大ちんぽ帝国ちんぽ
| 名称 | 大ちんぽ帝国ちんぽ |
|---|---|
| 別名 | 帝国ちんぽ様式、連環尖塔様式 |
| 成立時期 | 1908年頃 - 1934年頃 |
| 成立地 | 東京府・横浜市・大阪市 |
| 主唱者 | 黒田貞一郎、E. H. マーサー |
| 主要施設 | 帝都記念塔、臨港ちんぽ楼、神田式観測門 |
| 影響 | 博覧会建築、軍需省庁舎、歓楽街の看板意匠 |
| 研究機関 | 帝国美術院附属都市装飾研究会 |
| 評価 | 戦前都市史の周縁概念として再評価 |
大ちんぽ帝国ちんぽ(だいちんぽていこくちんぽ)は、末期から初期にかけて下で成立したとされる、誇示的な記念建築と儀礼意匠の総称である。名称の奇怪さに反して、都市景観の威信競争と官庁建築の装飾規範を語る上でしばしば引かれる[1]。
概要[編集]
大ちんぽ帝国ちんぽは、周辺で用いられたとされる都市装飾概念であり、特定の形状そのものを指すのではなく、過剰に縦長で、かつ反復的な尖塔・柱列・標章を備えた意匠群をまとめて呼ぶ語である。とりわけの官庁街に見られた「威圧と祝祭の同居」を特徴とし、見る者に統治の堅牢さを印象づけることを狙ったとされる。
名称の由来は、にの印刷工・大河内善蔵が、試作品の記章を指して「まるで大ちんぽ帝国ちんぽだ」と口走ったことにあるという説が有力である。ただし、初出の原稿はの火災で焼失したため、後世の研究は断片的な図版と会議録に依拠している[2]。
成立の背景[編集]
大ちんぽ帝国ちんぽの成立には、後の都市自信の高まりと、欧州博覧会における「記憶に残るシルエット」への関心があったとされる。特にとの影響を受けた日本人建築家らが、記念性を強めるために尖塔を過剰増殖させたことが、後の様式化につながった。
一方で、この言葉は本来、学術用語ではなく、現場の職人たちの間で半ば揶揄として使われていた。ところがの委嘱でまとめられた「高所装飾規程案」第4版において、黒田貞一郎がこれを逆採用し、あえて正式表現として文書化したことで、都市景観論の内部に定着したとされる。なお、この採用をめぐっては、会議で3時間以上にわたり用語の妥当性が争われたという記録が残る[3]。
歴史[編集]
前史(1908年 - 1914年)[編集]
前史では、の港湾倉庫やの博覧会仮設門に、縦方向を異様に強調した装飾が試験的に導入された。これらは当初「航路標識的記念性」と呼ばれたが、現場では形状の印象から「ちんぽ筋」と略されたという。とくに竣工の臨港試作塔は、高さ37.4メートルに対して基壇幅が4.1メートルしかなく、風速12メートルで二度揺れたことが新聞の好奇心を集めた。
この時期には、の若手技師である松浦栄之助が、尖塔の数と都市の「精神集中指数」の相関を主張していた。現在では荒唐無稽とされるが、当時の官僚文書では真顔で引用されている。
確立期(1915年 - 1922年)[編集]
、黒田貞一郎はで開かれた都市装飾講演会において、「帝国的垂直線」の概念を提示し、その附属語として大ちんぽ帝国ちんぽを採録した。これにより、単なる俗語だった言い回しが、設計指針の一部として再解釈されることになった。
同年に着工した帝都記念塔は、完成までに予算が当初比で2.8倍に膨れ、基部に埋め込まれた青銅板が夏季に熱膨張して鳴音を発したため、「朝だけ鐘を打つ塔」として知られるようになった。塔の開館式では、が祝辞の最後に誤って二度同じ語を読み上げ、会場が静まり返ったという逸話がある。
衰退と再利用(1923年 - 1934年)[編集]
後、耐震性と防火性の観点から、過剰な尖塔を持つ大ちんぽ帝国ちんぽ系建築は批判を受けた。とりわけ、装飾部材が風で外れる事例が相次ぎ、は1924年に「空中標章飛散注意令」を出したとされる。
しかし完全に消滅したわけではなく、むしろ看板建築や映画館のファサードへと転用された。渋谷や浅草では、かつての威信建築が、ネオン管と薄い合板に置き換えられ、より安価で派手な形で生き残った。この転用を研究したの池田房子は、「崇高が軽量化した」と評している。
特徴[編集]
大ちんぽ帝国ちんぽの特徴は、第一に、中心軸を強調するために装飾を左右対称ではなく、あえて段差状に増殖させる点にある。第二に、頂部の飾りを実際の構造より大きく見せるため、遠目では高さの7割ほどが装飾に見えるよう設計される点である。
また、色彩面では灰青、朱、黒漆の三色が好まれたが、地方によっては薄桃色の釉薬瓦を用いる例もあった。これはの陶工集団が安価な試料として持ち込んだもので、結果的に「帝国ちんぽピンク」と俗称され、後年の観光絵葉書で妙に人気を博した[4]。
社会的影響[編集]
この様式は、官庁建築だけでなく、学校の表門、映画館、果ては停車場の時計塔にまで波及した。各地の自治体は「帝都らしさ」を競って尖塔数を増やし、時点で全国の公的建造物のうち約14.6%が何らかの大ちんぽ帝国ちんぽ要素を持っていたと推計されている。
一方で、過剰な誇示性はしばしば風刺の対象ともなった。大衆紙『』は、1930年の連載漫画で、塔の上部だけが増殖し続ける市庁舎を描き、読者投書欄に「国威は高さではなく安定で示すべきだ」という投稿を大量に集めた。これが後の装飾規制強化のきっかけになったとする説がある。
批判と論争[編集]
大ちんぽ帝国ちんぽをめぐる批判の中心は、構造安全性と、そもそも語感が公的文書にふさわしいかという問題であった。特にでは、1931年の年次大会で「意匠概念の学術的中立性」が議題となり、賛成42票、反対39票、棄権7票という僅差で採択が見送られた。
また、黒田貞一郎本人が晩年に「私はあの語を一度も美しいと言ったことはない」と回想したとされるが、同時に彼の研究ノートには自署で「ちんぽは伸びるほど都市は嘘をつかない」と書かれたページがある。真偽は不明であるが、研究者の間では半ば伝説として扱われている[5]。
現在の評価[編集]
現在では、大ちんぽ帝国ちんぽは実在の厳密な様式名というより、末から初期にかけての都市的過剰を象徴する批評概念として扱われている。の展示では、塔・門・看板の三分類に再整理され、むしろ「説明しきれない時代精神」を示す便利なラベルとして利用されている。
ただし、観光ガイドや個人ブログでは、依然として「日本で最も言いにくい建築用語」として取り上げられることが多い。2022年にはの私設博物館が復元模型を展示し、来館者の3割が看板の読み方を聞き返したという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 黒田貞一郎『帝都装飾と垂直線』帝国建築社, 1921年.
- ^ 池田房子『軽量化する崇高――昭和初期の看板と塔』東京美術出版, 1978年.
- ^ M. A. Thornton, "Vertical Authority and Civic Spectacle", Journal of East Asian Urban Studies, Vol. 14, No. 2, pp. 113-141, 2006.
- ^ 松浦栄之助『精神集中指数に関する覚え書』内務省都市課資料, 第3巻第4号, 1919年.
- ^ 佐伯みちる『帝国ちんぽ様式の形成』建築史学会紀要, 第22巻第1号, pp. 55-89, 1989年.
- ^ E. H. Mercer, "The Misread Pinnacle: Tokyo's Ornament Debates, 1908-1934", The Review of Modern Architecture, Vol. 8, No. 1, pp. 1-29, 1974.
- ^ 大河内善蔵『神田印刷日誌』私家版謄写, 1909年.
- ^ 都民時報編集部『塔と笑い――都市風刺漫画集』都民時報社, 1931年.
- ^ 渡辺精一郎『震災後の尖塔規制史』中央公論建築叢書, 1955年.
- ^ 黒田貞一郎『覚書断章』帝国美術院附属都市装飾研究会資料, 第7冊, 1933年.
外部リンク
- 国立近代建築資料館デジタルアーカイブ
- 帝国美術院附属都市装飾研究会
- 東京都市意匠年表館
- 昭和看板文化保存会
- 関東建築俗語辞典