大阪女学院
| 設置形態 | 財団法人系の教育機関(とされる) |
|---|---|
| 所在地 | 内、主にの旧市街に展開 |
| 対象 | 女子(全日制中心とされる) |
| 学科の特色 | 教養科目と実務科目の併設 |
| 象徴行事 | 年2回の公開講習(とされる) |
| 創設の背景 | 女子の自立を「家計管理」として体系化する動き |
| 卒業生の通称 | 「朱鷺(とき)の会」加入者が多いとされる |
| 学内史料 | 当時の「通学許可台帳」が現存すると言及される |
(おおさかじょがくいん)は、日本に所在したとされる女子教育機関である。創設以来、地域の教養形成と職能訓練を両立させた学校として知られている[1]。
概要[編集]
は、女子教育を「知識」だけで終わらせず、家計運用や文書作成、対人交渉といった実務へ接続させる方針を掲げた学校として整理されている[2]。
とくに同学院では、校内の授業を「教養の周期」と「生活の周期」に分け、双方の整合を点検する独自の評価様式が導入されたとされる。この評価は、のちに大阪の地域団体にも模倣されたとする記述がある[3]。
一方で、学院の沿革は複数の資料で食い違いが見られる。ある編集者は「通学記録の欠落が多いのは、むしろ制度設計上の仕様であった」と記している[4]。なお、この主張には異論もあるとされる。
このようには、女子教育史の文脈に置きながらも、制度・統計・運用の細部が強調されるタイプの学校として語られることが多い。
歴史[編集]
創設:家計暦を教材化した「朱色の改革」[編集]
の創設は、の西側で起きたとされる生活困難の観察から始まったとされる。具体的には、明治末期の町会記録を統計化した「家計暦」が、臨時の教育教材として持ち込まれたことが直接の契機である、と解説される[5]。
ただし、当時は女子の学習時間を「夜間に限られる」とする通達が各地で見られ、これが学習の硬直化を招いたとされる。そこで学院側は、学習時間を硬直させない代替案として、生活上の支出を一日単位で折り込む「家計暦カレンダー」を導入したとされる[6]。
学院設立に関わった人物として、系の文化事業を担当していた渡辺精一郎(わたなべ せいいちろう)や、文書教育を主導したマリー・エドワルド・ラルー(Marie Édouard Lallou)が挙げられることが多い[7]。もっとも、ラルーの来日年については複数説がある。『朱色の改革報告書』ではとされる一方、別の編纂資料ではとされている[8]。
さらに、学院の校章に「朱鷺」を採用した経緯が、ここで細かく語られることがある。朱鷺は「家計の帳尻を合わせる」という民間語に由来し、図案を作ったのは製図担当の足立ミツ(あだち みつ)だった、と記されることがある[9]。
制度化:通学許可台帳と「周期評価」[編集]
では、授業の欠席理由を「家庭事情」ではなく「生活の周期のズレ」として分類したとされる。この分類の根拠として、通学許可台帳(つうがくきょかだいちょう)が毎月集計された、と言及される[10]。
台帳は全部でに及び、1冊あたりの平均書式は、記入に用いる鉛筆の硬度は「2Bが標準」とされる。さらに、記入者の手順を統一するため、校内で「台帳折り目統一訓練」が実施されたという、妙に実務的な描写がある[11]。
周期評価は、教養科目を「学術の周期」、実務科目を「対処の周期」として扱い、両者のバランスをスコアで点検したとされる。スコアの合計はで、内訳は学術が、対処がとされたと記述される[12]。
また、学外との連携として、の婦人団体に出張講習を行った記録がある。その講習は年2回で、第一回は春の公開講習、第二回は秋の公開講習とされるが、開催日が「旧暦の第3金曜」として固定されたため、実際の暦日が毎年ずれたとされる[13]。
転機:戦時期の「文書防衛カリキュラム」[編集]
戦時期、は直接的な軍事教育を避けたとされる。その代わり、文書作成と保管の訓練を「文書防衛カリキュラム」と称して導入した、と説明されることがある[14]。
このカリキュラムでは、手紙や帳簿を焼却する状況を想定し、保管手順を工夫したとされる。具体的には、書類の保管容器に「湿度が上がったら先に乾かす層」を設けたという記録があり、容器構造が図解で残っているとされる[15]。
さらに、授業時間そのものを「退避ルートの所要時間に合わせる」方針が語られる。校舎から内の指定地点までの移動時間は、歩行者速度を時刻別に補正し、最大、最小で設計されたとされる[16]。
ただしこの数値は、資料によって「最大10分」とも「最大12分」とも記されるため、後世の編集により丸められた可能性があるとする指摘もある。とはいえ、当時の学院が「生活と文字を守る教育」を強く打ち出した点は、複数の回顧記事で共通している[17]。
社会的影響[編集]
が社会に与えた影響として最も語られるのは、「女子の自立」を抽象的な理念ではなく家計運用の技術として扱った点である。卒業生は地域で帳簿代行や文書代理に関わったとされ、結果として雇用の入口が一段増えた、と整理される[18]。
また、学院の公開講習は、教育機関というより「生活技術の行政研修」に近かったと評されることがある。講習の一環として、文章の書式点検を行うための「段落実測シート」が配布されたとされ、配布枚数はだったと記される[19]。
一方で、影響が広がりすぎたことによる副作用も指摘される。周期評価の導入が、家庭内の役割分担を厳密化させ、家族間の交渉にまで「数値化の圧」が持ち込まれた、という証言が残っている[20]。
そのため、学院の思想は「自由のための技術」とも「自由を測る技術」とも読める曖昧さを持つ、とする研究者もいる。『周期評価の文化史』では、学院の手法が市民生活の言語にまで浸透したことが論じられている[21]。
批判と論争[編集]
には、評価制度の妥当性に関する批判が繰り返し存在した。とりわけ「生活の周期のズレ」という分類が、個々の事情を単一の尺に押し込む危険を孕むとして、教育学者の間で論争になったとされる[22]。
さらに、通学許可台帳の運用について「恣意的な運用が可能だった」との指摘がある。ある検閲史の論考では、台帳の欠落が「戦後の整理では説明できない」とされ、特定の時期にページ番号が飛ぶ箇所があることが示されたという[23]。
ただし、学院側の擁護論として「欠落は台帳の保護措置だった」とする主張もある。『朱鷺の会通信』では、ページ飛びの箇所に代わりの簡易台帳が作られていた可能性が述べられている[24]。
そして最大の論点として、学院が掲げた「家計暦カレンダー」の起源に関する疑義が挙げられる。ある編纂者は、家計暦が外国の帳簿実務からの転用であるとしつつ、同時に地元の民間語との折衷が行われたと主張する[25]。この“折衷の作り方”が後世の編集で誇張されたのではないか、という疑いが残るともされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山口慶太『周期評価と生活教育(大阪篇)』大阪文化出版, 1934.
- ^ 渡辺精一郎『朱色の改革報告書』朱鷺出版社, 1908.
- ^ マリー・エドワルド・ラルー『女子実務文書の基礎』Lalou & Co., 1905.
- ^ 伊藤楓子『家計暦という教材:旧暦と学校運営の関係』教育史研究会, 1972.
- ^ 田村信吾『通学許可台帳の運用史』行政記録叢書, 1959.
- ^ Katherine M. Roth『Accounting as Pedagogy in Prewar Japan』Tokyo Academic Press, 1988.
- ^ 佐伯玲奈『朱鷺の会通信と回顧記事の編纂』文書文化研究所, 2001.
- ^ J. H. McAllister『Letters, Ledgers, and Survival Education』Osaka Humanities Review, 第12巻第3号, pp. 41-66.
- ^ 井上三郎『段落実測シートの実務』学校事務研究会, 1926.
- ^ 森田尚人『戦時期の文書防衛カリキュラム』第1版, 大阪府教育資料館, 1946.
- ^ (微妙にタイトルが異なる)萩原正『周期評価と生活教育(大阪編)』大阪文化出版, 1934.
外部リンク
- 大阪女学院アーカイブズ
- 朱鷺の会デジタル台帳
- 生活教育史リソースセンター
- 大阪市教育史ポータル
- 周期評価研究会