塩田 恵太郎
| 氏名 | 塩田 恵太郎 |
|---|---|
| ふりがな | しおた けいたろう |
| 生年月日 | 1897年4月12日 |
| 出生地 | 神奈川県横浜市中区山下町 |
| 没年月日 | 1964年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗工学者、港湾風景設計家、著述家 |
| 活動期間 | 1920年 - 1961年 |
| 主な業績 | 塩田式波止場観測法、潮路灯、仮設石段港の提唱 |
| 受賞歴 | 帝都技芸協会特別功労章、神奈川港湾文化賞 |
塩田 恵太郎(しおた けいたろう、 - )は、の民俗工学者、港湾風景設計家である。潮位記録と路地照明の統合によって知られ、戦前期ので「塩田式波止場観測法」を確立した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
塩田 恵太郎は、日本の民俗工学者である。港湾の潮位、路地の勾配、魚市場の人流を同時に測定する独自の方法論を提唱し、周辺の都市改修に影響を与えた人物として知られる[1]。
彼の研究は、末から中期にかけて、臨港調査班やの委嘱を受けて進められたとされる。なお、後年に整理された記録の一部には、潮の満ち引きと街灯の点滅周期を混同したような記述があり、研究史の上でもしばしば議論の対象になっている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、山下町の回船問屋の裏手に生まれる。幼少期から周辺の干潮域で貝採りを手伝い、潮が引いたあとに露出する石組みの並びに強い関心を示したという[3]。
家は商家であったが、父の塩田久兵衛は帳簿の紙面に潮位を描き込む癖があり、これが恵太郎の観測習慣の原型になったとされる。少年期にはの見学会に3度出入りし、係員に「時計より潮のほうが正確である」と言い放った逸話が残る。
青年期[編集]
を経ての工学科に進んだが、構造力学よりも港湾の雑踏や看板の配置に関心を寄せ、指導教官のにたびたび注意されたとされる。大学ではの講義も聴講し、石段、船溜まり、露店の位置関係を「都市の呼吸」と呼んだ[4]。
、卒業直前に提出した小論「波止場における人足の回遊経路」は、当時としては異例に細かい脚注が付されたことで注目を集めた。ここで彼は、潮位の変化に応じて人の足取りが17分単位で変調すると主張し、これが後の塩田式波止場観測法の基礎になった。
活動期[編集]
、の臨港整備係に嘱託として参加し、周辺において潮路灯の試験設置を行った。潮路灯は、潮位が上がると灯体の角度が0.8度だけ自動補正される装置で、漁民と荷役人の双方に受け入れられたという[5]。
にはに連載「港は何を記憶するか」を寄稿し、港湾を単なる物流の場ではなく、気候、方言、履物の摩耗まで含む総合的記憶装置として論じた。この記事は反響を呼び、当時の編集部には「潮の話なのに妙に文学的である」とする読者葉書が月平均43通届いたとされる。
、の委託で沿岸の空襲後復旧計画に関わり、仮設石段港を提唱した。これは、瓦礫を積み上げて一時的な段状の上陸路を作る方式で、実際には一部でしか採用されなかったが、戦後の臨時桟橋設計に影響を与えたとされる[6]。
晩年と死去[編集]
戦後は腰越の借家に移り、潮位観測と俳句採録を組み合わせた『潮の句帳』を私家版で発行した。部数は初版120部、増刷なしであったが、の研究会がそのうち17部を所蔵したことで、のちに再評価が進んだ[7]。
、慢性の気管支疾患によりで死去した。最晩年には「港とは人が帰るための装置である」と述べたとされるが、これを記したのが本人か弟子かについては異説がある。墓所はとされるが、実際には潮位観測碑の裏に名前のみが刻まれた簡素なものだという説もある。
人物[編集]
塩田は温厚で礼儀正しい一方、現場では極端に細部へこだわる人物であったと伝えられる。たとえば前の舗装改修では、敷石の目地幅を3寸5分以内に統一するよう求め、職人に「誤差は波に食われる」と説明したという[8]。
また、私生活では甘味よりも塩気を好み、来客に対して必ず干物と番茶を出した。友人のによれば、彼は会話の最中でも潮の満ち引きが気になると窓辺へ立ち、遠くの船笛の回数を数えていたとされる。
奇行として有名なのは、雨の日に傘ではなく小型の旗竿を持ち歩いたことである。これは「風向の変化を肩で知るため」と本人が述べたとされ、実際には近所の子どもたちから“港の先生”と呼ばれるきっかけになった。
業績・作品[編集]
塩田の代表的業績は、にまとめられた『波止場観測の理法』である。この書では、潮位、荷車の軸音、岸壁の影の長さを同時記録するための「三点同調表」が提示され、後の港湾調査票の原型になったとされる[9]。
さらに刊の『潮路灯概論』では、赤・白・青の3色を用いた港湾誘導灯の配置基準が示された。うち青色は「夜半の不安を和らげるため」とされたが、実際には目立ちすぎて漁船から敬遠されたため、現場では白色のみ残ったという。
作品としては、随筆集『石段のある埠頭』、観察記『湾岸十夜』、そして未完の大著『日本潮路地図』が知られる。とくに『日本潮路地図』は、全国の港を「潮速A」「潮速B」「潮速C」に分類する野心的な試みであったが、の一部との一部で分類が逆転したため、出版は見送られた[10]。
なお、弟子筋には塩田の図式を応用しての混雑予測を行う者も現れ、これは「港湾民俗学」の周辺領域として扱われている。
後世の評価[編集]
戦後しばらくは地方の奇人学者として扱われたが、にで開催された「港と記憶」展を契機に再評価が進んだ。特に、都市の再開発が進む中で、塩田の残した観測図が「消えゆく生活圏の地形図」として注目された[11]。
一方で、彼の理論には統計的検証が十分でない部分も多く、以降の研究者からは「観察の鋭さに比して分類が大胆すぎる」と批判されている。もっとも、都市史研究室の一部では、塩田の図面が後年の港湾サイン計画に無意識の影響を与えた可能性が指摘されている。
にはが「塩田恵太郎顕彰路地」を整備し、旧居跡に説明板を設置した。説明板の文面には彼の代表語「潮は街を選ばない」が刻まれたが、これは本人の言葉ではなく、編集委員会が採用した標語であるとされる[12]。
系譜・家族[編集]
塩田家は後期からの回船問屋に関わったとされる家系で、父・塩田久兵衛、母・まさの間に長男として生まれた。弟に塩田誠一、妹に塩田としがいたが、いずれも後年に地元の商業組合や女学校の記録に断片的に現れるのみである[13]。
妻はに結婚した塩田澄子で、の出身であった。澄子は恵太郎の観測帳を清書し続けた人物として知られ、彼の研究が単なる思いつきで終わらなかったのは澄子の整理能力によるとする説もある。
子としては長男・塩田修二がいたが、本人は父の研究を継がずの造船所勤務に就いたという。孫の代になると塩田家は一般家庭として落ち着き、現在は親族の一部が郷土資料館の保管協力者を務めている。
脚注[編集]
[1] 塩田恵太郎『港の記憶と潮の目盛』港湾文化社、1968年。
[2] 田村静子「戦前臨港調査における潮位と照明の相互参照」『都市民俗工学紀要』第12巻第3号、pp. 41-58。
[3] 横浜市史編さん室『中区山下町聞き書き集』横浜市、1972年。
[4] 藤堂保雄「旧制高等学校における港湾観察教育の試み」『工学と風景』Vol. 4, No. 2, pp. 11-29。
[5] 神奈川港湾研究所『潮路灯試験報告書』第1輯、1930年。
[6] 帝都技芸協会『空襲後復旧に関する設計資料』内部資料、1943年。
[7] 慶應義塾大学三田メディアセンター『塩田恵太郎旧蔵書目録』1976年。
[8] 佐伯辰造『港口の人々』みなと出版、1959年。
[9] 塩田恵太郎『波止場観測の理法』潮響社、1926年。
[10] 岩井恒一「未刊『日本潮路地図』の分類体系について」『地図と周縁』第7巻第1号、pp. 3-19。
[11] 神奈川県立博物館『港と記憶 展覧会図録』1978年。
[12] 横浜市文化観光局『塩田恵太郎顕彰路地整備記録』2009年。
[13] 塩田家文書整理会『塩田家系図断簡』私家版、1984年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 塩田恵太郎『港の記憶と潮の目盛』港湾文化社, 1968.
- ^ 田村静子「戦前臨港調査における潮位と照明の相互参照」『都市民俗工学紀要』第12巻第3号, pp. 41-58.
- ^ 藤堂保雄「旧制高等学校における港湾観察教育の試み」『工学と風景』Vol. 4, No. 2, pp. 11-29.
- ^ 神奈川港湾研究所『潮路灯試験報告書』第1輯, 1930.
- ^ 帝都技芸協会『空襲後復旧に関する設計資料』内部資料, 1943.
- ^ 慶應義塾大学三田メディアセンター『塩田恵太郎旧蔵書目録』, 1976.
- ^ 佐伯辰造『港口の人々』みなと出版, 1959.
- ^ 岩井恒一「未刊『日本潮路地図』の分類体系について」『地図と周縁』第7巻第1号, pp. 3-19.
- ^ 神奈川県立博物館『港と記憶 展覧会図録』, 1978.
- ^ 横浜市文化観光局『塩田恵太郎顕彰路地整備記録』, 2009.
- ^ M. A. Thornton, The Tidal Streets of Yokohama, Harbor Studies Press, 1982.
- ^ Kenji Watanabe, 'Minor Ports and Major Memories,' Journal of Coastal Folklore, Vol. 9, No. 1, pp. 77-94.
外部リンク
- 港湾民俗学アーカイブ
- 横浜潮位文化研究会
- 塩田恵太郎記念資料室
- 都市港景データベース
- 日本仮設港研究ネットワーク