大名古屋連邦
| 正式名称 | 大名古屋連邦 |
|---|---|
| 通称 | 大連邦、DNF |
| 成立 | 1897年ごろ |
| 崩壊 | 1944年 |
| 中心都市 | 名古屋市 |
| 公用語 | 日本語、商業記録語 |
| 通貨 | 連邦円(後に連邦銭) |
| 機関紙 | 大名古屋時報 |
| 構成区域 | 名古屋、熱田、守山、春日井南部、知多半島北岸 |
| 象徴色 | 金茶 |
大名古屋連邦(だいなごやれんぽう、英: Greater Nagoya Federation)は、の都市圏を基盤として19世紀末に構想された広域自治体構想であり、のちにを中心とする商工連合体として制度化されたとされる[1]。実際には国家としての主権を持たなかったが、独自の通貨単位と式典規定を有したことで知られている[2]。
概要[編集]
大名古屋連邦は、後期にの商人・鉄道技師・法学者らが提唱した広域統治モデルである。名古屋を「単独都市ではなく、港湾・工業・信仰・軍需を束ねる中枢」とみなす発想から生まれたとされる。
連邦の実態は、自治体間協定、倉庫税の共通化、道路標識の様式統一を目的とする準行政的な枠組みであったが、宣伝文句が過剰に洗練されていたため、しばしば独立国家のように誤解された。なお、内部では「連邦」という語の使用に強い抵抗があったが、の豪雨後に物流再編が急務となり、半ば黙認されたという[3]。
成立の背景[編集]
発端は、周辺で相次いだ荷役混乱である。織物、味噌、陶器、軍靴の積替えが競合し、1日あたり最大で43回の倉庫鍵の受け渡しが発生したとされる。これを見た商工会議所の書記、は「都市は一つの県ではなく、ひとつの運搬機械である」と記し、後年の連邦理論の原型を残した[4]。
一方で、思想面では法科の出身であるが大きな役割を果たした。彼はに『都市連合行政私論』を私家版で刊行し、名古屋・熱田・鳴海を「相互扶助により準国家化しうる生活圏」と定義した。ただし彼自身は名古屋を訪れたのが2回だけで、1回はの蕎麦屋で腹を壊しただけであったともいう。
この構想に資金を出したのは、周辺の奉納経済に関わる穀物問屋と、の計画段階から土地を押さえていた測量請負人たちであった。彼らは連邦を理念よりも先に「倉庫税を3.8%に固定するための共同名義」として扱っていた節がある。
制度と運用[編集]
連邦会と評議局[編集]
大名古屋連邦の中核は「連邦会」と呼ばれる合議機関で、加盟区域ごとに代表2名ずつ、加えて商工組合推薦枠が6名置かれた。議場は南西の旧米蔵を改装した建物で、冬季は壁の隙間から風が入るため、重要採決は正午に限定されたという。
実際の権限は限定的であったが、評議局が発行する許可札は港湾荷役、祭礼運行、路面電車の増便にまで影響した。1910年代には、許可札の色が27種類に増え、商人たちは「連邦の真の憲法は色見本帳にある」と揶揄した[5]。
通貨と度量衡[編集]
連邦はと呼ばれる記帳単位を採用し、実際の決済では券と併用された。1連邦円は名古屋の卸売市場での白米2升3合に相当するとされ、毎月の市況に応じて微妙に換算値が変動した。
なお、短期間だけ流通した連邦銭には、表面にと歯車を組み合わせた意匠が施され、裏面には「倹約は拡大である」という標語が刻まれていた。これがあまりに評判を呼び、偽造防止のために第3版では標語がひらがなに変更されたが、今度は子ども向けの駄菓子券と誤認される問題が起きた。
文化と象徴[編集]
大名古屋連邦では、行政よりも儀礼が先に整備された。連邦式開会式では、に倣った帽章を着用し、拍手の代わりに木札を机に2回打つのが作法とされた。これは元々、倉庫検査時の合図に由来する。
また、連邦の公式色である金茶は、の車両塗装案から採用されたとする説が有力である。ある車両設計者は「泥を目立たせない色」を提案しただけだったが、結果的に「大都市の威厳と泥の実用性を両立する色」として神格化された[6]。この解釈は後年、式典用軍服や学校の門柱にも波及した。
連邦歌『おいでよ大名古屋』は、実際にはの縁日で歌われた呼び込み文句を整えたもので、4番まであるが2番の歌詞だけやたらと物流に詳しい。なお、演奏のたびに商人が拍手の代わりに見積書を振る慣習があったという。
拡張と対外関係[編集]
には、大名古屋連邦は周辺地域との関係を強め、、、方面の運送同盟を準加盟扱いとした。もっとも、これは自治拡大というより、共同で石炭を買ったほうが安かったためである。
対外的には、との間で「中部回廊協定」が結ばれ、両者は年2回だけ関税のようなものを調整した。協定書第7条には、なぜか「相手方の祭礼太鼓を侮らないこと」と書かれていたが、起草者が会食で酔っていたためだとされる[7]。
また、の新聞は連邦を「半分は自治、半分は見栄」と評したが、同時に首都圏の食糧供給を支える重要拠点としても報じていた。大名古屋連邦の交渉術は、最後まで威圧ではなく、帳簿と弁当であった。
批判と論争[編集]
大名古屋連邦には、設立当初から「名古屋の過剰な自己演出である」との批判があった。特にの住民説明会では、連邦会が配布したパンフレットに「人口180万の精神首都」と記載されていたため、実人口との乖離が問題視された。
さらに、連邦会議事録の一部が代に焼失したことから、後世の研究者の間では「そもそも連邦は実在したのか」という論争も起きた。ただし、の旧台帳、に残る許可札控え、そして熱田の古着屋で発見された連邦式腕章の束がその存在を補強しているとされる[8]。
一方で、連邦の末期には、公式行事よりも実利が優先され、特定の有力商家が評議局を事実上支配していたとの指摘がある。これは「連邦」とは名ばかりで、実態は巨大な商業調整委員会だったという冷ややかな評価につながった。
終焉と遺産[編集]
大名古屋連邦は、戦時統制の強化に伴い事実上の解体を迎えた。鉄道・港湾・配給の権限が一斉に国策機関へ吸収され、連邦会は最後の会合で「本日より倉庫の鍵は軍需省管理とする」と告げられたという。
しかし、完全な消滅ではなかった。戦後のや都市計画研究に、連邦の用語法や帳票様式が流入したとされる。また、周辺の一部倉庫では、いまも内部通達の見出しに「連邦式」の語が残ることがある。なお、地元の古参事務員のあいだでは、連邦の精神は「会議を減らし、判子を増やすこと」と誤って継承されている。
今日では、連邦は近代日本における「都市ブランドの先駆」として研究される一方、名古屋圏の独特な自己規定を説明する神話装置としても扱われている。もっとも、観光案内で「大名古屋連邦の旧首都」と紹介されるの一角については、地元でも説明が一定しない。
脚注[編集]
[1] 田島広一『尾張広域自治試論』中部行政史研究会、1938年、pp. 14-29。 [2] M. R. Thornton, "Federated Cities and Port Rituals in Central Japan," Journal of Urban Archival Studies, Vol. 12, No. 3, 1974, pp. 201-228。 [3] 『愛知県庁文書綴 明治四十五年物流再編ノ件』愛知公文書館内複写本。 [4] 渡辺精一郎『倉庫都市論覚書』私家版、1895年。 [5] 森下乙彦『許可札の色彩政治学』名古屋港湾協会出版部、1959年、pp. 77-81。 [6] 佐伯真琴『車両塗装と都市威信』鉄道美学社、1968年。 [7] K. A. Feldman, "The Middle Corridor Accord and Its Culinary Footnotes," Transactions of Comparative Municipalism, Vol. 8, No. 1, 1989, pp. 33-41。 [8] 『熱田古着市場調査報告書 連邦式腕章出土記録』愛知民俗資料叢刊 第4巻第2号、2002年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田島広一『尾張広域自治試論』中部行政史研究会, 1938年, pp. 14-29.
- ^ 渡辺精一郎『倉庫都市論覚書』私家版, 1895年.
- ^ 森下乙彦『許可札の色彩政治学』名古屋港湾協会出版部, 1959年, pp. 77-81.
- ^ 佐伯真琴『車両塗装と都市威信』鉄道美学社, 1968年.
- ^ M. R. Thornton, "Federated Cities and Port Rituals in Central Japan," Journal of Urban Archival Studies, Vol. 12, No. 3, 1974, pp. 201-228.
- ^ K. A. Feldman, "The Middle Corridor Accord and Its Culinary Footnotes," Transactions of Comparative Municipalism, Vol. 8, No. 1, 1989, pp. 33-41.
- ^ 加藤源次『大名古屋連邦の成立と崩壊』名古屋史料刊行会, 1976年, pp. 101-146.
- ^ 小椋美沙『連邦円の会計実務』東海会計図書, 1984年.
- ^ 石黒芳樹『都市儀礼と木札拍手』地方制度研究, 第9巻第2号, 1991年, pp. 55-62.
- ^ A. H. Weller, "On the Golden Carp Flag of Nagoya," Revue of Imaginary Municipal History, Vol. 4, No. 2, 2001, pp. 9-17.
外部リンク
- 大名古屋連邦文書館
- 中部広域自治研究センター
- 名古屋商工史デジタルアーカイブ
- 連邦式許可札コレクション
- 旧大名古屋時報オンライン復刻版