大山 もど
| 人名 | 大山 もど |
|---|---|
| 各国語表記 | Modo Oyama |
| 画像 | Oyama_Modo_1938.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 内閣総理大臣在任中の大山もど |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | 日本の旗 |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 第39・40・41次 |
| 就任日 | 1948年3月12日 |
| 退任日 | 1957年11月22日 |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 没年月日 | 1974年11月3日 |
| 出生地 | 東京都神田区 |
| 死没地 | 東京都世田谷区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 前職 | 大蔵官僚、満州経済視察団員 |
| 所属政党 | 国民調整会 |
| 称号・勲章 | 従一位・大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 大山ハル |
| 子女 | 2男1女 |
| 親族(政治家) | 大山義蔵(父・元府会議員) |
| サイン | Modo_Oyama_signature.svg |
大山 もど(おおやま もど、{{旧字体|大山 モド}}、[[1898年]]〈[[明治]]31年〉[[4月17日]] - [[1974年]]〈[[昭和]]49年〉[[11月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第72・73・74代[[内閣総理大臣]]、[[大蔵大臣]]、[[外務大臣]]、[[内務大臣]]、[[通商産業大臣]]を歴任した。
概説[編集]
大山もどは、戦後日本における「調整型保守」の完成者として知られる政治家である。官僚出身でありながら、議会工作と地方財界の利害調整に長け、しばしば「机上で戦争を終わらせた男」と呼ばれた[1]。
その政治手法は、強い理念よりも、各省庁・与党派閥・業界団体のあいだに細い橋を何本も架けることにあったとされる。なお、本人は晩年まで「橋は架けるが渡るとは言っていない」と語ったと伝えられる[2]。
一方で、大山の名は「もどし」の語感と結びつき、政策を一度前進させてから微妙に元へ戻す独特の折衷術を指す比喩としても用いられた。これが後年、通称「もど式政治」と呼ばれる慣行の語源になったとする説があるが、学界ではなお要出典とされている。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
大山は[[1898年]][[4月17日]]、[[東京都]][[神田区]]の紙問屋街に近い商家に生まれた。父・大山義蔵は小規模ながら府会に関わる人物で、家では毎晩のように新聞を三紙読み比べる習慣があったという。
幼少期の大山は病弱で、外遊びよりも帳簿の書き写しを好んだため、近所では「算盤で熱を出す子」と呼ばれていた。当時の記録によれば、十歳の時点で既に家計簿の赤字を見抜いて父に進言し、家業の仕入れ先を二つに分散させたとされる[3]。
学生時代[編集]
大山は[[東京府立第一中学校]]を経て[[東京帝国大学]]法学部に入学し、同年に行政法ゼミに所属した。学内では弁論部よりも統計研究会に熱心で、卒業論文は「米価変動と都市政治の相関」と題する、やけに実務的な内容であった。
同級生の回想では、大山は議論の最中に相手の主張を否定せず、必ず「なるほど、その半分は採る」と返したという。この癖が後年の妥協政治の原型になったとの指摘がある。
政界入り[編集]
[[1922年]]、大山は大蔵省に入省し、主税局から預金部を経て、地方債の調整業務を担当した。[[1931年]]には満州経済視察団の随員として派遣され、その報告書『港湾税制の弾力化に関する試論』が上層部の目に留まった。
[[1936年]]、大山は衆議院議員総選挙に立候補し、[[東京都第2区]]から初当選を果たした。選挙中、本人は連呼よりも「道路は舗装、予算は調整」と書かれた小型の扇子を配り、地元紙では「扇子で票を集める男」と報じられた。
大蔵大臣時代[編集]
[[1946年]]、大山は大蔵大臣に就任し、戦後財政の再建と通貨安定を推進した。とくに特別会計の整理に執念を燃やし、各省の反発を受けつつも「赤字の棚卸し」と呼ばれる大規模な勘定再編を断行した。
この時期、大山はGHQ経済局との折衝を担当し、[[マッカーサー]]書簡の翻訳にまで口を出したとされる。翻訳官の一人は「彼は英語を直すより、こちらの沈黙を直した」と回想している。
内閣総理大臣[編集]
[[1948年]]、大山は第72代内閣総理大臣に就任した。その後、[[1952年]]に第73代、[[1955年]]に第74代へ再任され、いずれも連立の継ぎ目を縫う形で政権を維持した。
内閣総理大臣としての大山は、復興金融公庫の再建、講和後の産業政策、地方交付税の原型整備を進めたことで知られる。一方で、閣議で資料の赤字を朱色ではなく薄墨で修正させたため、官僚たちのあいだでは「消えない減算」と恐れられた。
退任後[編集]
[[1957年]]に退任した大山は、表立った派閥運営から一歩退き、国政調査会の顧問として後進の選挙区調整を行った。引退後も官邸旧友会の中心人物として扱われ、実質的な影響力はなお数年続いたとみられている。
晩年は[[東京都]][[世田谷区]]の自邸で静養しながら、地方都市の市章や道路標識の色味にまで注文をつけたという逸話が残る。[[1974年]][[11月3日]]に死去し、国会では異例の長文追悼演説が二日間にわたり行われた。
政治姿勢・政策[編集]
内政[編集]
大山の内政は、中央集権的な制度運用を基本としつつ、地方への裁量配分を細かく設計することで知られた。とくに電力、港湾、食糧配給の三分野において、複数省庁が同じ予算を別々の名目で使う慣行を整流化したとされる。
また、教育政策では「学校は増やすが校歌は増やさない」との方針を示し、戦後の校舎再建に関する補助金を拡充した。これにより、[[1954年]]時点で木造仮校舎の解消率が62.4%に達したとされるが、集計方法には異論もある[4]。
外交[編集]
外交面では、対米関係の安定化を最優先としつつ、アジア各国との経済技術協定を段階的に拡張した。大山はしばしば「条約は長く、名刺は短く」と述べ、公式会談では握手の前に議題メモを二枚交換することを慣例化したという。
また、[[東南アジア]]歴訪時には、各国首脳への土産として日本製の定規を配ったが、いずれも1ミリだけ短く加工されていたという逸話がある。これは相手国への謙譲を示すためだったと説明されたが、実際の効果は不明である。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
大山は寡黙で、会議では最後に発言することを好んだ。発言の前には必ず眼鏡を外し、机上の資料を一度だけ揃え直したため、周囲はその動作を「もどし」と呼んだ。
秘書官によれば、極度の寒がりであった一方、真夏でも襟元をきっちり閉めていたという。首相官邸の暖房費が異様に高かった年があり、これは大山が「部屋が温かいと譲歩が早すぎる」と主張した結果であるとする説がある。
語録[編集]
大山の語録として最も有名なのは、「政治は正面突破より、側面補強である」である。また、「一歩進めて半歩戻せば、国民は半歩進んだと思う」とも語ったとされる。
ただし、最後の発言については、後年の支持者が講演録を要約する際に過度に洗練した可能性がある。なお、本人の自筆メモには「戻すなら、見えないように戻すこと」とだけ書かれていたという[5]。
評価[編集]
大山は戦後保守政治の実務家として高く評価される一方、理念より均衡を優先しすぎたとして批判も受けた。とくに若手改革派からは、政策を先送りする技術に長けた人物として「調整の魔術師」と揶揄された。
しかし、財政再建と行政整理の両立を図った手腕は、後の官僚機構に大きな影響を与えたとされる。政敵であった[[社会党]]系議員の一部からも、「倒しにくいが、任せると意外に崩れない内閣」と評された記録がある。
家族・親族[編集]
大山家は江戸期以来の商家の流れをくむとされ、祖父・大山儀右衛門は地元で米穀取引を営んでいた。父の大山義蔵は神田区会から府会へ進んだ地方政治家であり、大山はその系譜にある。
妻の大山ハルは旧制高等女学校出身で、選挙区の婦人会活動を事実上取り仕切ったとされる。長男の大山俊一は通産官僚、次男の大山正弘は地方銀行頭取、長女の大山澄子は教育関係の財団運営に携わった。親族には、甥にあたる大山信次が後年都議会議員を務めたという。
選挙歴[編集]
大山は[[1936年]]の衆議院議員総選挙で初当選したのち、[[1942年]]、[[1946年]]、[[1949年]]、[[1952年]]、[[1955年]]の各総選挙で再選された。いずれも都市部の無党派層と地縁組織を巧みにまとめ上げた結果とされる。
特筆すべきは[[1949年]]選挙で、雨天にもかかわらず投票率が前回比で7.8ポイント上昇したことである。選対本部はこれを「大山傘」と呼び、候補者名を印刷した折り畳み傘を5,000本配布したと報じられた[6]。
栄典[編集]
大山は退任後、[[1960年]]に[[従一位]]を追贈され、[[1968年]]に[[大勲位菊花章頸飾]]を受章した。これに先立ち、[[勲一等旭日大綬章]]も授与されている。
なお、官報の叙位欄には大山の名が異様に多く現れることから、官吏のあいだでは「年末になると位階が繰り上がる男」と冗談めかして呼ばれた。
著作/著書[編集]
大山の著書には『予算と妥協』『戦後政治の余白』『もどしの技術』などがある。いずれも政策論文集に近い体裁で、本人が書いた部分と秘書官の清書した部分の境目が曖昧である。
特に『もどしの技術』は、発売後に国会図書館で貸出待ちが最長113日を記録したとされるが、これは政界関係者の集中閲覧によるものとみられている。
関連作品[編集]
大山をモデルにしたとされる映画『薄墨の閣議室』(1963年)、テレビドラマ『半歩戻って、また進む』(1971年)、舞台劇『大山もど日記』などが制作された。
また、[[1970年代]]の風刺漫画では、黒い傘と小さな定規を持つ姿でしばしば描かれた。なお、本人は漫画について「似ているが、眉が少し真面目すぎる」と感想を述べたという。
脚注[編集]
注釈 [1] 大山の「もど」は、若い頃に帳簿の差し戻し作業が異様に速かったことに由来するという。 [2] この発言は、官邸記録係の手控えにのみ残る。 [3] 神田区商工会の古記録による。 [4] 文部省統計局の再集計版では58.1%とする値もある。 [5] 1978年に公開された遺品整理メモ。 [6] 『東京選挙日報』1950年1月号、ただし部数不明。
出典
参考文献[編集]
山岸 恒一『戦後保守と調整政治』中央公論新社、1988年。
A. Thornton, *Negotiating the Rebound State: Japanese Cabinet Politics, 1945-1960*, Vol. 12, No. 3, pp. 44-79, 1996.
佐伯 俊郎『大山もど研究序説』東京大学出版会、2001年。
M. Ellis, *Fiscal Silence and the Art of Returning One Step*, Journal of East Asian Governance, Vol. 8, No. 1, pp. 101-129, 2004.
高梨 みどり『薄墨の閣議室――大山政治の光と影』勁草書房、2009年。
H. Nakamura, *The One-Half Step Doctrine in Postwar Japan*, Cambridge Political Review, Vol. 19, No. 2, pp. 211-240, 2011.
『大山もど関係文書集』国立政治史料館編、非売品、1975年。
田所 章『もどしの技術と官僚制』岩波書店、2016年。
The Cabinet Office Historical Research Group, *Oyama Modo and the Cabinet of Adjustments*, Vol. 4, No. 4, pp. 7-33, 2020年.
木暮 一夫『予算と妥協の近代史』有斐閣、2022年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
国立政治史料館デジタルアーカイブ
首相官邸歴代内閣データベース
戦後政治人物事典オンライン
日本近代財政研究センター
大山もど記念会
脚注
- ^ 山岸 恒一『戦後保守と調整政治』中央公論新社, 1988.
- ^ 佐伯 俊郎『大山もど研究序説』東京大学出版会, 2001.
- ^ 高梨 みどり『薄墨の閣議室――大山政治の光と影』勁草書房, 2009.
- ^ 田所 章『もどしの技術と官僚制』岩波書店, 2016.
- ^ 木暮 一夫『予算と妥協の近代史』有斐閣, 2022.
- ^ A. Thornton, Negotiating the Rebound State: Japanese Cabinet Politics, 1945-1960, Vol. 12, No. 3, pp. 44-79, 1996.
- ^ M. Ellis, Fiscal Silence and the Art of Returning One Step, Journal of East Asian Governance, Vol. 8, No. 1, pp. 101-129, 2004.
- ^ H. Nakamura, The One-Half Step Doctrine in Postwar Japan, Cambridge Political Review, Vol. 19, No. 2, pp. 211-240, 2011.
- ^ The Cabinet Office Historical Research Group, Oyama Modo and the Cabinet of Adjustments, Vol. 4, No. 4, pp. 7-33, 2020.
- ^ 『大山もど関係文書集』国立政治史料館編, 非売品, 1975.
外部リンク
- 国立政治史料館デジタルアーカイブ
- 首相官邸歴代内閣データベース
- 戦後政治人物事典オンライン
- 日本近代財政研究センター
- 大山もど記念会