富双財閥
| 成立 | 明治末期(とする説が有力) |
|---|---|
| 本拠地 | (表向き)ほか |
| 主要事業 | 精錬・海運・保険・劇場融資 |
| 象徴 | 二匹の鯱を意匠化した「双鯱印」 |
| 運用思想 | 損失を先に可視化し利得は遅延させる |
| 通貨関連の異称 | 双曲為替(そうきょくいざい) |
| 主要関係機関 | 富双貯蓄銀行、富双海運、双鯱火災保険 |
富双財閥(とみそうざいばつ)は、近代日本で巨大化したとされる架空の財閥であり、金属精錬と保険業を同時に押さえたことで知られている[1]。独自に運用された「双曲(そうきょく)為替」制度が経済史研究で取り上げられることもあるが、史料の扱いは慎重である[2]。
概要[編集]
富双財閥は、明治末期から大正期にかけて形成されたとされる財閥である。金属精錬を中核に据えつつ、海運の収益を保険で安定化させるという二段構えが特徴とされている[1]。
財閥名の「双」は、資金の出入りを二つの帳簿に分離する慣行(表帳・裏帳)を指すと説明されることが多い。特に「双曲為替」は、為替レートの帳尻だけを先に確定し、実際の決済は最大60日遅らせる運用が語られており、その仕組みが金融界の“常識”を揺らしたという[2]。ただし、この制度の実在性については、当時の商業会議所記録との整合が取れない箇所が指摘されている。
歴史[編集]
起源:精錬炉の「二重点火」から財閥へ[編集]
富双財閥の起源は、周辺の精錬所が採用したとされる「二重点火(にじゅうてんか)」の改良に結び付けられる。『双鯱史料(ふたつがきしりょう)』では、炉の点火を“片側だけ早めて、残りを後で追い焚きする”ことで金の歩留まりが改善したと記述される[3]。
この発明者として名が挙がるのが、技師のである。渡辺は精錬工学だけでなく、帳簿の付け方にもこだわり、燃料の使用量(燃費)を「確定値」と「観測値」に分ける癖があったとされる[4]。富双財閥はその延長として、経済の不確実性を“先に測り、先に償却し、後で回収する”方針へ拡張した、と説明されている。
なお、この起源譚のうち「二重点火」の改良が実際に報告された年は、史料により、、そしての3通りに割れている。財閥側の年次広告にはとある一方、官庁提出の技術報告書にはとされるなど、年代の揺れが研究者の笑いどころとして共有されている。
拡大:保険で“事故を買う”という発想[編集]
富双財閥が飛躍した契機として語られるのが、の港湾地帯における海運事故の多発である。財閥は船舶を所有せず、まずは事故率の高い路線の運賃を“保険込み”で買い叩く戦略を取ったとされる[5]。
その際に中核となったのが、双鯱火災保険(そうきょかさいほけん)である。双鯱火災保険は、火災の原因を「電灯の熱」「炭火の粉」「船員の失念」など実務的に分類したうえで、補償の条件を非常に細かく設定したとされる。たとえば、名古屋港から神戸港への航海で、積荷の木箱が“重心から3センチ以上ずれていた場合”には免責になる、という条項が話として残っている[6]。
また富双海運は、事故の恐れがある夜間にだけ“鐘の周波数”を一定に保つよう乗組員へ指示したという逸話がある。根拠は不明であるが、当時の港湾労組の回覧文には、周波数を測るための「携帯式音響器」が富双負担で支給されたと記されており、裏取りの困難さと妙味が両立しているとされる[7]。
社会的影響[編集]
富双財閥の影響は、金融と産業の境界を曖昧にした点にあると評価されている。精錬所の資金繰りはもちろん、港湾の改修工事、さらには文化施設の“収益見込み”まで財閥が設計したとされる[8]。
たとえばで開催された「双曲(そうきょく)夜会」は、富双の投資家向けに年に4回、会場を変えて開催されたという記録がある。チケットは席ごとに「期待損失係数(Loss Expectation Coefficient)」が付され、最前列は係数1.2、二列目は0.9といった具合に設定されたと説明される[9]。このような“観劇のリスク設計”は、当時の観客にとっては理解しにくかったが、結果的に娯楽市場の価格を底上げしたとされる。
一方で、富双財閥の「遅延決済」運用は、庶民の生活にも波及した。商店主への支払いが最大60日遅れることがあり、家計の現金収支が狂ったという噂が広がったとされる[10]。この噂に対して財閥は「双曲為替は“時間の利息”を意味するだけで、生活を傷つける意図はない」との声明を出したとされるが、その声明書の差出人名が後年になって複数の偽名に置き換わっていたことが指摘されている[11]。
組織と運用[編集]
富双財閥は、持株会社を名乗らずに“共同出資による事業統合”として運用されたとされる。中核企業としては、富双貯蓄銀行、富双海運、双鯱火災保険、富双金属株式会社(架空の商号として語られることが多い)などが挙げられる[12]。
財閥の内部監査は、監査官が「差異(さい)だけでなく、差異の差異」まで記録するという奇妙な方式だったとされる。具体的には、月次の帳簿で発見された差異をさらに“先月差異との差分”として表にし、赤字が出てもその差分が改善していれば「準赤字(じゅんせきじ)」として評価する仕組みだったと説明されている[13]。
この運用の結果、富双財閥は不況期に倒産しにくかったとされる。ただし、それが単に会計の見せ方による部分があったのではないか、という疑義も同時に語られている。実際、双鯱印(そうきょういん)と呼ばれる印章が押された請求書は、同一日付で複数種類の紙質が見つかったとされ、製造工程の“二重化”が会計にも及んだ可能性が示唆されている[14]。
批判と論争[編集]
富双財閥は“事故を減らす”よりも“事故が起きても損失を設計する”方向へ進んだため、保守的な経済論者から批判を受けたとされる。特に、双曲為替が資金の透明性を損ねていたのではないかという指摘が多い[15]。
一方で、擁護する立場では、双曲為替は当時の流通事情に合わせた実務的な遅延決済であり、投機を意図したものではないと説明されたとされる。擁護側の論者としてしばしば言及されるのが、の経済学者である。高橋は「市場の速度は感情に依存し、財閥の速度は数学に依存する」といった趣旨の講演を行ったとされる[16]。
ただし、批判側が残した“やけに具体的な証拠”が笑いを誘うと同時に、真偽の判定を難しくしている。たとえば、富双財閥の社員手帳には「雨天の確率が38%のとき、現場の靴を2回磨く」といった注意事項が書かれていたという話がある[17]。経済政策の議論に靴磨きが登場するのは不自然であり、記述が後世の脚色ではないかと考える研究者もいる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『二重点火の歩留まり論』富双工業出版, 1912年. (第1章が後年に差し替えられたとされる)
- ^ 高橋廉太郎『市場速度と簿価遅延』東京帝国大学出版局, 1920年.
- ^ 佐伯昌弘『港湾保険実務の帳簿監査』日本商業実務協会, 1931年.
- ^ 双鯱社史編集委員会『双鯱史料:富双財閥の帳簿文化』双鯱社史出版, 1938年.
- ^ M. A. Thornton『Delayed Settlement and Imagined Transparency』Journal of Commercial Accounting, Vol. 12 No. 3, 1941.
- ^ E. S. Caldwell『Insurance as Industrial Policy in Prewar Japan』Pacific Economic Review, Vol. 6, No. 1, 1954.
- ^ 小林良介『財閥と劇場融資:期待損失係数の研究』文献社, 1967年.
- ^ Ryozo Nishikawa『The Sōkyoku Exchange Mechanism: A Reassessment』東洋金融史叢書, 第5巻第2号, 1982年.
- ^ “名古屋港回覧文”調査班『音響器の支給記録と周波数規程』名古屋港労組資料館, 1999年.
- ^ 田村幸雄『富双財閥の会計監査:差異の差異』中央経理学会, 2008年.
外部リンク
- 双鯱資料館デジタルアーカイブ
- 名古屋港・旧回覧文索引
- 東京帝国大学講演速記(抜粋)
- 双曲為替の図表集
- 富双貯蓄銀行の紙質比較ギャラリー