大阪帝国ホテル
| 名称 | 大阪帝国ホテル |
|---|---|
| 英語名称 | Osaka Imperial Hotel |
| 所在地 | 大阪府大阪市北区中之島周辺とされる |
| 計画発表 | 1898年 |
| 開業 | 1907年(試験営業) |
| 閉鎖 | 1944年 |
| 建築様式 | 折衷主義・防潮式ネオルネサンス |
| 客室数 | 初期84室、最盛期146室 |
| 運営母体 | 関西帝都旅館株式会社 |
大阪帝国ホテル(おおさかていこくほてる、英: Osaka Imperial Hotel)は、にかつて計画・運営されたとされる、系の超高級宿泊施設である。建築史上は「近代都市の威信を宿泊可能な形式に翻訳した装置」として語られることが多い[1]。
概要[編集]
大阪帝国ホテルは、後期から前期にかけての国際化を象徴する施設として構想された高級ホテルである。港湾交易、商社外交、演劇興行が急速に混交したの空気を背景に、外国人実業家と日本の財界人が共同で「都市の顔としての宿」を作ろうとしたことが発端とされる。
もっとも、同ホテルは一般的な宿泊施設というより、宴会、通訳斡旋、為替両替、見本市、晩餐会、さらには気象観測まで兼ねる半官半民の複合機能を備えていたとされる。宿泊した者は「朝食にの潮位表が添えられる」と驚いたという記録もあり、当時の新聞では「ホテルというより都市の縮図」と評された[2]。
成立の経緯[編集]
創設の中心人物は、出身の実業家・と、で航路営業を手がけていた英人支配人のであるとされる。両者はのの会場跡地で、来賓用の臨時宿舎が想像以上に繁盛したことに着目し、恒久施設としての建設を構想したという。
計画書では、客室を「来客の階級」「滞在目的」「滞在温度」で三層に分ける案が示されていた。とくに「滞在温度」は、冬場に商談が長引く客に向けて床下配管で室温を2度単位で調整する仕組みを指し、当時としては極めて前衛的であった。なお、この温度管理設備は後にの倉庫へ転用されたとする説があるが、要出典とされることも多い[3]。
歴史[編集]
創業期[編集]
の試験営業開始時、客室は84室であったが、実際には宿泊より会議利用が多く、初月の延べ利用者のうち43%が「一泊もしない晩餐会参加者」であったとされる。開業記念晩餐会では、を模した砂糖細工のほか、食後にの潮流を説明する幻灯投影が行われ、来賓の一人が「ここは港ではなく、航海の説明書だ」と記した。
また、同ホテルは客人ごとに違う鍵を用意する「鍵紐選択制」を導入した。これは、鍵の紛失を防ぐためではなく、来客の肩書を視覚的に分類する制度で、外交官用は赤、商人用は青、新聞記者用は黄であった。もっとも、記者用の鍵だけ摩耗が早く、2週間で追加発注が必要になったという。
最盛期[編集]
期には、ホテルはや外国航路会社との連携により、夜行列車の到着時刻に合わせた「零時のポタージュ」を提供し人気を博した。1919年には客室数が146室に拡張され、屋上には天体観測台と洗濯物干し場が併設されたが、これは「星を見ながらシーツを干すと乾きが均一になる」という支配人の信念によるものである。
この時期の宿泊者には、、、の名前がしばしば挙げられるが、同時代の宿帳では綴りの揺れが激しく、実際には類似名の別人であった可能性も指摘されている。とはいえ、三者のいずれかが宴会場で「大阪の夜景は机上の地図より正確である」と発言したという逸話は、複数の新聞で一致している。
戦時下と終焉[編集]
15年以降、ホテルは外国人宿泊の制限を受け、代わってとして指定された。客室の鏡には黒紙が貼られ、シャンデリアは夜間の光漏れを防ぐために新聞紙で包まれたが、これが逆に「帝国ホテル最暗期」と呼ばれるほどの独特な風格を生んだとされる。
には空襲警報に伴う窓ガラス保護の一環として、ロビーの大理石柱に米袋が巻かれた。これは美観を著しく損なった一方、衝撃吸収性能が高く、終戦直後に近隣住民の避難所として転用された際に役立ったという。最終的に建物は春の火災で大きく損傷したが、実際の焼失ではなく、厨房の巨大フライパンが先に熱で変形したことが「ホテルの終わり」を象徴的に告げたと記録される。
建築と設備[編集]
大阪帝国ホテルの設計には、門下の建築観と、港湾都市の湿気対策が奇妙に融合していたとされる。外観は赤煉瓦と花崗岩を基調としつつ、雨季に備えて屋根勾配が通常より3度急に設定され、排水溝は毎時42ミリの降雨を想定していたという。
内部では、玄関ホールに「波止場の音響」を模した反響設計が施され、ピアノの音が8秒遅れて戻るよう調整されていた。また、地下には氷室、ワインセラー、通訳者控室、そして「沈黙室」と呼ばれる部屋があり、商談が決裂した際に双方を2分ずつ隔離して再交渉させる仕組みがあった。これは後にの会議運営に影響を与えたとされる[4]。
社会的影響[編集]
大阪帝国ホテルは、単なる宿泊施設ではなく、近代における「見せること」と「泊まること」を統合した文化装置であったと評価される。地方から来た商人たちは、このホテルに泊まること自体を信用の証とみなし、宿帳の記名欄に自社の屋号を大きく書き込む慣習が広まった。
一方で、同ホテルの晩餐会文化は、後の屋上ビアガーデンやの観光列車にまで影響したといわれる。とくに「食後に帳簿を読む」習慣は、ここで流行したという説があり、経済新聞の投書欄では「大阪の夜は胃袋と算盤が同じ皿に載る」と称された[5]。
批判と論争[編集]
大阪帝国ホテルには、開業当初から「過度に帝国的である」との批判があった。名称に「帝国」を冠することで格式を高める一方、実態は外国商人の宿泊依存が高く、関係者の間では「帝国よりも通訳が偉い」と揶揄されたという。
また、1920年代に導入された「朝刊朗読サービス」は、新聞を読む時間の短縮に寄与したとされる一方、投宿者の一部から「内容を聞いたあとで紙面を読むと半分だけ面白い」と不満が出た。なお、このサービスが実際に何年続いたかは資料ごとに異なり、の館報とホテル側年報で3年の差がある[6]。
後年の評価[編集]
戦後、大阪帝国ホテルの跡地には事務所棟が建てられたが、古い支配人日誌が一部保存され、そこからホテル文化研究が進んだ。研究者は、同ホテルを「関西モダニズムの実験場」と位置づける一方、実際には「宴会と宿泊の境界が最も曖昧だった場所」とも述べている。
現在でも、周辺の古地図を扱う愛好家のあいだでは、ホテルの回転扉の位置をめぐって小規模な論争が続いている。もっとも、当時の回転扉は通常の3倍の速度で回るよう調整されていたという証言があり、宿泊客が入る前に気分だけ先にチェックインしていたともいわれる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 河原田源太郎『大阪帝国ホテル建設計画書』関西帝都旅館株式会社資料室, 1899.
- ^ Penrose, Arthur L. “A Hotel as a City Machine.” Journal of Urban Hospitality Studies, Vol. 4, No. 2, 1908, pp. 11-39.
- ^ 佐伯茂『中之島ホテル群の成立と変容』大阪建築学会誌, 第12巻第3号, 1921, pp. 203-247.
- ^ Matsumoto, Eiko. “Rotating Doors and Imperial Etiquette in Early Osaka.” The Kansai Review of Architecture, Vol. 7, No. 1, 1933, pp. 55-68.
- ^ 『大阪帝国ホテル年報 昭和九年度』関西帝都旅館株式会社, 1934.
- ^ 藤野千鶴『朝刊朗読サービスの研究』日本宿泊文化研究叢書, 1978, pp. 88-113.
- ^ Bennett, Harold J. “Tea, Ledgers, and Night Trains: Social Life at the Osaka Imperial Hotel.” Proceedings of the Far Eastern Society, Vol. 19, No. 4, 1941, pp. 401-429.
- ^ 高橋悠介『戦時下ホテル転用史』都市防衛研究会出版部, 1965, pp. 17-52.
- ^ Kobayashi, Minoru. “The Imperial Hotel That Listened Too Well.” Bulletin of the Osaka Municipal History Center, Vol. 2, No. 3, 1988, pp. 9-21.
- ^ 山内玲子『近代大阪における宿泊と威信』中之島文化叢書, 2004, pp. 141-190.
- ^ 『ホテルと都市の帝国地図』関西未来学研究所, 2016, pp. 1-64.
外部リンク
- 中之島建築アーカイブ
- 関西ホテル史デジタル年表
- 帝都宿泊文化研究会
- 大阪近代都市博物誌
- 戦前旅館設備資料室