を主催した。参加者は毎回7名程度であったが、うち2名は迷子になり、残りが坂道の勾配をメモして帰ったという逸話が残る。なお、この時期に彼女は内の坂を「音のする坂」と「沈黙の坂」に分類しており、後年の研究の原型になったとみられている。
青年期[編集]
、の補助嘱託として採用される。もっとも正式な職名は「臨時資料整序係」で、実際には地形図の余白に書かれた旧町名の照合を担当していた。ここでという架空の古地図研究者に師事し、紙地図と聞き書きを突き合わせる「二重参照法」を学んだとされる[4]。
には、空襲で焼失した町名標識を記録するため、夜間に焼け跡を歩いては各戸の表札の残骸を拾い集めた。この作業は周囲から危険視されたが、彼女は「地名は残骸の順番で記憶される」と述べ、拾得した銅板片を封筒ごと整理した。戦後、その封筒はの前身資料として一部参照されたが、封の糊が強すぎて10年間開かなかったと記録されている。
活動期[編集]
、仲間数名とともにを設立し、以後は本格的に町名保存運動を展開した。会の会則は全18条であったが、第7条に「会合は必ず坂道の上で行うこと」とあり、会員の半数が離脱したという。堀越は各地の聞き取りを続け、を中心に、延べ2,416人へ面接を行ったとされる[5]。
刊行の『消えた町名索引』は、旧町名の由来を行政史・商家史・荷車の通行方向まで含めて整理したもので、学界では異例の売れ行きとなった。初版は3,000部であったが、うち847部が自治体の担当者により「参考資料として常備」された結果、翌月には市場からほぼ消えた。なお、索引の末尾に付された「路地の気分」という補遺は、後世の研究者の間で真贋をめぐる論争を生んでいる。
晩年と死去[編集]
に入ると、堀越は実測よりも「聞き取りの減衰」に関心を移し、高齢者が同じ路地を何度も説明するうちに細部が変化する現象を観察した。彼女はこれを「記憶地形の季節変動」と名づけ、で報告したが、会場の多くは地図と季節の関係が理解できず沈黙したという。
、の自宅で死去した。享年69。最晩年は病床でも町名の聞き書きを続け、枕元に置かれたメモには「角を曲がると豆腐屋、その先に消えた橋」とだけ書かれていたと伝えられる。葬儀には地理学者だけでなく、元商店主や元区役所職員も多数参列し、弔辞の一部が「当区最後の歩く索引であった」として新聞の片隅に掲載された[6]。
人物[編集]
堀越は寡黙であったが、聞き取りの際には相手の沈黙を重視したことで知られる。彼女は「思い出せない場所ほど、地図に書く価値がある」と述べたとされ、証言者が言い淀むたびに、ノートの余白へ異様に精密な矢印を描いた。
また、非常に几帳面で、使用する鉛筆は常に、消しゴムは角が四つあるものに限った。これについては、墨田川沿いの文具店主が「堀越さんが来ると、必ず三角定規が一枚増える」と証言しているが、真偽は定かでない[7]。
逸話として有名なのは、の再開発現場で「このビルの下に、まだ番地が眠っている」と言い、現場監督を30分ほど困惑させた件である。実際にその翌年、地下の工事記録から旧地番票が発見されたため、以後は彼女の予言めいた発言が半ば伝説化した。
業績・作品[編集]
堀越の代表的業績は、『消えた町名索引』、『坂道聞き取り測量法覚書』、『路地の呼吸に関するノート』の三冊に集約される。とりわけ『坂道聞き取り測量法覚書』は、坂の角度をではなく「会話が途切れる回数」で測る独自指標を導入し、後の民俗地図学に奇妙な影響を与えた。
には、委託の小規模調査として「消滅予定町名の保存優先度一覧」を作成し、路地の幅、銭湯との距離、子どもの呼称残存率を総合して順位付けした。この一覧は都内23区で試験導入され、うち3区で「測定項目が細かすぎて職員が追随できない」との理由から中止されたという。
また、晩年の未刊稿『郵便受けの方角』では、同一町内で郵便受けが東向きに増えると住民の地名愛着が下がるという仮説が示されている。現在でも一部の研究者に引用されるが、統計母数が17件しかないため、しばしば脚注の脚注として扱われる。
後世の評価[編集]
堀越の評価は、地名保全運動の先駆者として高い一方、方法論が過度に感覚的であるとの批判もある。特にのでは、「記憶の採点に主観が混じりすぎる」とする反論が出され、これに対し支持派は「主観がなければ旧町名は最初から保存できない」と応じた[8]。
一方で、の一部研究室では、彼女の記録をもとに再現地図を作成する試みが続けられ、2020年代にはGISと聞き書きを接続する「堀越方式」が紹介された。ただし、現代のデジタル地図では再現しきれない「角を曲がる前の気配」が欠落するとされ、今なお議論がある。
の一部区では、町名表示板の裏面に小さく旧町名を併記する運動が広がったが、これは堀越の著作を読んだ担当者が「読めるうちに残すべきだ」と急に方針を変えたことが契機であるという。なお、この逸話は広く流布しているが、担当者の名前はどの資料にも一致しない。
系譜・家族[編集]
父・堀越庄吉は下谷区の商家に勤め、町内会の帳面整理を引き受けていた。母・たきは地図を読めない代わりに路地の匂いで方向を言い当てる人物で、堀越はその感覚を「嗅覚的方位感」として後年の講義で引用している。
夫はの製紙会社に勤めていた堀越信一で、に結婚したとされる。子は一男一女で、長男の堀越正彦は勤務、長女の堀越和代は地域史サークルの編集を務めた。もっとも、家族史料にはしばしば記載が食い違っており、孫世代が「祖母は三度引っ越した」と証言した一方、別の証言では「一度も出なかった」とされる[9]。
また、堀越家には「地図の端を燃やしてはならない」という家訓があったという。これは大正末期の火災を恐れたためとされるが、本人は晩年、これを「端にこそ余白があるから」と解釈し直していた。
脚注[編集]
[1] ただし、生年についてはとする名簿も残る。 [2] 『東京都史料通信』第14巻第3号、1962年、pp. 41-46。 [3] 山岸清『下谷の路地と番地』、東亜地誌出版、1979年、pp. 88-90。 [4] 内田重三郎「聞き書きと図の往復」『日本地図学会誌』Vol. 8, No. 2, 1941, pp. 11-19。 [5] 帝都記憶地図会編『会報第27号』、1959年、pp. 2-7。 [6] 『朝日夕刊』1987年9月5日付、地方文化欄。 [7] 田村ミドリ「測量家と文具の相関」『文具と社会』第5巻第1号、1973年、pp. 103-108。 [8] 日本都市史学会大会記録『都市の消滅と記憶』、1978年、pp. 155-162。 [9] 堀越和代『家族メモランダム』私家版、1996年、pp. 12-14。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山岸清『下谷の路地と番地』東亜地誌出版, 1979, pp. 88-90.
- ^ 内田重三郎「聞き書きと図の往復」『日本地図学会誌』Vol. 8, No. 2, 1941, pp. 11-19.
- ^ 帝都記憶地図会編『会報第27号』帝都記憶地図会, 1959, pp. 2-7.
- ^ 田村ミドリ「測量家と文具の相関」『文具と社会』第5巻第1号, 1973, pp. 103-108.
- ^ 佐伯俊彦『町名はどこへ消えたか』みすず記憶書房, 1984, pp. 201-219.
- ^ 松井あや『東京の路地と声』青梧社, 1968, pp. 55-73.
- ^ A. Thornton, “Cartography of Absence: Horikoshi and Urban Memory,” Journal of Japanese Urban Studies, Vol. 12, No. 4, 1991, pp. 44-61.
- ^ 高橋弘「消滅地名の保存優先度に関する試案」『都市行政研究』第19巻第2号, 1958, pp. 9-18.
- ^ M. Endo, “The Whispered Block: Notes on Akiko Horikoshi,” The East Asian Review of Folklore, Vol. 3, No. 1, 2002, pp. 77-89.
- ^ 『郵便受けの方角』堀越明子未刊稿資料集, 1981, pp. 1-29.
- ^ 長谷川莉子『路地の気分を測る』河岸書房, 1997, pp. 130-148.
外部リンク
- 帝都記憶地図アーカイブ
- 旧町名保存研究センター
- 東京路地学会
- 堀越明子資料室
- 日本民俗測量年報