大日本帝国領昭南
| 名称 | 大日本帝国領昭南 |
|---|---|
| 別名 | 昭南特別市、南洋昭南区 |
| 期間 | 1942年-1945年 |
| 所在地 | 昭南島南部(現・シンガポール) |
| 管轄 | 南方特別行政局 |
| 主要機能 | 港湾、配給、通貨統制、熱帯衛生実験 |
| 首席行政官 | 松浦貞一郎 |
| 関連法令 | 昭南臨時区画令 |
| 象徴施設 | 昭南中央会館 |
大日本帝国領昭南(だいにっぽんていこくりょうしょうなん)は、期に南部を中心として構想された、日本軍政下の都市再編構想である。正式にはの管轄地として扱われたとされ、戦時行政・港湾管理・熱帯都市計画が奇妙に融合した地域概念として知られている[1]。
概要[編集]
大日本帝国領昭南は、17年の占領直後に、を単なる軍政地ではなく「帝国南方の模範都市」として再定義するために設けられたとされる行政単位である。一般にはと同義に扱われることが多いが、厳密には港湾、居住区、物資集積地を三層に分けて管理する構想名であり、のちにとの折衝資料にも見られるようになった。
この構想は、当初はによる応急措置にすぎなかったが、やがて熱帯都市の衛生、労務動員、配給制度、さらには街路樹の種類にまで及ぶ総合計画へと変質した。昭南の名は、行政文書では冷ややかに用いられた一方、市民の間では「南洋の首都ごっこ」として半ば揶揄を込めて呼ばれたという[2]。
成立の経緯[編集]
大日本帝国領昭南の発端は、3月下旬に方面から到着した行政官・松浦貞一郎が、旧英領の都市機能をそのまま転用する案を提出したことにある。松浦はの倉庫図面に赤鉛筆で区画を引き、「昭南は港である前に、まず整頓された机である」と記したと伝えられる[要出典]。
同年4月には、の補給将校、衛生学者の、測量技師のが合同で「昭南臨時区画令草案」を作成した。この草案では、を官庁街、方面を保留地、を市場圏とする案が示され、地形よりも配給線が優先された点が特徴である。
興味深いことに、昭南の正式名称は数週間ごとに変わっていたとされ、、、の三案が並立した。最終的には、役所が帳簿の表紙に最も字数が多く印刷されていた名称を採用したため、現在の呼称が定着したという説が有力である。
行政機構[編集]
区画と役職[編集]
昭南の行政機構は、内地の県制を模倣しつつも、港湾都市特有の事情に合わせて変形されていた。市域は「第一埠頭区」「第二埠頭区」「熱帯整理区」「物資再分配区」の四区に分かれ、各区には区長ではなく「整理監」が置かれた。整理監は書類の押印数で昇進し、1943年末の時点で最上位者は一日平均17回の再決裁を行っていたとされる。
また、には「街路椰子配置係」という珍職が存在した。これは防風林と景観を両立させるための部署で、椰子の間隔をに統一することを目標としたが、実際にはからまでばらつきがあり、戦後の都市計画史研究では「もっとも南洋的な失敗例」と評されている。
配給と通貨[編集]
昭南では、に加えて「昭南券」と呼ばれる臨時紙幣が流通したとされる。これは本来、倉庫内の物資引換票だったが、あまりに印刷が立派であったため、闇市場で額面のからで取引された記録が残っている。紙幣の端には、なぜかの葉脈を模した透かしが入れられ、偽造防止よりもデザイン会議の長さが問題になった。
食糧配給は一人一日の穀類を基本としたが、実際にはと乾燥魚が混在し、献立表には「月曜:米、火曜:米の影、水曜:未定」と書かれた回覧が残る。なお、昭南の配給係は不思議なほど几帳面で、配給袋の紐の長さまでに統一しようとしたため、住民からは「帝国は結び目にまで命令する」と揶揄された。
衛生と都市美[編集]
昭南のもう一つの特徴は、熱帯衛生を名目とした都市美化政策である。三宅ハルはの配布と並行して、道路脇の排水溝を「視覚上の秩序」として扱う独自理論を提唱し、沿いに白い石灰線を引かせた。これにより蚊の繁殖抑制と軍用車両の誘導を同時に達成できるとされたが、雨季には線がほぼ消失し、結局は地元の子どもが“線を追って帰宅する遊び”に転用したという。
さらに、昭南ではが設けられ、街路樹の剪定高さをに固定する方針が採られた。これは兵士の視界確保が名目であったが、実際には果実が落ちる位置をめぐる住民との交渉を避けるためであったともいわれる。
社会的影響[編集]
大日本帝国領昭南は、軍政都市としては短命であったが、周辺地域の記憶には長く残った。特に周辺では、役所が発行した区画札が戦後も店先の看板板として再利用され、昭南時代の文字様式が“少しだけ威圧的な商店の飾り文字”として定着したとされる。
一方で、この制度は都市の階層分化を加速させた。港湾労働者、官吏、通訳、商人の居住圏が細かく分割されたため、同じ交差点にいながら別の行政区に属する者同士が、税と検札の扱いをめぐってしばしば混乱した。1944年には、方面の倉庫で「自分は隣の区の者である」と主張する搬夫がも待たされた記録があり、戦後の回想録では昭南行政の象徴的逸話として繰り返し引用されている。
批判と論争[編集]
昭南に対する批判は、戦時中からすでに存在した。とくに内部では、過度に細分化された区画が補給を遅らせるとの異論があり、ある参謀は「地図の上では整然としているが、現場では荷車が回れない」と述べたとされる。これに対し松浦は「回れない荷車は、回すだけの書類が足りない」と返したという[要出典]。
戦後の研究では、昭南は「占領地の近代化」を装った統制実験であったとの見方が強い。また、都市美化を担った部署が実際には宣伝映画の背景美術まで兼ねていたことが判明し、行政記録の多くが政策文書というより舞台装置の設計図に近いと評価されている。もっとも、これを単なる誇張とは言い切れず、限られた資材の中で“整って見えること”自体が統治能力の演出だったという指摘もある。
年表[編集]
3月 昭南臨時区画令草案が作成される。
4月 第一回「港湾と都市美の合同会議」が旧館で開催される。
2月 昭南券が追加印刷され、額面より紙質が話題となる。
7月 熱帯樹木課が剪定規定を公布する。
9月 軍政機構が事実上停止し、昭南中央会館は倉庫として転用される。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松浦貞一郎『昭南臨時区画令と港湾再配分』南洋行政叢書, 1944.
- ^ 三宅ハル『熱帯都市における蚊帳と景観の両立』衛生学雑誌 第12巻第3号, 1943, pp. 41-68.
- ^ 田淵義清『南方軍補給日誌 昭南篇』陸軍補給研究会, 1946.
- ^ E. R. Whitcomb, 'Survey Lines and Coconut Canopies in Shonan', Journal of Imperial Urbanism, Vol. 8, No. 2, 1959, pp. 113-149.
- ^ Katherine L. Moore, 'Paper Currencies of the South Seas Administration', Pacific Monetary Review, Vol. 4, No. 1, 1971, pp. 5-29.
- ^ 佐伯正彦『昭南中央会館の設計思想』東亜都市史研究, 第7巻第4号, 1988, pp. 201-233.
- ^ Ng Wei Seng, 'Administrative Fragmentation in Wartime Singapore: The Shonan Case', Southeast Asian Historical Quarterly, Vol. 19, No. 3, 2002, pp. 77-104.
- ^ 小野寺雅俊『昭南券の紙質分析とその周辺』紙幣文化, 第15巻第1号, 1996, pp. 9-38.
- ^ Harold B. Finch, 'When Bureaucracy Became Botany', Transactions of the Tropical Office, Vol. 2, No. 4, 1948, pp. 201-219.
- ^ 山口文彦『大日本帝国領昭南における街路椰子配置係の実態』都市行政史研究, 第21巻第2号, 2011, pp. 55-82.
外部リンク
- 南洋行政文書館
- 昭南都市計画アーカイブ
- 東亜占領地研究フォーラム
- 熱帯軍政資料集成
- 帝国港湾統制史オンライン